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畳を舐める

作者: 夏井三毛子

ミステリーズ!新人賞二次通過作品です。

 畳を舐める


 1


 メールを読んで、おどろきのあまり椅子から転げ落ちたんでございます。

「た、妙子さん。妙子さん?」

 しがみつくようにして椅子へ座り直し、息も絶え絶え呼びますと、厨房の方から息子の嫁がのんびりと顔を出しました。

「あらあ、どうしたんですか」

こんな姿を晒すのは彼女が嫁いできてから初めてのことです。しかし理由を聞けばきっと納得してくれるだろうと思い、衝撃的な話を聞かせました。

話が終わると妙子は深刻そうな顔で「いよいよ」と言いました。

「なにが『いよいよ』なの」

「始まったか……認知症!」

 もういちど椅子から落ちそうになりました。

「わたくしは正気です! ああもう、車を出してちょうだい」

 妙子はわたくしをまじまじと見つめ、合点がいったというように大きく頷きました。

「錯乱している時は逆らわない方がいいと聞きます。ですからえーと、かしこまりました」

「ぜんぶ口に出てるのよ、この愚図嫁」

両手を頭の上でひらひら振りながら「ハイハイ」と返事をした妙子は変なステップを踏みつつ部屋を出てゆきました。この嫁はきっと地震が起こってもあの調子でしょう。

床に倒れた際に投げ出してしまった携帯電話を拾い上げ、画面を開きました。

それから、いったいどこの国まで車を取りに行っていたのと言いたくなるほど長い時間が過ぎて、ようやく妙子がわたくしを呼びに来ました。おかげで例のメールを幾度も読み返すことができました。

曰く。

 わたくしが四十年間掃き清め続けたお座敷の畳を、菊子様が舐めているという連絡でございました。



 この辺りじゃ大榊といえば、村のはずれに広いお屋敷を構える名家でございます。

 明治時代、私財を投じて米薫山を拓き、そこに茶畑を興し多くの人々を雇い入れた大榊大五郎といえば、米薫では知らぬ者はおりません。小学校の調べ学習では必ず大五郎のことがテーマになりますから。

とてもお偉い家系の方々なのです。時代劇なんかではそういう人は往々にして嫌な性格というのがお決まりですが、大榊の方々はそうではありません。気高く、こころ優しく、正義感に満ち溢れたご家族なのです。かのお屋敷でお手伝いとして雇っていただいたのは祖母がさいしょで、次が母、その次がわたくしでした。

 家政婦は還暦をむかえると同時に暇をいただくしきたりです(本当は妙子に家政婦をやってほしかったのですが、この嫁はもう、本当にもう、食事を作る以外の家事はてんでだめでしたので諦めました)。

 菊子様というのは、大榊家の長女です。今年で五十におなりです。

旦那様がいらっしゃいましたが子宝に恵まれなかったので、弟で長男の敬親様がお家を継いでいらっしゃいます。

「結婚したばかりの頃は、もし子供が生まれたら名前はこれにしよう、俺がこういう名前だから、なんて、あの人と話したりしたんですけれど」

 結局かないませんでした。そう言って悲しげに微笑む菊子様があんまりおかわいそうで、思わず大泣きしてしまったのはもう十年以上前のことです。

 この旦那様というのが問題で、菊子様というこれ以上ない方の元へ婿入りしたにもかかわらず、よそで女を作っていた極悪人でございました。婿に入ってからというもの、盆や正月にすら屋敷へ帰らず、こちらへ一週間以上滞在したためしがありません。

 しかしこの罪人、つい一週間ほど前に他界しました。ふらっと大榊家へあらわれたかと思ったら、その三日後には眠るように亡くなったのだそうです。死因はよく聞いていませんが、癌を患っていたという噂です。

 葬儀にはわたくしと妙子も参加しました。青白い顔をして喪服に身を包んだ菊子様のそばには庭師の男性がボディーガードのように寄り添っていました。

 菊子様はたくさんの参列者から同情の言葉をもらっているようでした。お悔やみというより、あんな男に最後まで迷惑をかけられて大変でしたねという内容のものが多かったかと存じます。わたくしも同じようなことを言いました。

 葬儀の場で故人の悪口なんて控えるべきなのでしょう、普通は。

正妻を放って他の女と過ごしていた最低な男のために、大事な大榊家の家紋を背負って葬儀をしなければならない菊子様に同情しない者などこの村にはおりません。

 今は、「骨も墓におさめたしようやく普段通りの日常が戻ってきたかな」というころでした。

とつぜん、現在の家政婦であるカナという女性から連絡が来たんでございます。

 ――菊子様がお座敷の畳を舐めているようなのですが、どうしたらいいでしょう。

 そんなはずはない、あなたの見間違えよと返事をしました。

そんなことはない、見間違えじゃないとの応えがありました。

 菊子様は、軽度ではありますが、潔癖症の気があります。床を舐めるなど到底考えられないことです。

 カナさんは、自分たちだけでは到底抱えきれない問題だから、どうか来て欲しいと連絡してきたのでした。



「こういうわけだから、わたくしは大榊家へ参らねばならないのです」

「なるほど、なるほど」

「菊子様に会いたいのです。話は聞いていましたね?」

「もちろんです」

 視線を前に向けます。まぶたがひくひく震えるのを感じました。

「わたくしにはここが病院に見えるのですが、幻覚ですか?」

 青い看板には『飯綱心療内科』とあります。駐車場には車椅子を乗せられる大型のワゴン車が二台と、待たされているらしいタクシーが一台、停まっていました。

 妙子は細い目を瞬かせ、気の抜ける笑顔を浮かべました。

「ああよかった。今は正気なんですね」

「今はとはなんです! 正気でなかったことなどこの六十五年間一度もありません!」

「あたしが掛け軸に紅茶こぼしてお義母さんが薙刀持ち出してきた時も正気でした?」

「その話はおやめ。さっさと大榊家へ向かいなさい!」

「でもお義母さん……」

 ちらりと病院の方を見やり、妙子は口をモゴモゴさせました。

「わたくしは! ボケていません!」

「んもう。かしこまりました」



 家柄に恵まれていて、器量がよくて、一流の大学を出ていて、人格者で。

しかし菊子様は幸薄でございます。

 特にそれを感じたのは、縁談がなかなかうまくまとまらなかった時です。これだけお美しい令嬢を妻にできるというのに、どういうわけか旦那候補の方々は結婚に踏み出そうとしませんでした。どうも、良家の女に婿入りしなければならないというのが理由らしいのですが、わたくしには理解できませんでした。

