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臆病者の溺愛  作者: 林檎
10/23

思わぬ喜劇

 

 その翌日。

 エマは久しぶりに王都での買い物に、侍女のジルと共に赴いていた。

 領地にいる友人に手紙を書こうと、本当に便箋を購入しに来たのだ。前ホルン子爵夫人オーガスタ以外にも、エマには文通友達がたくさんいる。

 彼女は自由に歩き回ることは出来ないが、ペンを持つことは出来る。そこで交わされるやり取りは情報収集にも発信にもなり、一種の社交でもあった。

 王都でこそ引き籠っているが、エマには領地では友達もいるし子爵家の者としての義務もきちんと果たしているのだった。

 今回は、先日初めて訪れた歌劇場の豪奢な建物や、艶のあるオペラ、きらびやかな世界で味わった感動を忘れぬ内に、新鮮な気持ちと共に書き留めて友達に送りたい。


 あの夜にドレスに合わせた華美な杖とは別に、普段着の装いに合わせられるように装飾は減らしたものの少女好みの美しい杖がライナスから贈られていて、今日はそれを使っている。

 淡い色に塗装された、同じく軽く頑丈な木製の杖。握り部分にはまた同じように小粒の宝石があしらわれていて、その横に取り付けられた金具にリボンを結べるようになっている。その日の装いに合わせてリボンを変えることが出来る配慮までなされていた。

 その宝石に触れて、彼女は小さく吐息をつく。


 先日のホルン子爵の件はどうかライナスには気に病んで欲しくない、と考えているが真面目な彼には難しいだろう。王城でライナスに声を掛けたのは、あの一件が心配だった所為でもあった。

 次にライナスが屋敷に来てくれる頃には、真面目な彼のことだから何か厳しい罰を自分に与えてしまった後なのではないか、と心配だったのだ。

 菓子は思った以上に喜ばれ、その日の夜の内に礼状と共に美しい花束と新しい本が屋敷に届いた。


 ライナスの心の棘が取り払われると次にエマの心を今占めているのは、子爵の暴言などではなく自分の言葉だった。

 いとしいあなた。

 まさか彼のことをそんな風に呼ぶ機会が来るなんて、思ってもみなかった。あれは勿論、ただの戯言である。

 膝に抱えられてしまうぐらい子供扱いされているエマが、愛しいなどと恋人のように言ったところで本気にされる筈がない。あの時は、咄嗟にライナスの意表を突くことだけを目指して自分では絶対に言わないような言い回しを使ったに過ぎないのだ。実際、先日王城で会ったライナスはそんなことは気に留めた様子もなかった。

 歌劇場であの発言をエマが言った際に彼は非常に驚いていたし、おかげで動きも止まった。効果は覿面、ホルン子爵の頬とライナスの名誉を守ったのだ。あんな卑劣な男、高貴なライナスの拳が殴る価値もない。


「……この便箋素敵ね」

「ええ、お嬢様。インクも買い足しますか?」

 ジルに勧められて、エマは頷く。せっかくなので便箋に合わせたインクも選びたい。

 彼女が杖をつきながら侍女と連れ立って店内をゆっくりと歩いていると、店の入り口の扉が開いて扉に取り付けられたベルの音が鳴り響いた。その音がやけに元気のいい音だったので、エマは自然とそちらを見遣る。そして、

「あぁら、エマ様じゃなくって?」

 わざとらしく上がった高らかな声に、エマは驚いた。

 扉の前には昼間にも係わらず豪奢な外出用のドレスを身に着け、ばっちりと派手な化粧をした三人の令嬢が立っていて、紙とインクの香りの満ちた店に無粋な香水の匂いを振りまいていた。

 場を弁えない不釣り合い具合に、エマはつい眉を顰める。堂々とエマの名を呼んで話しかけてきたということは、立場は彼女達の方が上なのだろう。


 加えて、社交界に出てもいない地味な令嬢であるエマを名指ししてくる知り合いではない令嬢、とくれば間違いなく先日の歌劇場か、王城でライナスと共にいるところを見られた、ということだ。

 わざわざエマを見つけて話しかけてくるあたり、彼女達の勤勉さにはある種の尊敬を抱いてしまう。ライナスの衰えることのない人気ぶりにも。

「御機嫌よう、ミス……」

「アマンダよ。父は伯爵位を賜っているわ」

「……アマンダ様」

 右脚が動かない体で、エマは精一杯淑女としての礼を執る。アマンダはちらりとそれを見て、これ見よがしに鼻を鳴らした。

「そんな体で、見せつけるように外にお出にならない方がいいんじゃなくって?」

「ライナス様もお可哀想に」

「大人しく領地に引っ込んでいらしたら」

 投げつけられた言葉の明け透け具合に、エマは眩暈がする。


 久しぶりに聞く他愛ない棘のある言葉だったが、相変わらず彼女達の言うことには捻りがなく、内容に変わりもない。幼いエマの心ならば傷つけることが出来ただろうが、今の彼女にはさしてダメージはない。

