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臆病者の溺愛  作者: 林檎
11/23

ある日、突然

 

 そして、その時は唐突にやってきた。


 田舎育ちのエマの朝は、王都で優雅に過ごす貴族と違って随分と早い。社交界に顔を出していない為、夜も同様に早いことも一因だろう。

 ライナスの屋敷の、彼女専用の客用寝室。そのベッドの上に半身を起こした彼女は、ジルとメイドが来る前に寝ぼけ眼をこすりつつ、乱れた亜麻色の髪を手櫛で整えていた。

 あとできちんとブラシを入れてもらうとして、ざっくりと三つ編みに編みながら寝台の下に脚を降ろす。

 すとん、と絨毯の上に裸足の足が付いて、その感触にエマは薄青い瞳を見開いた。もう何年も感じることのなかった感覚だ。

 足の裏に、毛足の長い絨毯が触れる、柔らかさ。


 右脚の、裏に。


「っ!!」

 声にならない悲鳴を上げて、エマは脚を引く。するとシーツで滑ってしまい、寝台から転げ落ちた。当然シーツも共に落ち、サイドボードに用意されていた小さな水差しと砂糖菓子の入ったボンボニエールまで引っ掛かって諸共落ちる。

 ガシャンガシャン、と物音がして、そろそろエマを起こしに行こうとしていたジルは驚きノックもせずに扉を開けた。

 主の大切な婚約者に何かあっては、ならないのだ。

「失礼いたします、お嬢様! ご無事ですか!?」

 ジルとしても、控えめで愛らしいエマのことは大好きだし大切だ。絶対に守ってみせる! という意気込みでけたたましい音を立てて扉を開けて中に飛び込むと、寝台のすぐ傍の床にエマがシーツを尻に敷いて座り込んでいた。

 その白い頬は、いつも以上に真っ青だ。

「お嬢様!」

「お怪我は!?」

 ジルが駆け寄ると、メイド達もわらわらと入ってくる。令嬢の寝室なので、ひとまず執事と従僕は廊下で待機だ。

 彼女達はエマのすぐ傍に膝を突き、怪我がないことをまず目視で確認する。ジルはショールをエマの肩に掛け、寝間着姿の無防備な痩身を隠した。

「大丈夫ですか、お嬢様。一体何が……」

 ジルは抱きしめるようにしてエマの肩を擦り、冷えてしまった体を労わる。そんな侍女の腕を縋るようにして掴み、エマは震える声を絞り出した。

「……ジル、脚が……右脚が」

「! 痛むのですか!?」

 屋敷の使用人一同が、恐れていたことが起こったのかと焦る。しかし、エマは弱々しく首を横に振った。話が要領を得ないが彼女自身とても混乱しているのだろう、ジルの腕をそれだけがよすがと言わんばかりに必死に掴んでいる。


 か弱い令嬢の力、ジルは痛くもかゆくもなかったがこの線の細いお嬢様の支えにならなくては、と安心させるようにしっかりと掴み返した。

「大丈夫ですわ、エマお嬢様。皆おります、何もかも大丈夫ですから、私達に教えてください」

 はくはくと唇を動かして、やがてエマはか細い声で驚くべきことを告げる。

「ジル……どうしましょう……脚に、右脚に感覚があるの……」

「それは……!!」

 エマの言葉にジルを始め、使用人達は歓喜の声を上げた。


 その後屋敷の中は、上を下への大騒ぎ。

 取り急ぎライナスにそのことを知らせる為に従僕が走って出て行ったが、彼が侯爵本邸に着く頃にはライナスは既に出仕していて行き違いになっていた。そのまま従僕は城の方へと回ることにしたので、報せが主に届くのはもうしばらくかかりそうだ。

 一方で、別の者が今度は城へと向かっていた。そちらは、エマの脚を診てもらう為の魔術師を呼びに行ったのだ。折しも、今日はコダ・ブレークが屋敷を訪れる予定の日だった為、報せを受けたコダが訪問の時間を早めて屋敷へと来てくれる次第となった。


 ジルとメイド達にいつも通り世話をしてもらいながら、エマは高揚しつつも背筋が冷える、という奇妙な感覚を味わっている。

 理由は分からないが、突然呪いは解けた。自分の脚、自分の体だ、それだけは分かる。血は通っていたものの筋力は衰えているので歩くことは出来ないし、変に動かさない方がいいだろうという判断で普段ならば杖をついて歩くところを今朝は車椅子で移動している。

 だが何故今になって? そして、呪いが解けた以上もう一刻の猶予もない。

 出来ればライナスの矜持と優しい心を傷つけないような言葉でもって婚約を破棄したかったが、今のエマではどうにも上手く言えそうになかった。


 呪いが解けたので、婚約も解消、とエマが言えばライナスは彼女は望んでもいない婚約に縛られていた、と自分を責めてしまいそうだ。もっと、互いに快く別れられる言い方がある筈だった。

 だが、しかし、とエマは鈍い思考の隅で考える。


 本当のところ、エマはライナスに婚約破棄を告げたくないのだ、と分かっていた。彼の居心地の良い腕の中から出て行きたくない、一人で歩いてなんて行きたくない。


 そんな風に浅ましくみっともないことを考えてしまう、望んでしまう自分がエマの心の中にしっかりといる。

 ライナスのことを解放しなければ、という考えは変わらない。

 しかし、土壇場になって嫌だと泣き叫ぶ気持ちがあるのも、確かだった。


「朝食は何にいたしましょう。お祝いのケーキはロブさんにお任せしてありますよ!」

 ジルがうきうきとエマの亜麻色の髪にブラシを入れながら言う。自分の思考に沈んでいたエマは、驚いて目を上げた。

「ケーキ? お祝い?」

 不思議そうにエマが首を傾げると、それを元の位置に戻してジルはブラシで髪を梳る。

「だって呪いが解けたのですもの! ライナス様もきっと大喜びですよ」

 侍女の言葉に、エマがどきりとしたものの笑顔を浮かべることに成功した。

「……そうね、きっと喜んでくださるわ」

 そうだ。

 ライナスは優しいから、きっと喜んでくれる。それに、ひょっとしたら重荷が降りてライナスの方もホッとするのではないだろうか?

 彼は親切で優しい。けれど、年の離れた子供にしか見えないエマを伴侶として一生面倒を見ていくことに、うんざりしている気持ちが少しもない筈がない。

 注意深く彼を観察して、その気持ちが表面に出た時を逃さず、さりげなくエマも婚約を破棄しようとしていた、と告げることが出来れば双方の合意となって穏便に婚約を解消出来るのではないだろうか。

 ライナスの弱みに付け込むようで申し訳ないが、彼の義務感や責任感の綻びを突くしかエマに術はないのだ。

 大変申し訳ないが、それが結果的にライナスの為になるのだと信じて、エマは改めて覚悟を決めた。

 ここまで優しくしてくれた彼に、せめてエマが返せるものがあるとしたらそれしかない。エマは、ライナスの優しさに報いたかった。

「パンケーキがいいわ。ロブさんのパンケーキ、ほの甘くて私、大好きなの」

 エマが鏡越しに微笑んで言うと、ジルは大きく頷く。

「さすがお嬢様お目が高い! パンケーキはロブさんのお料理の中でも特に美味しいと屋敷中の評判なんですよ」

 ジルの弾むような声と、柔らかく髪に触れる温かな手。あとどれぐらいこんな風に過ごせる時間が残っているのだろうか、と思いながら、エマは侍女のお世話に身を任せる。


 窓の外では、いつの間にか静かに温かい雨が降り出していた。



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