そして、末永く続く。
これは、それからの話である。
茂みに隠れてライナスに死の呪いを放ったのは、何とコダ・ブレークだった。
彼は五年前、成人したばかりで王城勤めの為の研修を共に受けていて、その際に彼に成績で負けたことを根に持っての最初の犯行だったのだ。
その時はエマの所為で失敗し、若さ故にカッとなっての行動だった為、誰にも見つからなかったことを良いことに自分が犯人だとは名乗り出ることはなかった。
それから五年。
ライナスへの恨みはかなり忘れかけていたものの、彼があの出来事をきっかけに婚約したエマ・ウィンストンの主治医として接する内に、コダは彼女を愛するようになっていった。
エマがライナスから離れようとしていることを知った彼は、まず五年前の呪いを解いた。これでエマにもライナスにも婚約を続ける大義名分はなくなる。
それからエマのことを手に入れたい、と考えたコダは彼女に未練が残らないように今度こそライナスを亡き者にしようと画策した。園遊会は人目を避けて白昼堂々彼を襲うのにぴったりのシチュエーションだったのだ。
そうして、ベンチの側に膝をつくライナスの背に向けて、コダは呪いを放った。まさかライナスの影に隠れて見えていなかったがそのベンチにエマが座っていて、呪いに気付いてライナスを再び身を挺して庇うだなんて夢にも思わずに。
「ああ……エマ、やはり私が抱えて行きしょう」
「んもぅ! 邪魔なさらないで、ライナス様!」
はらはらと心配そうなライナスの声が廊下から聞こえて、その向こうで仕事をしていたメイド達は音に出さないようにしてフフフ、と笑う。
こっそりとそちらを伺うと、杖を持たずによろよろと歩くエマと、その後ろを心配そうに付いて回るライナスの姿があった。エマが少しでも転ぼうものならば、床に倒れ込む前に必ずライナスが抱き上げるつもりなのがよく分かる位置取りだ。
右脚の動くようになったエマは、血は通っていたものの筋力が著しく衰えている為なるべく平坦なところを歩く練習をして、慣らしていくように、と魔術師からも医師からも言われていた。
以来、こうしてせっせとリハビリに励んでいるのだが、過保護な婚約者はそれが心配で心配でならないらしい。
一度など彼が屋敷に着いたタイミングで、エマがちょうどすってんころりんとばかりに転んでいるシーンを見てしまったものだから大変。その日、エマは一日中ライナスに抱っこされて過ごすハメになったのだ。
同じ轍は踏むまい、とエマは彼のいる前では特に慎重に歩く練習をしているのだが、それでもひよこのように付いてくる美丈夫は一向に油断してくれない。
「……何かお喋りしてください、じっと見つめられていては背中に穴が開きそうですもの」
慎重に歩きながら、エマがライナスに意地悪を言う。彼は雑談がとても苦手だ。
愛する婚約者の願いなので、彼はうんうん悩みながら結局以前から考えていたことを口に乗せる。
「領地から義父上と義母上がこられたら、結婚の話を進めましょう」
さすがに今回の騒動で、領地にいるエマの両親も心配して王都に来ることになった。呪いが解けた報せとほとんど同じタイミングで届いた騒動の顛末の記された手紙に、さぞかしのんびり屋の子爵夫妻は仰天したことだろう。
「結婚式は全てあなたの望み通りにしましょう、エマ」
ライナスが先程よりも近くにいる。エマは抱き上げられる気配を察知して、手を掲げて阻止した。
次の角まで、と今日のメニューは決めているのだ。彼はいない時もあるくせに、いる時だけこうしてエマのペースを乱すのはよくないことだときちんと教えなくては。
「とりあえず壁がなくても真っ直ぐ歩けるようになってから、ですね」
甘やかしてはならない、と厳しい口調でエマが言うとライナスは目に見えてしょんぼりとした。ようやく実った恋、いっそ明日にでも結婚してしまいたいぐらいなのだ、彼は。
やれやれと溜息をついて、エマは僅かに表情を曇らせる。自分だけ、こんなにも幸せでいいのだろうか。
コダのことはエマにとって、とてもショックなことだった。
彼がライナスのことをひどく軽率に殺そうとしたこと、それを五年もの間黙っていたこと。そしてその彼の放った呪いを受けたエマをずっと診察し続けていたこと。
コダの中でどんな心の動きがあって、それらが矛盾なく収まっていたのか、エマにはとても想像出来ない。
牢に入れられて刑が下るのを待っているコダに、エマは面会に行くつもりはない。
呪いを放ったコダ、に会ってしまったら、エマの主治医をしてくれていたコダが死んでしまうような気がしているのだ。
彼の罪は罪。けれど、彼の今までの他の行いも全て否定することは違うように感じるのだ。
だがそうなると、ライナスを殺そうとしたことを上手く咀嚼出来なくなってしまう。もっと単純に、コダのことを憎むことが出来ればよかったのに。
