臆病者の溺愛
エマの方に向いて跪いているライナスの死角。彼の後ろの茂みから、いつかの様に何か、が真っ直ぐに飛んで来たのだ。
彼女の方からすれば真正面から、見覚えのある忌まわしき何かが飛んでくる様はハッキリと見えた。恐らくとてもスピードは速いものだったのだろう。けれど、彼女にはまるでスローモーションのように感じられる。
細かい経緯は忘れているものの、この軌跡だけはエマはハッキリと覚えていた。
地を這うように、芝の上をただ真っ直ぐにライナスに一直線に向かってくる、光の軌跡。
これは、ライナスに死を齎す忌まわしきもの。あの幼い日のように素早く動くことは出来ないが、エマは力一杯彼の体を押して、角度を僅かに変えた。
それでも飛んでくる何かはライナスを追跡するように、飛行の角度を変える。
「エマ!?」
ライナスが驚いた様子で声を上げたが、エマは次に杖で力強く地面を踏みしめて彼の前に立った。
何度でも、この呪いと彼の間に入ろう。
ライナスの命を救ったことを、エマはただの一度も後悔したことはないのだから。
次は左脚だろうか、それとも今度こそライナスの代わりにエマの命を奪うのだろうか。どちらでもよかった。
愛する人を、守ることが出来るのならば。
エマが前に出たことで、ライナスは何かが彼に向かって飛んでくることに気付いた。
しかし、先程角度を変えたように呪いは真っ直ぐにライナスを目指して飛んでくる。エマが盾に立って止まる以外に、ライナスが助かる道はないかのように見えた。
だが、この一瞬よりも短い刹那。
ライナスは眦を吊り上げてエマを抱きしめると、彼女の持つ杖を奪いそれを体の前に掲げた。
「ダメです、ライナス様!!」
エマの悲鳴が上がるが、ライナスは無理をして強気に微笑んでみせた。何度でも彼女はライナスを守ろうとする。
だが、その心ごと守ると、ライナスは誓ったのだ。
パァンッ!と大きな音がして、杖と何か、が真正面からぶつかり、杖の握りに飾られていた宝石が砕け散る。
「衛兵!! そこの茂みだ、逃がすな!!」
ライナスが大声で怒鳴ると、各地に配置されていた衛兵達が茂みへと突撃していく。喧騒が溢れ、客達の悲鳴と怒号が飛び交う中、エマの華奢な体を抱き上げたままライナスは厳しい視線で渦中を睨みつけていた。
彼の首に抱き着いた形になるエマは、そんな怖い顔のライナスを驚きと共に見つめる。
「ライナス様」
「エマ! 何故あんな無謀なことを……五年前はあなたの命を奪うことはなかったけれど、今回も無事とは限らないんですよ!?」
ライナスに初めて怒鳴って叱られて、エマはとてもとても驚いた。彼は温厚な人柄とは言えないけれど、エマに向かってこんな風に怒ったことは今までになかったのに。
「……だって」
小さなエマの唇が、わななく。そしてまた、薄い青の瞳からぽろぽろと涙が零れた。
今度はそれに、ライナスが狼狽える。エマは楚々とした見た目とは裏腹に、芯はしっかりとしていて実は気が強く、頑固な一面がある。
その為彼の前では絶対に泣いたりしなかったのだ、なのに今日は涙の大盤振る舞いである。
「だって、ライナス様……死んじゃうかと、思ったのだもの……」
幼子のようないとけない口調で喋り始めたエマの、その瞳からは止めどなく涙が零れ続けている。拭うこともなく真っ直ぐライナスを見つめてそう言う姿は、場違いにとても美しかった。
「私は……命を狙われた経験があるので、対策を講じています。あなたに守られずとも、呪いを防ぐことは出来ました」
「だって」
「もうこんな危ないことはしないでください……あなたは、私を守る必要なんてないんです」
ライナスの発した言葉に、エマの瞳からひと際大粒の涙が溢れる。
「嫌よ、何度でも守るわ」
「何故です!」
カッとなったライナスに怒鳴られて、エマの方も気の強さを発揮する。そして叫んだ。
「愛しているからよ!!」