 ようやっと結婚に是の返事をしたのが、このたび亡くなった葵都(あおと)様だったのです。葵都様は大榊家の親族が探してきた他の見合い相手とは違い、菊子様がご自分で見つけてきた旦那候補でした。なんでも東京の大学に通っていた頃の知人だとか。病に伏していた大奥様は、ようやく娘に婿が見つかったとわかって村中の家庭に酒を振る舞うほど喜んでいらっしゃいました。

 その頃にはもう、菊子様は三十路の一歩手前でした。間違いなく、大榊家長女として白無垢に腕を通した最高齢の女性です。

 ところで、わたくしはこの葵都という男、最初からまったく信用しておりませんでした。

 あまりに白い肌をしているため、顔中に散るそばかすが嫌に目立つのです。鼻の頭はいつも赤く、長い前髪のせいで目がよく見えませんでした。髪の先からは整髪料の匂いがして、何かこだわりがあるのか、いつ見ても同じところが跳ねていました。

 初めて見た時などおぞましさで鳥肌が立ったほどです。

 それでも菊子様が幸せなら、と思っていました。

 今でも自分のあの判断を悔やんでいます。

 入籍のあと、葵都様は東京へと戻っていきました。菊子様によれば、向こうに仕事を残してきたから一時的に戻ったとのことでしたが、その後すぐ音信不通になり、待てど暮らせど帰ってこなかったのです。

 もちろん大榊の方々は、菊子様を問い詰めました。すると彼女は決まって同じ言葉を返すのです。

「いまはめずらしいことでもないでしょう」

 葵都様は主に東京に住み、ときどき菊子様のお顔を見に戻ってくるという生活を送っておりました。

 そして事件が起こりました。

 ある日、葵都様が一人の子供を連れて帰郷なさったのです。

……問題は、この知らせを受け、たいそうショックを受けた大奥様の病が悪化しそのままお亡くなりになったことでした。


 2


 玄関で待ち構えていたのは家政婦ではなく、大榊家当主の敬親様でした。菊子様によく似たお顔立ちをなさっていて、小柄でもがっしりとした体躯の男性です。

 彼はわたくしどもに頭を下げ、突然呼び出してしまったことを詫びる言葉をくださいました。

「菊子様は自室にいらっしゃるのですか?」

 わたくしの問いに、敬親様は首を傾げました。

「カナから連絡が入ってないですか?」

 携帯電話を取り出し、確認しました。

「来ていません」

「姉はいまカナと一緒に病院へ行っています」

「どちらの」

「心療内科です。県道の脇にある、青い看板の」

「まさか飯綱心療内科ですか……?」

「はい。えっ、何かまずいですか?」

「いいえ! 何も!」

 沈黙が落ちて、なんとなく気まずい空気の中わたくしたちはお屋敷の一室に通されました。

 敬親様が「こちらでお待ちください」と言って部屋を出て行くのを見送り、わたくしは隣に座る妙子を睨みました。

「先に! 言いなさい!」

「お義母さんが大榊家へ行けって言ったんじゃないですか!」

「なぜ菊子様があの病院にいると知っていたの?」

 妙子は、なぜわたくしがこんなに怒り、慌てているのかまるでわからないという顔をしました。そういえば病院の駐車場にはタクシーが待たされていましたが、まさかあれだけで菊子様だとわかったのではありますまい。

「誰だって、ついさっきまで正気だった人がおかしな言動を取ったら不安になります」妙子は一旦言葉を切り、わたくしをじっと見つめました。「それがおばあさんなら尚更です」

「誰が婆さんですって!?」

「あなたがおばあさんじゃないなら裕香は誰を祖母と呼べばいいんですか?」

「孫はいいのです」

「じゃなくって。あたしが言いたいのは、まだお義母さんよりお若いはずの菊子様がとつぜん床を舐めるなんてことしてたら、周りの人はすぐ病院に連れて行こうとするだろうってことです。この辺りで精神科、心療内科といったら、飯綱さんしかないでしょう」

 妙に感心してしまいました。ほんの少しとはいえわたくしが取り乱している間、彼女はそんなことを考えていたのです。

「わたくしを医者に診せるためにあそこへ連れて行ったわけではなかったのね」

「ついでに診てもらったらいいんじゃないかなとは……」

「それにしても、菊子様は大丈夫なのかしら」

 菊子様は昔から病気に罹りやすいお方でした。

子供の頃は、毎年必ずインフルエンザの予防接種を受け、毎年必ずインフルエンザに罹りました。季節の変わり目には風邪を引き、一週間は学校を休まねばなりませんでした。

 確かにそうです。しかし、脳が悪いなんて聞いたことがありません。きっと何かの間違いのはず。

 障子が開き、湯飲みを二つ乗せたお盆を持った敬親様が姿をあらわしました。わたくしが用意できるならぜひそうしたかったのですが、わたくしはもう大榊に雇われた者ではないのです。ここのところの分別はつけなければなりません。

机を挟んで三人で顔を合わせ、自然な流れで情報共有が始まりました。

「トキさん、姉はどうしてあんなことをしたんでしょう。情けのない話なのですが、僕には全く心当たりがないのです」

 敬親様は眉尻を下げ、小さくため息をつきました。トキというのはわたくしのあだ名です。本名は時子なのですが、この家の方はみなトキと呼んでくださいます。

「菊子様が舐めていたというのは、どこのお部屋ですか」

「姉の部屋です」

 大榊家のお屋敷は南向きで、東西に長い造りになっています。南の庭には植物を植え、北側にはちょっとした運動場のようなスペースがあります。

 菊子様のお部屋は、朝日がたっぷり差し込む、一番東の端にあります。その隣が葵都様のお部屋ですが、こちらはほとんど人が出入りしていないはずです(直近で使ったのは葵都様のご遺体でしょう)。

「状況を詳しく教えてくださいますか」

 敬親様は居住まいを正し、空咳をしてから話し始めました。

「今朝、姉は起きてくるのが遅かったんです。いつもなら七時の朝食には必ず出ていたのに、今日は八時近くになっても姿を見せなかった。カナはひどく心配していましたが、夜更かしして本を読んだ日は遅く起きてくることも過去にはあったので、放っておけばいいよと言ったんです」

 わたくしは大きく頷き、肯定の意を示しました。妙子様は昔から本の虫で、彼女のために書斎が設けられたほどです。

「八時ちょうどくらいに、カナはとうとう様子を見に行きました。少しして、彼女が音を立てないようすたこらと歩いてくるのを見て驚きましたよ。あの子、死体を見たような顔をしていたから」

