激突
「ホルン子爵」
ライナスが軽く挨拶をすると、相手の名を聞いたエマは何かを心得た様子で軽く腰を屈めて挨拶をする。
愛らしいエマの姿を舐めるように見つめていたホルン子爵は、その動きで彼女の脚が動かないことを察したようだった。
「ああ、君が例のアレか」
その物言いに、エマは表情に出さないようにして鼻白む。ライナスの方は無表情のまま気色ばむのが分かった。
「普段こういった場に現れない男が、一体どんな風の吹き回しかと思ったら。なるほどこちらは、随分愛らしい婚約者だ」
「……彼女を侮辱するのは、やめていただきたい」
ライナスが低い声を出すと、その反応を面白がるようにホルン子爵は唇を吊り上げた。
「侮辱だなんてとんでもない。僕は彼女の素晴らしさを称賛しているんだよ?」
にやりと彼は嫌らしく笑う。エマを支えるライナスの腕に力が籠り、彼女は次の展開が予想出来た。
「……不具の女は、どんな風に啼くのかな」
瞬間、ライナスがホルン子爵を殴ろうとしたが、エマが全力でライナスの腕に縋ってそれを止めた。
「止めないでください、エマ!」
止めるに決まっている。
「いとしいあなた」
エマの冷静な声が、干上がったライナスの思考にぴしゃりと冷水をくれる。ぎゅう、と力一杯彼の腕に抱き着いたエマは、そのまま子爵を無視して一心に彼を見上げた。
「私、疲れてしまいました。早く帰りましょう?」
「……ですが」
ライナスが彼女に言い募ろうとすると、エマは首を横に振った。
「ここには誰もいないわ。だから抱っこしてください、ライナス様」
彼女はハッキリと言って、両腕を差し出す。
「エマ……」
「お早く」
甘えるように彼女が言うとライナスは激しく首を横に振って怒りを散らし、跪いてエマの体を恭しく抱えた。
「お待たせしました、私のレディ」
ライナスの言葉に、エマはニコリと微笑む。
彼らの一連のやり取りにホルン子爵は威勢を挫かれたような表情を浮かべていた。いつもクールなライナスを煽って、わざと怒らせようとしていたのにエマの所為で躱されてしまったのだ。
大理石の階段を、エマを抱いたライナスがゆっくりと降りていく靴音だけがその場に響く。ふと彼は足を止めて、まだ踊り場に立つ子爵と連れの女性を見遣った。
「ホルン子爵。私の可愛い人は争いをお望みではない。だが、あなたはご自分の発言をその内必ず後悔することになるだろう」
「な……!」
ホルン子爵が怒鳴ろうとすると、くすくすとエマが小鳥が囀るように笑った。
「まぁ、怖い。ああ、そうだわ! ……私、便箋を買わなくちゃ」
「?」
愛らしく笑うエマに、ライナスはそんな状況ではないのに見惚れてしまう。しかし、彼女の発言の意味が分からない。
「オーガスタおばあ様に、この前いただいたお手紙の返事を書かなくちゃ」
つつ、と白い指先がライナスの肩に触れて、ちらりとエマは子爵を見遣った。ライナスも彼女の視線を辿ってそちらを見て、驚く。
なんと、ホルン子爵が真っ青な顔をして、連れの女性を突き飛ばして逃げる様に逆方向の階段を降りていくところだったのだ。女性は呆然としているし、ライナスは唖然としてしまう。
「……一体どんな魔術を使ったんですか、エマ」
「私、本当にたまたまなのですけれど、ホルン子爵のこわーいおばあ様の、文通相手なのです」
うふふ、と可憐に笑われて、愛らしい婚約者にライナスは惚れ惚れとした。
その後はもう誰にも会わずに、侯爵家の馬車までたどり着くことが出来た。よく教育されている歌劇場の扉番は、エマにも配慮して大きく扉を開けてくれる。
馬車に彼女を抱えたまま乗り込んだライナスは座席に愛する人を降ろすことなく、自分が座席に座るとその膝にエマを横抱きに座らせた。いつもの体勢である。
「ライナス様」
エマが咎めようとすると、ライナスの長身が彼女に覆い被さってきた。ぎゅう、と抱きしめられてなお、力を加減されているのが分かったのでエマはちっとも怖くはない。
大きな獣に懐かれたかのようで、少し可愛いな、とさえ思う余裕があった。
「申し訳ありません……あなたの耳を汚しました」
大層落ち込んでいるらしい大きな獣は絞り出す様にしてそう言って、エマを抱きしめたまま項垂れている。
体を揺らさないようにして溜息を吐くと、エマは杖でコンコン、と馬車の天井を叩いた。やがて滑らかに馬車が発進する。これ、やってみたかったのだ。
それから杖を座席に放り出すと、エマは自分もライナスを抱きしめ返す。彼が一緒なら、本当は杖はいらないのだから。
ずっと、一緒にいられるのならば。
でもそんなことは許されないから、ライナスには顔を上げてもらわないといけないし、エマは一人で歩いて行かなくてはならないのだ。
慰撫するように、静かな車内に彼女の声が零れる。
「今夜はあなたと、美しい歌声以外は何も聞いておりませんわ。本当に素晴らしい夜でした、オペラに誘って下さってありがとうございます、ライナス様」
彼女がそう言うと、ライナスはますますエマを抱きしめる。
実際、エマはホルン子爵の言葉自体には傷ついていなかった。彼の言葉は彼自身の人格を貶めていただけ、そして攻撃対象はエマではなくライナスだった。
ホルン子爵はエマに侮辱的なことを言うことで、ライナスを傷つけたがっていたのだ。この様子を見ていると、それは成功してしまっている。
「すみません、エマ……」
彼もそれが分かっていて落ち込んで、悲しんでいる。ライナスは可哀相だ。
彼を傷つけられた方が、エマはずっと辛い。エマがいなければ、彼はこんな思いをしなくて済んだのに、と思うとそのことが悲しかった。
彼女は精一杯両腕を伸ばしてライナスの頭を抱きしめると、慰めるように優しく彼の絹のような黒髪を撫でた。さらさらと指の間を零れる黒糸は、車窓から入り込む僅かな街灯の灯りにきらりと輝く。
こんな時、エマはライナスのもっと傍にいきたくなる。彼にもっと近づいて、額にキスをして大丈夫だよ、と言ってあげたい。なんにも心配いらないよ、と言って笑顔にしてあげたい。
けれど身代わりで呪いを受けたことで彼の婚約者の座を射止めただけの、責任を取る為に結ばれた存在であるエマには、ライナスをそんな風に慰める権利はないように感じてしまうのだ。
それは誰か別の、彼に相応しい人の役目であるように、思うのだ。
僅かに揺れる馬車の中、ライナスとエマはいつまでもそうして抱きしめあっていた。