白い頬には痛々しく涙の軌跡。青い瞳のふちも赤くなってしまっていて尚、エマは潔く美しく、勇敢なライナスの英雄のままだった。
そんな彼女が、ライナスを愛している、と言った。
「……本当に?」
信じられない気持ちで彼が訊ねると、エマは顔を顰める。疑われたと思ったのだ。
「そうよ、悪いですか? 好きでもない方の為に何度も命を賭ける程酔狂ではないつもりですわ!」
止めどなく零れる涙。ライナスはたまらなくなって、エマを抱きしめた。
「私も愛しています」
「だからあなたを守ることは……え? え? 今、何と……?」
あまりにもあっさりと告げられたものだから、エマはきょとん、と目を丸くした。驚きで涙も引っ込む。
そういえば先程も愛していると言われたのだった、と今更ながら気づく。飛んでくる何かの方に気を取られてしまい、意識することが出来なかったのだ。
「エマ。エマ・ウィンストン。あなたのことを愛しています。今日はそのことを、あなたに告げたくてお誘いしたのです」
真摯な銀の瞳にかちあって、青い瞳からまた涙が零れる。
「ほんとう?」
「ええ、本当です」
大きな獣のように鼻をこすり合わせると、エマは目元を和ませた。ライナスの真っ直ぐな瞳を疑ったことはない。
ずっと、ずっと。
ライナスのことが好きだった。誰もが羨む素晴らしい婚約者。エマだって、当然好きになるに決まっている。
彼は見た目ほど完璧な人ではなかったけれど、もっとずっと可愛らしくて素敵な人だった。そんなライナスをたった一度、たまたま命を助けたからといって、何も持っていないエマに縛り付けるようなことをしたくなかった。
愛しているから。彼に幸せになって欲しかった。
でも、そんな彼が、エマのことを愛していると言うのだ。
彼がそう言うのならば、これは真実なのだ。
「……うれしい、夢みたい」
にっこりと笑うエマは、美しい。ライナスもとびきり嬉しくなって、彼女の唇にキスをした。
「ライナス様!」
ぴゃっ! と小動物のように跳ねて、エマはライナスの腕の中で身じろぐ。彼は朗らかに笑って、恋人に許しを乞うた。
「杖を台無しにしてしまいましたね……また改めて新しいものを贈りましょう」
やがて静かな声に言われて、エマは首を横に振った。
「魔法がかかっていたのですか? この杖に?」
ライナスは片手でエマを抱き上げている。もう片方の手に持つエマの杖は歪にひしゃげ、握り部分から縦にパックリと割れていた。その杖が呪いを代わりに受けて、犠牲になったことは明らかだった。
「……ええ。本来はこんな風に使うつもりはありませんでした。あなたを……不測の事態から守ることが出来るように、と仕込んだものだったのですが」
せっかくの杖を台無しにしてしまったことに、ライナスは実はしょげていた。
呪いを肩代わりさせる為ではなく、例えばライナスが一緒にいない時に事故から守るだとか、暴漢から守るだとか、そういった用途の為に王城の魔術師に依頼して仕込んだ特注の守りの魔法石だったのだ。
「……ひょっとしてもう一本の杖の方にも……?」
あちらの杖にも、握り部分に宝石があしらわれていた。エマが目を丸くしたまま聞くと、ライナスは渋々頷く。
「勝手なことをして、とお怒りになりますか……」
垂れた尻尾と耳の幻覚が見えそうな、叱られることに怯えている大きな犬が見えるかのようだ。
エマは呆れて、それから緊張が解けてくすくすと笑った。
「いいえ。……いいえ、ライナス様。守ってくださって、ありがとうございました」
ころころと笑ってエマは感謝の言葉を述べる。そんな彼女に、ライナスの方も警戒を解いて改めてその華奢な体を抱きしめた。
「ああ……あなたが無事でよかった、愛するエマ」
ライナスの低く落ち着いた声が、密着した部分から振動となってエマに伝わる。頬を朱に染めた彼女は、それでもその甘美な言葉を全身で受け止めたのだった。