ライナスの英雄
春の木洩れ日の下。
エマの白い頬に、ちらちらと揺れる新緑の影がかかる。ほろほろと零れる涙は、彼女のその頬を伝った。
ライナスには、どうすれば彼女が泣き止んでくれるのかが分からない。
「ごめんなさい、ライナス様。ごめんなさい……私、お話を聞くのが、怖い……」
泣きながらただ謝り続けるエマを見て、ライナスは頭の芯が燃えるように熱くなる。
彼はかつて、騎士を目指していた。
名門侯爵家に男子として生まれたものの、彼よりも数年先に生まれていた兄が後継者として申し分のない才覚を持っていた為、ライナスは好きに将来を選ぶことが出来た。
騎士を目指したのは、体格に恵まれていたことと体を動かしての訓練が苦にならなかったこと、そして何より人を守るという職業が自分の気質に合っている、と感じていたからだ。
自分は誰かを守る側の存在なのだと、信じて疑っていなかった。
だから五年前、今よりももっとずっと小さなエマに、命を助けられて非常に驚いたのだ。周囲の者はたまたま彼女がそこにいて、ライナスに向かっていた呪いに当たってしまったと考えているが、ライナスとエマだけはそれは違うと分かっている。
エマは自分の意思で、呪いの前に立ちはだかった。彼女は自分の勇気でもって、ライナスの命を助けてくれたのだ。
怖いもの知らずだと、それを蛮行だと言う者が令嬢としての彼女を罵る可能性があったので、あえて二人とも周囲の誤解を解こうとはしなかったが、あの時からライナスは勇敢なエマをずっと尊敬している。
自分よりも幼くか弱い彼女は、ライナスの英雄なのだ。
そんな勇敢な彼女が、話を聞くのが恐ろしいと言って泣いている。咄嗟に、話などないと嘘をついて何もなかったことにしてしまおうか、とライナスは考えた。
だが、エマの勇敢さを思い起こすとそれは違う、と改める。エマはいつもライナスに向き合ってきてくれた。
だというのに、彼がこれまで言い訳を理由に逃げ回ってきたから、二人の心はここまで離れてしまったのだ。
気丈なエマが恐ろしい、という原因はまさにライナスの臆病な心が作り出したもの。
呪いが消えた今、この曖昧な関係がライナスがエマに愛を告げることによって変化するとしても、彼はそれを受け入れる義務があった。
そして、どのように変わろうとも、ライナスは相変わらずエマの望む存在でいる、ということをきちんと告げて彼女を安心させてあげるべきだ。
あの五年前に、彼女の前に跪いて求婚した者として。それがあの日の、ライナスの命の恩人に対する正しい恩の返し方だと思えた。
彼女の勇気には敵わないけれど、ずっとライナスは彼女に憧れていたのだから。
静かに泣き続けるエマの小さな手を、ライナスはそっと握る。
彼女の薄青い瞳が彼の方を見て、また涙を溢す。
エマはライナスの言葉が怖い、けれどこの恐ろしさから助けてくれるのもまたライナスしかいないのだ。
すん、と鼻をすすり、真っ直ぐにエマはライナスの銀の瞳を見つめる。やはり、その心の強さにライナスは惚れ惚れした。
何もかも捧げるのならば、彼女がいい。エマでないと、嫌だ。
「エマ。どうか聞いてください」
「…………はい」
瞳から、ほろりと涙がこぼれる。
「呪いがなくなった今、あなたを解放してあげるべきなのだと分かっています。こんなことを言うのは、あなたのこれからの妨げにしかならないのかもしれませんが、どうか告げる私の勝手を許してください」
「?」
彼の言っている意味が分からずエマは不安そうに視線を彷徨わせて、痛みに耐えるように視線を下げていく。
膝の上には、ライナスの大きな手に握られた自分の手。見慣れた筈のその光景が、刻々と終わりに近づいているのだと思い込んで、胸が苦しくなる。
ライナスは緊張で震える喉に、息をついて空気を送った。
美しいものを見るとエマに見せたくなる。美味しいものを食べると、彼女に食べさせてあげたくなる。
幸せな時を共に過ごしたいし、悲しい時は傍にいて支えたい。ライナスが悲しい時も傍にいて欲しい。
ずっと彼女の傍にいる権利が欲しい。
断られたとしてもそれを区切りにして、新しくエマを支えられる存在になるから。彼女からは何もとりあげたりしないから。
この臆病な恋心の存在を、どうかいつものように笑って許して欲しい。
「……愛しています、エマ」
「え……」
ハッとした様に顔をあげたエマの元に、いつか嗅いだことのある香りが届いた。
「……これって」
何なのかは咄嗟に思い出せなかったが、今それを感じるのはおかしい、ということは本能的に悟る。ライナスの手をぎゅっと握りしめ、視線を周囲に彷徨わせた彼女の瞳に、あり得ないものが飛びこんで来た。
そして再び、事件は起こった。