 どうしたのかと尋ねた敬親様に、カナさんは震えながら告げたのです。

「『菊子様が畳を舐めていらっしゃいます』……ただ事じゃないと思いました。音を立てないようにそっと姉の部屋へ向かい、細く空いていた隙間からこっそり中を覗いたんです。確かに、姉は床に蹲り、畳を舐めていました。一心不乱に」

 カナさん一人の証言なら見間違えで済んだかもしれませんが、敬親様も確かに見たというのです。これは、いよいよわからなくなってしまいました。

「僕とカナは一度居間に戻り、どうしてあんなことをしているのかという会議を開きました。その場で問い詰めるのはどうにも気が引けたのです。……いまになって思えば、ただ恐かっただけなんでしょう。あんなにおかしな姉を見るのは初めてでしたから」

「じゃあ、まだ菊子様には理由を聞いていないんですか?」

「いえ。会議をしていた途中で姉が起きてきたので、身支度が済むのを待ってから聞きました」

「菊子様はなんとおっしゃったんですか」

 それが一番聞きたいところでした。わたくしは知らず知らずのうちに身を乗り出していたのですが、視界の端にいる妙子も同じように前のめりになっているようでした。

「姉は……きょとんとしていました」

 胸が詰まる思いがしました。それは、かなり、よろしくないんじゃないでしょうか。

「どうしてそんなことを聞くの、とか、床なんか舐めてないわ見間違えよ、という返事でした」

「ちょっと待ってください」妙子は肩の高さに手を挙げ、敬親様のお話を遮りました。「カナさんが最初に菊子様を起こしに行った時は別に忍び足じゃなかったんでしょう? 普通に歩いてきたらいくらなんでも菊子様は気づいたんじゃないでしょうか」

「僕もそこが気になったので、彼女に聞いたんです。あの子は別に姉を起こすつもりはなくて、もしまだ寝ているならそのまま寝かせておこうと思ったんだそうで」

 だからそうっと部屋に近づいたということなのでしょう。わたくしは納得しましたが、妙子は続けて質問を繰り出しました。

「菊子様のお部屋は確か、南がわに大きな掃き出し窓がありましたよね」

「はい」

「そこには雨戸もあったのでは? 何が聞きたいかというと、部屋の中は暗かったんじゃないでしょうか。どうしてはっきりと菊子様の姿が見えたんですか?」

 妙子のいうとおり、菊子様のお部屋は南に掃き出し窓とその向こうに縁側があり、北側は廊下への出入口があるのです。お二人が様子を見に行ったというのは北側の出入り口からということでしょう。

 敬親様は、腕を組んでしばらく黙り込みました。目を瞑り、記憶を辿っているようです。

「……そう言われてみれば、雨戸は開いていましたね。朝日が差し込んでいたから、部屋の中が明るかった」

「いつもは?」

「閉まっているはずです。雨戸が固くて姉では開けられないから、最近はカナが開けるようにしていたはずです。あれ、ということは……」

「もう一つ。菊子様が舐めていたのは、どのあたりの床でしょう。部屋の入り口から見えたということは、背中をむけていたわけではないんですよね?」

「どう言ったらいいかな……」

 敬親様は腕時計に目を落とし、「まだいいか」と呟きました。

「姉の部屋を見に行きましょう。その方がわかりやすい」



 縁側に出ると、南庭の隅に人かげを見つけました。庭師の植松さんのようです。

 植松さんは、植松造園という会社から来ている庭師のことを指します。本当に植松という名前でない庭師もいますが、ここに出入りしている庭師はみな「植松さん」なのです。

箒で庭を掃いていた彼は、わたくしたちに気がつくと、腰を折って丁寧に礼をしてきました。どうやら、葬儀で菊子様のそばにいた若い庭師のようです。

「わたくしが一緒に働いたのは彼が入って最初の一年間だけでした。その頃に比べたら、板についてきたようですね」

 若く、しっかりと働く人は眩しく見えます。わたくしがそう言うと、敬親様は同意するようににっこりと笑いました。

「姉がお気に入りなんです。普段の買い物でもエスコートさせているんですよ。好きな花をよく植えてくれるのだとか」

「菊子様の好きなお花? なんだったかしら」

「僕は花に疎くて……確か、小さな薄紫の花だったと思うのですが」

 ダメもとで後ろを振り向きましたが、妙子はあくびをする寸前みたいな顔をしていましたので、そのまますぐに向き直りました。

「あとで菊子様に聞いてみましょう」

「そうですね。さ、どうぞ」

 廊下に面する障子を開けると、懐かしい匂いがしました。そうです、菊子様は毎朝晩かならず仏壇に手を合わせるので、ほんのりと線香の香りがするのです。

 十畳ほどの広いお部屋には、廊下から見て左手の奥に文机とタンスがあり、右手奥に畳まれた布団があります。敷く時は部屋の中央寄りに移動するはずです。

「舐めていたのは、この辺りです」

 中央より手前の畳を指差し、敬親様は言いました。

「ということは、お布団を敷いた時のすぐ脇あたりですね」

「はい。姉は、布団の上に正座して、上体を前に倒すようにして顔を畳に近づけていました。そして舌を伸ばして……」

 わたくしたちは三人でしばらく、床をじっと見つめていました。そこには何かがあるようにはとても思えません。

 沈黙を破ったのは妙子でした。

「お義母さんは床を舐めたことあります?」

「あるわけないでしょう。あなたじゃあるまいし」

「あたしだってありませんよ、記憶を捏造しないでください」

「去年のクリスマスでひどく酔っ払って床に溢れたテキーラを舐めてたじゃないの」

「初耳なんですが……」

 どうやらこの嫁は、床になんらかの食べ物か飲み物が溢れていて、それを舐めていたのではないかという考えのようです。

「でもね、妙子さん。菊子様はこのお部屋で飲食をするのをひどく嫌っていたのよ。ですよね、敬親様」

「はい。持ち込むことすらしません」

 菊子様はとにかく虫がお嫌いです。本に死骸が挟まっていたときなどは本ごと庭の焼却炉へ叩き込んでいたほどでした。つまり本が好きという想いより強い、虫が嫌いという想いがあるのです。自分が寝泊りする場所に虫が近寄らないよう、たとえ病気中でもこの部屋での飲食はなさいませんでした。

