余韻
やがて会場が暗くなり、舞台に歌姫が現れた。
今夜ライナスがリザーブしてくれたボックス席は少人数用のそれで、部屋としては狭い。けれど勿論一人用ではないのだからエマは空いている他の椅子に座って鑑賞したかったが、相変わらずしっかりとライナスの膝に乗せられている。
彼の大きな掌は当然不埒な動きをすることもなく、しっかりとエマの腰を支えているだけで極めて紳士的だ。だが、初めての場所に来た緊張が落ち着いてくると、今度は彼女の方が意識してしまって恥ずかしい。
よく考えると、ここは屋敷ではないのだ。いや? そもそもよくよく考えると、屋敷で会う際も別に頻繁に移動するわけではないのだから、膝に抱かれる必要はないのでは?
エマの思考が彼にとって不利な方向へと向かっていることを察知したのか、ライナスの温かな掌が注意を促すようにとんとん、と華奢なエマの肩に触れる。
「エマ。今歌っているのは、王都で人気の歌姫なんですよ」
「え?……ええ、そうなんですか。まぁ、なんて伸びやかな声!」
ハッとして、エマは慌てて口元を手で覆いつつ感嘆の溜息をつく。
領地にも小さな劇場はあるし、舞台を見たことがないわけではなかったが、やはり文化と芸術の集まる王都で人気だという歌姫の歌は、発声からして違うことが素人のエマにもよく分かる。
思わず身を乗り出す彼女を危なげなく支えて、ライナスはエマをうっとりと見つめた。
きらきらと目を輝かせている様は、屋敷で会っているだけでは滅多にお目にかかることがない。本当はあちこちを案内して、エマにこんな風に喜んでもらいたいのだが、右脚が動かないこと以上に彼女は目立つことを厭っているので、ライナスとしても遊興に誘うことに戸惑いがあった。
そうと分かりつつも、ついしつこく誘ってしまうのはライナスが、エマを、楽しませたいという我儘の所為だ。
感性の豊かなエマは今やもう歌姫の虜で、舞台で光を浴びる彼女を熱心に見つめている。意識を集中している所為で体の方の緊張は解け、ライナスに身を預けて全身で歌を享受していた。
「ライナス様! お聞きになりました? 今の高音! どうしてあんなにも素敵な歌声が出せるのかしら」
「ええ、本当に」
興奮するエマをしっかりと抱えて、ライナスの方もこの幸福を享受する。いとけないなりに、外では気を張ってしっかりとした令嬢として過ごしているエマが、これほど気を抜いてくれているのはライナスだけなのだと、今だけは自惚れていたい。
「ああ……とても美しいわ」
「……同意見です」
エマは、とても美しい。
幕が下りた後、エマは放心した様子で溜息をついていた。
いつの間にか彼女の膝の上にはライナスの手があり、その大きな手をエマの小さな両手がしっかりと握りしめている。
興奮したり、注目して欲しい時にエマはその手を引っ張ったり叩いたりしてライナスに感情を知らせていたのだ。勿論、彼にとっては予想外の喜びだった。
「はぁ……なんて濃密な時間かしら。今夜は連れてきてくださってありがとうございます、ライナス様」
嬉しそうに屈託なく微笑むエマは、本当に珍しい。ライナスは先程の歌姫に、どっさりと感謝の花を贈ろうと決める。
「いいえ、あなたに喜んでもらえて私も嬉しいです」
ライナスが応じると、エマははにかむ。あらかた客が帰ってからゆっくり出ようと先に話し合っていたので、二人はそのまましばしお喋りに興じた。
「会場の隅々まで響き渡るなんて不思議ですね、魔術を使って拡声しているわけではないのでしょう?」
「ええ、あれは歌姫の技術ですね」
「まぁ……本当に素晴らしいわ!」
今夜の感想を嬉しそうに話すエマはライナスの手を握ったままで、彼の幸福な気持ちを募らせる。
「私も練習すれば出来るかしら……」
ううん、と悩むエマは小さな子供のようだ。ライナスの方もリラックスして微笑んだ。
「講師を屋敷に招きましょうか?」
「いやだ、冗談ですわライナス様! 人前で歌ったりなんて出来ません……」
ぱぁ、と朱が散るようにエマの白い肌が赤面する。昼間に会うことが多いので、普段は隠されている首筋などが色づく様は、目に毒だ。
いつまでもこの幸福な状態を維持していたかったけれど、そうもいかない。あまり遅くならない内に、大切な彼女をきちんと屋敷に送り届ける責任がライナスにはあった。
「……さて、そろそろ出ましょうか」
「あ、はい……」
ほう、と夢から覚めたように一つ溜息をついて、エマはするりとライナスの手から自分の手を離す。小さなぬくもりが離れたことがたまらなく寂しくて、彼はその行方を視線で名残惜しく辿ってしまった。
出来ることならば、ずっと抱きしめて手を繋いで過ごしたい。その権利が彼にはある筈なのに、到底許されることだとはどうしても思えないのだ。
人気のかなり減った歌劇場のホール。
どうしてもボックス席となると上階にある為、帰る際には階段を使う必要がある。エマに手を貸しながら、ライナスはゆっくりと彼女と共に階を下っていた。
「おや、アーノルド卿じゃないか」
そこに若い声がかかる。
見れば香水臭い女の腰を抱いた、放蕩で有名なホルン子爵がいてライナスの顔から表情が消える。
子爵は既婚者であり、このような貴族の社交の場に明らかに夫人ではなくそうと分かる職業の女性を連れて来ることは非常識だ。せめてエスコートするならば、相手の女性の職業が一目で分かるような服装のまま連れて来るべきではないだろう。彼女にも周囲にも失礼だ。
案の定、子爵の連れの女性の煽情的な服装を見たエマは、借りて来た子猫のように固まってしまっている。
安心させるように彼女を引き寄せると、エマの薄青い瞳がライナスを不安そうに見つめた。