ほどけて、離れる
「……あの、ええと」
エマが思い切って口を開いたのと、ライナスが立ち上がり彼女をそっとソファに下ろしたのはほぼ同時だった。彼はいつもエマのことを王様よりも丁重に扱うので、突然動き出されてもちっとも怖くはない。
しかし何とか口を開いたものの、何を言うか決めていなかったエマが戸惑っている間にライナスは彼女に背を向けてしまう。
「ライナス様!」
「あなたを責めるような言い方をして、申し訳ありません。……狭量な私が、悪いのです」
「狭量……?」
自分が愛されている為、ライナスがコダに嫉妬しているのだとは夢にも思わないエマである。ポカン、と小さく開いたままのその唇に触れたい衝動を耐えて、ライナスは応接室を出ようと大股で扉の方へと歩き出した。
「待ってください!」
彼をこのまま行かせてはいけない、とエマは声を上げたがライナスは振り向いてくれない。彼を呼んでも、振り向いてくれないことがこんなにも悲しいものだとは思っておらず、初めてのことにエマは混乱した。
「ライナス様……」
「時間をください、頭を冷やしてきます」
話をしようと再度彼の名前を呼んだエマに、ライナスは一方的に告げて部屋を出て行きそのまま戻っては来なかった。
ライナスを引き止めようと、夢中になって慌てて立ち上がったエマは動かない右脚をもつれさせて柔らかなカーペットの上にどさりと転ぶ。
「あっ」
「お嬢様!!」
慌ててジルやメイド達が駆けつけて来て、小さな彼女の身を起こした。使用人達の手を借りて、エマはそろそろとソファに座り直す。
すると、開いたままの扉から執事がやって来て、エマの様子を見て痛まし気に目を細めた。
「……ライナス様は、王城にお戻りになりました」
先程までライナスが傍にいてくれたおかげで安堵していた眠気などもすっかり吹っ飛んでしまい、エマは今、ただただ寒い。少しでもましになれば、と自分の腕を擦りながら、エマは無理矢理に皆に向かって微笑んでみせた。
「そう……お騒がせしてごめんなさい。皆、どうか気にしないでね。ちょっとした……婚約者同士のちょっとした痴話喧嘩のようなものだから」
真っ青なエマの顔を見れば、そのような微笑ましいものではないことは誰の目にも明らかだったが、エマが何でもないことのように振る舞いたがっているのを見ると、皆何も言えなくなってしまう。執事は恭しく頷き、精一杯気を張っているお嬢様がこれ以上傷つくことのないように切に祈った。
その夜には、エマの両手いっぱいでも足らないぐらいの大きく豪奢な花束がライナスから送られてきた。甘い花の香りと春の夜の清涼な風が、彼女を慰撫するようにほのかに漂う。
手紙には、昼間は大人気なく嫉妬して申し訳なかったこと、もし良ければ次は園遊会に一緒に出かけて欲しい旨が書かれている。
「嫉妬?」
それではまるでライナスがエマのことを好きであるかのようだ。
流麗な筆致からは、感情の温度は読み取れない。いつもの貴族流のリップサービスなのだろう、とエマは言葉を本気には受け取らなかった。
エマが強固にライナスからの好意に気付かないのには、理由があった。
五年前、婚約したばかりでまだ関係がぎこちなかった頃にライナスはエマの緊張を和らげようと、自分は妹が欲しかった、出来れば兄のように思って欲しい、と告げてしまっていたのだ。
当時は当然ライナスの方もエマに対して恋愛感情は抱いていなかったし、その言葉はごく自然なものだったのだが、今となっては情報を更新していないライナスの手落ちだった。
今回ライナスは、直接花束を持ってエマに許しを乞いに訪れるべきだったのだ、そうすれば少なくとも言葉を正しく受け取ってもらえなかったことだけは感じ取れた筈なのに。
随分年上だと言うのにみっともなく嫉妬したことが恥ずかしくて、彼はエマに顔向け出来なかった。
そして直接顔を合わせて、全ての始まりである園遊会へと誘う勇気も、今はなかった。
随分前から、ライナスは美しい庭園で催される園遊会にエマを連れて行ってあげたいと願っていたのだが、彼女にとってトラウマになっているかもしれない園遊会に誘うことは戸惑われグズグズしている内にあのようなことになってしまったのだ。
それでもエマの呪いが解けた今、仲直りのキッカケとしてもライナスは是非エマを日の当たる明るい場所へと連れて行きたかった。
「……園遊会」
エマは手紙の文字に触れて小さく呟く。
穏便な婚約破棄の為の良案は思い付いてはいなかったが、始まりの園遊会に出席してそこで終わらせることは、二人の関係を考えれば相応しいように思えた。
社交の場であるそこで、エマが立派に淑女として一人で立っていられることを見せることが出来ればライナスの肩の荷も降りて、真面目な彼も婚約を快く破棄してくれるかもしれない。
エマには、ライナスの贈ってくれた美しい杖がある。それさえあれば、この先ライナスのいない世界でも歩いて行ける。
行ける、筈だ。