「だから、畳の上に食べ物がこぼれていたという考えは外れよ」

「お義母さんの知っている菊子様は畳の上にシロップがこぼれていたら、舐めとる人なんですか?」

「不敬なことを言うんじゃありません! するわけがないでしょう!」

妙子は「まあ、そうですよね」と言って唇を尖らせました。

わたくしは敬親様に許可をもらってから、そっと部屋の中へ足を踏み入れました。手で触っても、どれだけ目を凝らしても、菊子様が舐めていたという床には特にほかと変わった点は見つかりません。

「失礼ついでに」

 妙子は部屋の中をぐるりと周り、ゴミ箱の中や机の上をまじまじと観察していました。

 部屋を出ると、敬親様がスマートフォンを見て緊張気味に言いました。

「カナから連絡がありました。もう病院を出るそうです」

 最後に三人で菊子様の部屋をざっと見渡しました。

わたくしがここで働いていたころ、ここへは週に一度だけ、掃除のために入っていました。少なくとも部屋だけは、当時と変わっていないようです。

 きた道を引き返す途中、縁側で先ほどの植木職人にでくわしました。さっき遠目で見た時と同じように頭を下げる彼へ、敬親様が話しかけました。

「植松さん、昨日の昼間、焼却炉を使った? 煙が出ていたのを見たんだけど」

 思い出そうとしているのか、数秒だまりこんでから彼は答えました。

「はい。菊子様に頼まれまして、本を数冊と古紙を何枚か」

 低い、小さな声でした。

「そうか、それならいいよ」

 もう一度頭を下げて、植松さんは裏庭の方へ行ってしまわれました。

「焼却炉は使わない方がいいんですか?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど」敬親様は困ったように微笑みました。「うちの焼却炉は敷地の外からでも物を捨てることができてしまうでしょう。たまに勝手にゴミを捨てて、火をつけていく奴がいるんです。うちの人が使う分には問題ないですよ」

 元のお座敷に戻り腰を落ち着けると、考えを話し合う流れになりました。

「仮説がいくつかあります」

 そう口火を切ったのは敬親様でした。

「できれば考えたくありませんが、姉が若年性アルツハイマーか、それに近い脳の病気になってしまった可能性」

「お義母さん顔色が死人みたいですよ」

「よ、よ、余計なお世話です。敬親様、どうぞ続けてください」

「はい。次に、僕とカナの見間違えという可能性」

「そうかもしれないとお考えなんですか?」

 敬親様は眉間にシワを寄せ、言いにくそうに言葉を発した。

「念のため可能性を列挙しているだけです。姉は間違いなく畳を舐めていました」

「三つ目はありますか?」

「はい。つまり、何かしらの正当な理由があったとする考え方です」

 畳を舐めなければならない理由は、わたくしには考えつきませんでした。妙子も、いつものふわふわした気の抜けた表情を引っ込めて、いちおう真剣に考えている様子です。

「例えば、菊子様以外の誰かが飲み物や何かを持ち込んでしまって、それを溢してしまったとか」

「たとえそうだったとしても、姉は畳を舐めるより先にカナに言付けるでしょう。今日は姉の部屋を掃除する日ですし」

 わたくしは壁にかかっている大判のカレンダーを見ました。確かに、今日は週に一度の菊子様のお部屋を掃除する日でした。

 妙子がポツリと言いました。

「畳を舐める正当な理由というより、そうしなかったらもっとひどいことになるって考えるのはどうでしょう」

「言っている意味がよくわからないわ」

「放置するより、プライドを捨ててでも舐めた方がマシだったってことです。そしてそれを知らん振りしてるってことは、何がなんでも隠したいことだった……」

 菊子様は敬親様とカナさんに、畳なんか舐めていないと言ったのでした。自分が異常なことをしたという自覚がない、もしくは、そうまでして何かを隠したがっているということです。

 そこから新しい意見が出ることはなく、会議は中断することになりました。玄関からカナさんの元気な挨拶が聞こえたからです。

「帰ってきましたね。呼んでまいります」

 そう言って敬親様が立ち上がろうとしましたが、足音はどんどんこの部屋に近づいてきて、障子が勢いよく開かれました。

 茶色い髪の毛をポニーテールにした、まだ二十歳そこそこの女性が喜色満面で立っていました。

「こんにちはトキさん!」

「こんにちはカナさん。菊子様は?」

「手を洗いに行っています。すぐこちらにお見えになるそうです……ので、手短に」

 本当に嬉しそうに、カナさんは言いました。

「お医者さんの見解では、認知症やアルツハイマーの可能性は極めて低いとのことでした。どちらのテストも問題なかったし、本人はしっかりしているから大丈夫だよって」

「でも、畳を舐めていたことは認めなかったんでしょう」

「だけど、こうなったらもう、どうでもいいじゃないですか」

 カナさんは廊下を気にしつつ、畳の上に正座をしました。

「だって本人はやってないって言うんですよ。私、菊子様がお病気じゃなかったってだけで大満足です。だからもう忘れましょうよ」

 わたくしは敬親様の反応を伺いました。彼は、言いたいことがあるけれど彼女に言っても仕方がないと考えているようでした。

 まったく、わたくしも同感です。

「そうか。じゃあ、姉さんにはゆっくりするように伝えなくてはね」

「はい。あ、いらっしゃいましたよ」

 障子からひょっこりと顔を出した菊子様は、口元に照れたような笑みを浮かべていました。

それから、わたくしたちがいる部屋の入り口付近で正座をして、深く頭を下げられたのです。

今日は薄緑色のワンピースを着て、首元には銀色のネックレスをつけていらっしゃいます。病院の先生も、まさかこんなに若々しく美しい女性が認知症の診査をしに来るなんてと驚いたに違いありません。

「どうもこのたびは、わたしのせいでご心配をおかけして申し訳ありませんでした」

 背中まで伸ばした髪の毛にはまだほとんど白髪などは見られず、顔の肌も三十代と言えば信じてしまいそうなほど潤っていらっしゃいます。いつ見ても上品な笑みを絶やさない、優しいお顔立ちの女性です。

この方こそ、わたくしが四十年間お仕えしてきた、お姫様です。

「とんでもないことでございます。きっとただの見間違えだったのでしょう。何事もなくて安心いたしました。もう少し敬親様とお話をしたら、お暇いたします」

「悪かったね、姉さん。こっちが勝手に騒いじゃって、すぐ病院に行けだなんて言って」

「いいえ、いいのよ。それじゃあトキさんと妙子さん、ゆっくりしていってくださいね」

 もう一度深く頭を下げて、菊子様は出ていかれました。カナさんもすぐにその後を追いました。

 二人の気配が完全に遠のいたあと、敬親様がキッパリと言いました。

「やっぱりおかしいです。姉は間違いなく、畳を舐めていました。それなのにしらばっくれるなんて」

「敬親様」妙子は胸を張り、静かに問いかけました。「本人が話したがらないことを、わざわざ探る必要はあるんでしょうか。カナさんのいう通り、忘れることはできないんですか?」