 もう五年もこの視線と言葉に付きまとわれているのだ。エマとていつまでも泣き寝入りしていられない。

「……そのライナス様から、もっと外に出るようにお勧めされたので買い物に出てきたのですけれど、あなた方の許可が必要でしたかしら」

 思わぬ反撃に出られて、今度はアマンダ達がぎょっとする。

 伯爵令嬢であるアマンダに、表立ってこんな風にたてついてくる下位の令嬢は今までいなかったのだ。通常は親の立場や自分の評判を考えて、下位の令嬢は口を噤む。

 しかし、エマの生家は田舎の小貴族で今更冷遇されたところでダメージにはならないし、エマの令嬢としての評判はこの通り。本人が関係していないところで地に落ちている。

 婚約者であるライナスに迷惑がかかって、彼の方から見限ってくれればそれこそエマの望むところ、というものだ。

 積極的に悪名を広げたいとは思っていなかったが、エマにとって縮こまって隠れている時期は過ぎた。どうあっても最終的にライナスを失うのならばもはやお行儀良くしている必要はない、せめてこの程度の嫌味にぐらいは応戦したかった。


「あら、ライナス様の婚約者は大人しい方と聞いていたけれど、随分猫を被っていらしたようね」

 アマンダが体勢を立て直して高圧的に言う。あまり長引かせては、店に迷惑なのでエマは過激な方法を取ることに決めた。

「お会いしたことのない方に私の噂が流れているのは、恐ろしいことですわね」

 エマが溜息の代わりに言葉を溢す。

 大人しい、だなんて自分で言った覚えはない。社交界に出ない引き籠りの物ぐさなだけのつもりだったが、よほど曲解がお好きな世界らしい。

「社交界とはそういうものですわ。なのにあなたは、そこに出ることもせずライナス様をその脚に縛り付けておられる」

「酷いことをしているとは思わないの?」

「ライナス様がお可哀想だわ」

 そーよそーよ、とばかりにアマンダの両脇を固める令嬢が囀る。

 エマは左脚に重心を乗せて、カツッ!とわざと杖で床を強めに打った。ハッとした様に三人の令嬢の視線がエマに集まる。


「私の脚が動かないのは、ライナス様の御命を助けることの出来た代償ですわ。脚に縛り付けることにならなければ、ライナス様は五年前に命を落とされていた……あなた方はそちらを望んでおられますの? ライナス様がお可哀想だとは、お思いになりませんの?」

 わざと言葉を重ねて言うと、カッとなったようにアマンダの形相が恐ろしいものに変わった。

「あなたね……! 言い方というものがあるでしょう!」

「ですが、その様に取られても仕方のないことをアマンダ様達は仰っておられますわ。言い方というものが、ありますわよね?」

 楚々とした笑顔を浮かべて、エマはガラス玉のような瞳で意味ありげに流し目を送る。

 店内には他の客も多くいて、彼女達の会話を聞いている。アマンダ達の言葉をどのように吹聴されるかは、彼女達自身にコントロール出来ない。

 曲解好きな社交界ならば、当然、面白おかしい取り方が採用されるだろう。

「……っ、覚えてらっしゃい!」

 やがて忌々し気に唇を噛んだアマンダはこれまた驚く程定型文の捨て台詞を吐いて、脇令嬢A・Bと共に店を出て行った。

 こんなに簡単に口喧嘩で負けてしまうというのに、よくエマに喧嘩を売ってきたものだ。

「……フルネームぐらい教えてくれないと、覚えておくことも難しいんですけど……」

 エマは今度こそ深い溜息をついて、その場をお終いとした。


 評判を落としたくないアマンダ達と、既に失うもののないエマでは優位性が明らかに違うのだ。彼女達が後生大事に抱えているものは、エマには意味のないものだ。

 曰く、社交界での評判、である。


「会計を済ませましょう。少し……疲れたわ」

 エマが言うと、ジルは心得たように頷く。

 評判がどうなろうとエマにはもはや関係なかったが、ここで表舞台に姿を現してしまったことは覆りようがない。

 ならば、婚約破棄の計画をなるべく早く実行に移さなくてはならなくなってしまったことに、エマはもう一度溜息を吐かざるをえなかった。



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