今回の件でエマは、人はあからさまに悪い顔をしているわけではないのだ、ということだけはよく分かった。エマの診察をしてくれていた時の、穏やかで優しいコダも確かに彼の一部なのだ。
あの顔も、ライナスを殺そうとした顔も、エマのことを愛しているという顔も、全て彼の顔。
思考に沈みながら歩いていると、いつの間にか廊下の角まであと一歩、というところまで来ていた。
「きゃっ」
そこでふわりと、エマはライナスに抱えあげられてしまう。
「ライナス様! もう邪魔なさらないで、とあれほど……」
「もうあと一歩です。それぐらい恋人に譲歩してくれてもいいでしょう?」
彼は晴れやかに笑って、エマの体を抱きしめる。
そのまま居間まで運ばれてしまい、顛末を予想していたらしいジルやメイド達ににこにこと微笑まれて迎えられた。既にテーブルにはお茶の用意が万端整っていて、あとはエマとライナスの到着を待つばかり。
いつものようにほとんど振動なくライナスの膝の上に降ろされたエマは、頬を膨らませて年上の婚約者を睨みつける。
「ライナス様」
「何もかもに、整理をつけなくても、焦らなくても良いのですよ」
「……え?」
突然そう言われて、エマは薄い青の瞳を見開いた。ライナスは穏やかに笑って、エマの額にかかる髪を耳にかけ、指の腹で頬、顎へと降りる。
彼の温かい手に触れられると、エマは自然と安心して落ち着くのだ。ずっとここにいたい。
「今回の件で、憎むのも憎まれるのも、それは私のものです。あなたは、あなたの気持ちをゆっくりと整理すればいいのですよ」
「……彼を、憎まなくてもいい、と?」
彼女が目を細めると、ライナスはコダに嫉妬していたとは思えないほど落ち着いた様子で頷いた。
エマさえ傍にいてくれるのならば、ライナスはどれほどにだって強くなれる。
「それも、あなたが決めることです」
単純にコダを憎むことが出来ればよかった。
ライナスは大した理由もないのに命を狙われたし、エマは五年間脚が動かなかった。憎むには、怒るには十分な理由だ。
けれど、エマはコダのことを知っている。あの変な苦い薬草茶と、冷たい掌の、穏やかに笑う人だ。
物事がもっと単純だったなら、よかったのに。まだエマは答えを出せそうにない。
「……あの狭量な方と同じ方だとは、とても思えませんわ」
「それを言わないでください、反省しています」
とん、とエマがライナスに体重をかけると彼は苦く笑う。
互いに互いを思うあまり言葉が足らず、随分遠回りをした。ライナスは彼女を愛しているがゆえに恋心を告げられなかったし、エマは彼を愛するあまりに自分から解放しなくてはならない、と思い込んでいた。
同じものを見つめながら、全く違う方向を目指していたのだ。
まだ整理のつかないことはたくさんあるし、これからのことで考えなくてはならないこともたくさんある。
でもライナスとエマは婚約者で、恋人で、これからもずっとずっと一緒にいるのだ。時間はたっぷりとある。
「……結婚式より前に、私、やってみたいことがたくさんあるんです」
「教えてください」
明るくなったエマの声に、ライナスは瞳を輝かせる。
「まず乗馬! カッコいいとずっと思っていたのです、馬に乗って遠駆けをしたいです」
「ほう。領地の屋敷には良い馬を揃えています、今度そちらに行きましょう」
乗馬はライナスも得意だ。共通の趣味を持てるのは喜ばしい。
「あ、領地に行くなら狩猟も出来ますか……? 父はダメって言うんです。あと本当に登山もしてみたいし……冬にはスケートも!」
うきうきとエマが指折り数えるのを見て、ライナスはぱちぱちと瞬きをした。
「意外とお転婆なのですね、知りませんでした」
「お嫌いになられます?」
そんな彼に、エマは余裕たっぷりに笑ってみせる。こちらも、あれほど頑なに恋心を隠していた少女と同じとは思えない程の開き直りぶりだ。
恋を実らせて、エマは蛹が蝶に羽化するかのように徐々に本来の自分を取り戻しつつある。もしもこれで嫌われてしまったら、もう一度好きにさせるまで、と考えるほどには強気である。
でもその心配は必要ない。
「いいえ、もっと好きになりました。愛しています、私のエマ」
だってライナスは始めから、勇敢なエマのことが好きなのだから。
ふふっ、と笑ったエマは、内緒話をするようにこっそりを彼の耳元に囁く。
「あとひとつだけ、どうしてもライナス様にお願いがあるんです」
「何でも叶えましょう、あなたの望みならば」
今期の社交シーズンの最後を飾る、王城で催される最も大きな舞踏会にエマはライナスにエスコートされて出席する。
そこでエマはライナスの色を纏い、エマの色を身に着けたライナスとダンスを踊る。
ずっと諦めていたことを、もう諦める必要はないのだ。
これからも、ずっと。
これにて、臆病者の溺愛は終了です!
ジレジレにお付き合いくださってありがとうございます!たくさんの方に読んでいただけて、エマとライナスの物語はとても幸せなものになりました。
本当に、ありがとうございました!!