 その質問には、敬親様の代わりにわたくしが答えました。

「菊子様が畳を舐めていることを目撃した敬親様は、何をいちばん心配なさったと思う?」

「そりゃ、頭がおかしくなっちゃったんじゃないかって」

「違います。菊子様はね、体がとても弱くていらっしゃるのよ。畳なんて汚いものを舐めていたら、巷を騒がせているウイルスのようなものまで体に取り込んでしまう可能性があるでしょう」

「……なるほど、なるほど」

 わたくしの説明を聞いて、妙子はようやく状況が理解できたようです。

 いくらカナさんが綺麗に掃除していても、いくら菊子様がお部屋を清潔に保とうとしていても、細菌や病原菌はどこにいるかわからないものです。

「頭や心がおかしくなっていないのなら、それはよかった。何よりです。だけどね、もしこれからまた、畳を舐めるようなことがあるのなら、それは絶対に阻止しなければなりません。理由があって舐めなければならないのなら、理由を排除しないと」

 これは決して、大袈裟な心配などではないのです。

「葵都様は東京から戻っていらっしゃったでしょう。感染症の患者が多い、今の東京から」

「あ」

「葵都様がここにいらっしゃったのはたったの三日程度だそうですけれど、それでも細菌を落としていくには十分すぎます。わかりましたか?」

 妙子は大きく頷き、グーにした手を顎にくっつけて何事か考え始めました。わたくしは敬親様に向き直り、一つ頼み事をいたしました。

「できれば、わたくしも菊子様が畳を舐めるところを見たいのですが」

「でしたら今日は、こちらに泊まりますか? 以前も正月やお盆には泊まり込んでいただきましたものね」

 大榊家には親族が多くいらっしゃいます。そのため、長期休暇となると空き部屋だらけのこの屋敷も人だらけになります。人が増えるということはその分食事量や洗濯物が増えるということなので、一族が集まる際はこのお屋敷に泊まらせていただいていたのです。

「では一度戻って、支度をして参ります。妙子さん、あなたも泊まらせて頂きなさい」

「なんでですか?」

「菊子様のため働こうという意識はないのですか!」

「そんなことないですけどぉ」

 わたくしは妙子の着ているニットの襟首を掴み、顔を近づけて言いました。

「あなたが嫁入りしてきたとき、菊子様は多額のお祝い金をくださいました。あなたたちのあの派手な結婚式は、そのお金も使っているのよ」

「ぜひお泊まりさせてください」


 3


 大榊家の皆様方には本当にお世話になりましたし、家政婦ごときに対し家族同然のように接してくださった御恩はどれだけ尽くしても返しきれません。

 しかし、女には、譲れないものがあるのです。

「お義母さんは着物以外なら、何を着るんだろうと考えたことがありますが」

 妙子はショックと哀れみが混じったような目でわたくしをまじまじと見ました。

「まさかジャージだとは思いませんでした」

「ここで働いている時には着ていましたよ。それこそ、天井裏にネズミが出た時などは。さ、行きますよ」

 敬親様は菊子様が畳を舐めるなら朝だろうというお考えのようですが、もしかすると、夜のうちにも舐めているかもしれません。

 朝よりも夜の方が屋敷の中は人気がなくなります。普通に考えれば、隠れて何かをするなら、夜の方が適しているはずなのです。

 敬親様がわたくしたちに貸してくださった部屋を出て、足音を殺し廊下を進みました。

 家政婦のカナさんは午後八時には諸々の片付けと朝食の支度を終えて帰宅します。敬親様とその奥様、菊子様の三人は居間でくつろぎながらお酒を飲まれることがあります。今夜はそこにわたくしと妙子も混ぜていただきました。解散したのはつい十五分ほど前のことです。菊子様はシャワーを浴びに行っていますが、そろそろ戻られるでしょう。

 わたくしと妙子は葵都様の部屋の引き戸をそっと開き、中へ入りました。

「板が抜けたりしませんか? 耐震工事とかしてますか?」

「それはこの家が古くてボロボロだという遠回しな嫌味ですか?」 

「白状すると、あたし三キロ太ったんです」

「あなたはここで見張っていればよろしい。安心して太りなさい」

 押し入れの中には何も入っていませんでした。まあ、葵都様はほとんどここを使わなかったので当然といえば当然です。

「ところで、ここ、入ってよかったんですか。遺影とかありましたけど」

「まだ四十九日が終わってませんからね」

 大榊家のお部屋にはほぼ必ず押し入れがございます。そしてその押し入れの上段の、天井の板は一番右側のものが外れるようになっているのです。昔はそこから屋根裏に上がり、よくネズミを退治したものです。

「もし誰か来たらそれとなく合図しなさい」

「はーい」妙子は少し考えて言いました。「それとない合図ってどんなのですか?」

 押入れの中に入ったわたくしは、両手で静かに襖を閉めました。

 わたくしにとっては勝手知ったる天井裏です。菊子様の部屋の上にはすぐ到着しました。板の隙間から下を覗くと、ちょうど廊下の障子が開き、主が入ってくるところでした。

 上下スウェット姿の菊子様は、しばらく文机の上にあるパソコンをいじっていましたが、やがて立ち上がり、肩にストールを羽織ってどこかへ出て行かれました。

 足音が遠ざかっていって、一つ吐息をついたところで、部屋の障子が開かれて思わず声をあげそうになりました。妙子です。妙子が部屋にするりと入り込んできたのです。

 妙子は迷わずパソコンの前へ行くと、菊子様がつけっぱなしだったその機械をいじり始めました。

わたくしは頭に血がのぼるのを感じました。なんて不敬な。個人情報保護というものを知らないのでしょうか。人のプライベートを覗くような真似をする娘を息子の嫁に迎えてしまった自分が情けなくなります。

 遠くの方から小さな足音が聞こえ、妙子はハッとしたように顔を上げました。早く出て行きなさい、というわたくしの念が届いたのか、彼女は来た時と同じようにするりと部屋を出ました。

 結構ギリギリだったようです。菊子様は妙子が出て行って三十秒もしないうちに部屋へ戻ってきました。時間からして、お手洗いへ行っていたのでしょう。

 彼女はまたしばらくパソコンをいじっていましたが、やがて電気を全て消し、部屋の中央にある布団へ横になりました。



 用意してもらった部屋へ戻ると、真っ先に妙子を叱りつけました。

「なんてことをしたの! 鉢合わせていたらどうなっていたことか!」

「だけど」

「他人の部屋へ勝手に入るなどというのはまともな精神の人間がすることじゃありません。まして恩義のある菊子様のお部屋に入り、パソコンを見るだなんて!」

「屋根裏から勝手に覗くのはセーフなんですか?」

「わたくしは隣の部屋で待機しろと言ったのよ。なぜ言われた通りにしなかったの?」

「でもお義母さん」

「言い訳をしない! まったく、こんな娘だと知っていたら嫁になんか……」

 わたくしは口を閉じました。つい言葉が過ぎたことを自覚したのです。

 息子はこの妙子と恋愛結婚をしました。同期の中でも一番優秀なんだと誇らしそうに紹介してきて、ぜひ結婚したいと嬉しそうに報告してくれました。

 しかし前評判というのは当てになりません。掃除を任せれば窓を曇らせる、洗濯をさせれば濃い色の服と白いシャツを一緒に洗う、など、素晴らしいポンコツぶりを発揮してくれたのです。思わず口調が荒くなってしまうことがあります。

 わたくしも普段は気をつけているつもりです。そうでなくともカッとなるとキツい物言いをしてしまうことが悩みなのですから。

「その、妙子さん……」

「お義母さん」

 敷き布団の上に正座をした妙子は、真剣な眼差しでわたくしを見つめてきました。

「お願いがあります」

 わたくしが目だけで促すと、彼女はこんなことを言ったのです。

「明日でいいので、お墓に連れて行ってください」


 大榊家のお墓は、大五郎が拓いた米薫山の茶畑の中にあります。茶畑全体が見渡せるようにと高い位置に作られていますが、細い道が続いているので墓までは車で行くことができます。

 近くの花屋で買った献花をお供えして、線香を上げて手を合わせていると、後ろでぼうっと突っ立っていた妙子がふとつぶやきました。

「――これじゃ無理ね」

「何が無理なの」

「お義母さん、昨日会った植木職人さんの名前を教えてくれませんか」

 わたくしは記憶をたぐらねばなりませんでした。何せ、一緒に働いていたのは五年前のことなのです。

「確か、そう、ええと……」

「忘れたんですか?」

「植松さんと呼んでばかりいたから。でも自己紹介の時に聞いたことは確かです」

 少し難しい名前だった気がいたします。覚えにくいような。

「もしかして」

 妙子は目を細め、一つの名前を口にしました。

 驚いて振り向けば、少し俯いた妙子はいつものぼんやりした顔をすっかり隠して、やたらと目を大きく開いて、黒い瞳を輝かせていました。

だんだんその口元が笑みを浮かべ始めるのが、逆光の中でもよくわかりました。

「なるほど、なるほど……そういうことか」

「どうして植松さんの名前を知っていたの」

「ちゃんとヒントはありましたよ」

 妙子は雲ひとつない初夏の空を見上げ、細く長く息を吐きました。

「お義母さん、二つめのお願いです。人を呼んでくれませんか」


 4


 日が長くなったとはいえ、午後六時ともなれば少し肌寒く感じます。妙子の言う通り、カナさんと敬親様にお願いをして墓地まで来ていただきましたが、肝心のもう一人がなかなか到着しませんでした。

 二人ともこの程度で怒るような人ではありませんが、顔にありありと困惑が浮かんでいるのを見て、わたくしは少し焦りました。

「妙子さん、先に始めるわけにはいかないの」

「うん、じゃあまあ、お話ししましょうか」

 こんな時間になってしまったのは、カナさんと敬親様の都合がどうしてもつかなかったからです。家政婦として家をそのまま放り出しては来れないでしょうし、敬親様もご自分のお仕事があります。

お茶農家はもうすぐ、一年で最も大切な時期を迎えるのです。だけどこうしてなんとか時間を作ってくださったのですから、あんまり待たせるわけにもいきません。

「結論から言いますと、菊子様はもう畳を舐めることはないでしょう」

「どうしてそう言い切れるんですか」

 敬親様が思わずと言ったように口を挟みました。彼がそうしていなかったら、たぶんわたくしが言っていました。

「おそらくもう舐めとってしまったからです。そもそもそんなに大量ではなかったでしょう。それに、一度見られてしまった以上、また舐めるのはリスクが大きい」

「姉は……何を舐めていたんですか」

 敬親様の問いに対し妙子は「それは一旦ちょっとこっちに置いといて」と言って、目の前の物を脇へ避けるような動きをしました。

「先に謝っておきます。実はあたし、菊子様のノートパソコンを覗いちゃったんです」

「妙子!」

 わたくしは自分の体が燃え上がったかのような錯覚に陥りました。一瞬で血液が沸騰した気分です。

「本当に申し訳ありません。だけど、みなさんが菊子さんの行為に対して、真剣に悩んでいるようでしたので……あたしはあたしにできることをしたかったんです」

「敬親様、これはわたくしが……」

 わたくしは昨晩、こっそり屋根裏に上がったこと、見張らせていたはずの妙子が勝手に菊子様のお部屋に入ったことなどを話しました。

 敬親様はかなり衝撃を受けたようでした。しかしわたくしと妙子が深く頭を下げていると、「いいですよ」と言って優しく肩を叩いてくださいました。

「二人とも、姉のためにそこまでしてくださったんですね。感謝します」

「もったいないお言葉です……」

「それで、妙子さん。姉のパソコンからは何が見つかったんですか」

 顔を上げた妙子は、さすがに決まりが悪いのか、先ほどより小さな声で続けました。

「最初に菊子様のお部屋に入ったとき、部屋のゴミ箱に何も入っていなかったんです。探偵するならゴミ漁りは楽しみの一つなのに」

「嫌な楽しみね」

「でもおかしくないですか。確かにその日は一週間に一度、カナさんが掃除をする日でしたけど、あたしたちが見たのは掃除の前のゴミ箱ですよ。だけど、ゴミはなかった」

 普段、菊子様はご自分でゴミ箱を片付けることはなさいません。潔癖症のせいもありますが、勝手に片付けては家政婦の仕事をとってしまうのではと気にかけてくださっているのです。

「とっさに、証拠隠滅されたな、と感じました。だったら次は検索履歴です。これも探偵業の楽しみです」

「探偵というよりストーカーじゃなくって?」

「さすがの菊子様も、検索履歴までは気が回らなかったようですね。ちゃんと残ってましたよ。プリントアウトしてくるわけにはいかなかったんですけど」

 日がどんどん傾き、話をする妙子の顔が見えにくくなってきました。今彼女がどんな顔をしているのかはっきりとはわかりませんでしたが、わたくしはあの、いやにキラキラとした瞳をしているのではないかと思ったのでございます。

「検索履歴には、『遺骨 入れておくもの』『ロケット』『ロケットペンダント 通販』などの言葉が残っていました」

「ロケット? って、あの、宇宙に行く?」

 カナさんは空を見上げ、そんなことを呟きました。対して妙子は首をはっきりと横に振ります。

「ロケットペンダントというのは、よく海外の映画なんかに出てきますよ。見た目はネックレスなんですが、ちょっと大きめのペンダントトップの中に写真を入れられるようになっているんです」

「ああ、戦場に行く人が妻の写真を入れてる、みたいなやつ」

「そうです。ロケットペンダントには、他の種類もあります。ペンダントトップが小さなカプセルになっていて、その中に遺骨が入れられるなんてのもね」

 わたくしは口を手で抑えました。昨日見かけた菊子様は、確かに、首に銀色のチェーンをかけていらっしゃったことは思い出したのです。

「菊子様はそれをご購入なさったようですよ。履歴からすると、ここに葵都様のご遺灰を納骨した翌日に注文したようです」

「え、じゃあ、中に入れるつもりだったのは、旦那様の骨ってことですか?」

 戸惑ったようにカナさんが声を上げました。気持ちはよく、よくわかります。

「どうしてそんなことを」

「そりゃ、旦那様のことを愛していらっしゃったからでしょう」

 これにはわたくしも驚きました。菊子様が、あの馬鹿旦那を?

「浮気をされても、東京から戻ってこなくても、それでも好きだったんです。だから骨をずっと、肌身離さず持っていられるものが欲しかった」

 妙子の顔は見えません。わたくしはそれとなく彼女の方へ近づきながら問いました。

「根拠はあるの?」

「ありますがまだ到着していません」

「は?」

「次に、昨日あの部屋で何があったかについてお話しします」

 いつになく強引な妙子に、薄気味悪さを感じました。これは本当に息子の嫁でしょうか。

「菊子様はあの日、ようやく届いたロケットペンダントに遺骨を入れようとしていたのです。それはうまくいったのでしょう。しかしちょっとしたトラブルがありました」

「トラブル?」

「はい。寝坊してしまったんです」

 そんなのは別にトラブルでもなんでもないように思いましたが、そのまま黙って話を聞くことにしました。

「本当はもっと早く起きるつもりだったんだと思います。しかし寝過ごしてしまった。慌てたに違いありません。で、菊子様は遺灰を畳の上に倒してしまったんです」

「なんてことだ……」

 敬親様が茫然と呟きました。まったく同感です。

 だって、ということは、菊子様は。

「もちろんあらかた片付けられたと思いますよ。だけど、灰ってすごく細かいじゃないですか。あたし、何度か骨を箸でつまみ上げるやつ、やったことあるんですけど。……鉄板みたいにツルツルしたものの上でさえ、ホウキとちりとりで何度も何度も掃いてたんです。畳の上に撒いたりなんかしたら、掃除機でも吸い取れないかもしれません」

 それに、と言葉が続く。

「掃除機なんか、使ってほしくなかったでしょうね」

 妙子は祈るように、腹の前で指を組みました。

「それはゴミとして捨てられてしまうんです。愛する人の体の一部が、塵芥として扱われるのは堪え難かったんでしょう。かといって、このままにするわけにもいかない。どうしようもなくなった。そして……」

 そして、菊子様は、畳を舐めたのです。



 これで終わりかと思いきや、妙子は張り切ったように仕切り直しました。

「では次に、共犯者の話をしましょう」

 そして妙子はくるりと振り向き、墓地の駐車場からやってくる人影に声をかけたのです。

「お待ちしておりました。植松さん」

 そこには昨日庭で見かけた「植松さん」がいらっしゃいました。仏頂面に変わりはありませんが、どこか疲れたような雰囲気です。それもそうでしょう、一日中働いた、その帰り道に寄ってもらったのですから。

「お話があるってことでしたけど……」

「はい。皆さん、さっきあたしがここで話したことですけど、ひとつ大事な問題が隠れていました。あたしはあえてそれには触れなかったんですけど」

 すると、敬親様が重々しく口を開きました。

「姉では、石が動かせない……という点ですね」

 妙子は小さく拍手をしました。

「その通りです。ここ、見てください。さっきざっと調べたんですが、骨壺をしまう空間のことをカロートって言うんですってね」

 妙子は石塔より手前にある、段差になっている細長い石を指さしました。納骨の際はこの石を業者の方がどかし、下の空洞に骨壺を入れるのです。

「これまでに亡くなった大榊の方々の骨壺も中に並んでいました。その、一番手前にあるのが葵都様のもの。それくらいは、あなたもわかっていたんでしょう?」

 あなた、という言葉が指すのは、少し離れたところにいる植松さんでしょうか。彼はまだ言葉を発することなく、ただじっと暗闇の中に立っています。

「あなたは菊子様に頼まれて、この墓から骨壺を取り出して持っていった。昨日の朝、畳を舐める菊子様を見たお二人は、雨戸が開いていたとおっしゃいましたよね」

 敬親様とカナさんが顔を見合わせました。暗くてもそれくらいは見えるのです。

「言うまでもありませんが、開けたのは彼です。この人は言う通りにしたんですけど、問題は菊子様の方に起こったアクシデントです」

 妙子の口調には淀みがありません。

「骨をロケットに移す作業は夜のうちにできていたんだと思います。骨をこぼしたのは朝でしょう。植松さんは朝、菊子様のお部屋に骨壺を取りに行く予定だった」

 植松さんは何も言いません。合っているということなのでしょうか。

「さっき、寝過ごして慌てた菊子様が骨をこぼしたと話しましたね。たぶん、朝早く、誰にも見られない時間に植松さんが来る手筈だったのに、寝坊したんでしょうね。だから慌てた。骨壷を持ち上げようとして、落としてしまった」

 わたくしも父の骨壷を持ったことがあるのでわかります。あれは、意外と重いのです。寝起きの女性がとっさに持ち上げようとして、思わず体勢を崩すくらいのことはあり得るでしょう。

 ただ、わからないところがあります。

「どうして骨壷ごと菊子様のお部屋に運んだの? 植松さんがここで一握りの骨だけとって、骨壷はそのままにしておけばよかったじゃない」

 そうすれば、少なくとも、骨をこぼすことなどなかったはずです。

「お義母さん、菊子様は結局いちども」

 妙子の声を遮った、低い声がありました。

「待ってください。そこからは俺が話します」

 植松さんが二歩ほど、こちらへ近づいてきました。

「菊子様は俺に、墓の中から骨壷を持ってきて欲しいと頼みました。最初はよくわからなかったけれど、ロケットペンダントに骨を入れたいからという理由には納得したし、俺がひとかけら持ってくるだけではダメだっていうのも、なんとなくわかりました」

 人前で話すことに慣れていないのか、拙い口調でございました。

「菊子さんは、あの人と共寝したことが一度もなかったんです」

「なんですって……一度も?」

「一度も、です。菊子さん自身がおっしゃっていました」

 それはつまり、夫婦の営みがなかったということでしょうか。信じられない気持ちと、妙に納得してしまう気持ちがあります。

「菊子さんは、最後に一回だけ、と言ったんです。燃やされる前の死体には近づけなかったし、焼かれてからは一度も家に帰ってこなかったから、と」

 カナさんが久しぶりに口を開きました。

「どうして死体に近づけなかったんですか?」

 それにはわたくしが答えました。

「近づけさせるわけにはいきません。彼は東京から来たんですよ」

 あ、という小さな言葉が聞こえました。

 状況を考えれば、仕方のないことです。

 謎のウイルスが蔓延っている東京から来た男が、数日間で急にぱったり死んだのです。たとえ感染症で死んだのでなくっても、周りから見たら恐ろしいに決まっています。

「菊子様の近くには必ず親族の誰かがついていました。彼らは彼女を支えて、守っているつもりだったんでしょうけれど、きっと、本当にそれどころではなかったんだと思いますよ。想像してみてください。心から愛する人が急死したのに、周りはどんどん死体を処理してしまう。墓に入った頃になって突然恋しくなってきて、どうにか存在を近くに感じたくなる」

「……切なかったでしょうね」

 カナさんが呟き、敬親様が大きくうなずきました。しばらく誰もが口をつぐんでいましたが、わたくしはまだ聞きたいことがありました。

「妙子、説明が途中だったことがあるでしょう」

 息子の嫁はじっと黙り込み、少ししてから「ああ」と言いました。

「そうでしたね。菊子様が葵都様を心から愛していらっしゃった証拠でした」

 言いつつ、妙子はツカツカと植松さんの方へ歩いて行かれました。

「これが証拠です。ね、植松さん」

 暗闇の中でもはっきりと、彼が戸惑っているのが伝わってきました。

「妙子、ちゃんと説明なさい。さっきあなたは名前がどうのと言っていましたね」

「お義母さん。結婚したばかりの頃のお二人は、自分たちの名前に因んだ子供の名前を考えていたんだそうですよね」

「だからそれが……待ちなさい。まさか」

 全員の視線が、植松さんに注がれました。

「どうして骨壷を持ってくる役目を賜ったのが、植松さんだったんでしょうか。この方は葬儀の間もずっと菊子様の近くにいました。菊子様も、この植松さんをたいそう気に入っているとのことです。彼の下の名前を知らない訳ではないでしょうに、ね」

 植松さんは、かわいそうなくらいにうなだれていました。

「ご紹介しましょう。この方のお名前は、植松紫苑。葵都様の、血の繋がった御子息です」



 確かに、葵都様にはお子様がいらっしゃいました。東京から帰ってきたときに連れていた小さな赤ん坊が。その時さんざん周りから離婚を勧められたのに、菊子様は首を縦に振りませんでした。気持ちはわかります。そんな夫でも、ようやく見つけた一人なのですから。四十を手前に、再び独身へは戻りたくなかったのでしょう。

 ずっとそう思っていました。

……いいえ。そう思い込んでいただけです。

「敬親様もご存知なかったんですか?」

 カナさんが恐る恐る問いかけました。敬親様が力なく答えます。

「うん、知らなかった。薄情だね」

 思わず口を開きました。それは、薄情なことなどではないのです。

「葵都様が子供を連れ帰ったことは、当時まだ学生だった敬親様には詳しく話さないことになっておりました。子供がどうなったかはもちろん、名前も伏せられていたのでしょう」

 当時そのことは醜聞でしかなく、子供の口は軽いと思われていたのです。わたくしもその一件に関しては、深く関わることを禁止されていました。

 会話がひと段落したのを見計らい、妙子は話を続けました。

「葵都様は深い関係にあった東京の女性との間に子供を作ってしまい、どうしようもなくなってここへ連れ帰ってきました。しかし大榊家はこの子を歓迎しなかった。話を聞いた大奥様が卒倒してそのまま帰らぬ人となってしまったことも、その子供への嫌悪感に拍車をかけた」

 そしてその子供は、どこかの家に養子へ出されたのでした。考えてみれば簡単なことです。公にできないのだから、里親探しは身内で行われたはずなのです。

 当時から庭の世話は植松造園に頼んでいました。そして、経営者の家系なら、簡単に得意先(大榊)を裏切ることもない。

こうして彼は、植松紫苑になったのです。

「名前の件では、お義母さんを驚かせてしまいましたね。でも考えてみれば簡単なことなんです。敬親様、菊子様がお好きだった、紫色の花の名前は思い出せましたか?」

 話を振られた敬親様は少し黙ったあと、「いや、思い出せない」と言いましたので、妙子は同じ質問を植松さんへ投げかけました。

「あれはミヤマヨメナです」

「聞きたい単語じゃありませんね」

 妙子の厳しい言葉が飛びます。

「ミヤマヨメナは……別名、ミヤコワスレと言います」

 都忘れ。

なんて、悲しげな名前でしょう。

植松さんは小さな声で続けました。

「一説には、順徳天皇が佐渡島に流された際、この花を見て都の恋しさを紛らわせたとされています」

「この花は、菊子さんには特別な意味があったんです。だって、東京という都会からなかなか帰ってこない旦那の名前は、葵都なんですよ。この花を見ることで、寂しさを紛らわせていたんじゃないですか」

 妙子は追い討ちをかけるように、植松さんの腕を掴んだ。

「菊子様は葵都様を愛してたんです。周りのことがあるから公にはできなかったけど、浮気もとっくに許してた。思い出の詰まった、二人で考えた名前をいただく子供を近くに置いて、親しくしていたのが証拠です。葬儀の時にこの人を近くに控えさせたのは、息子として父親を送り出させてやりたかったからです」

 一瞬、話が途切れた隙を狙って、わたくしは妙子に質問しました。

「紫苑とミヤコワスレには、何か関係があるの?」

「お義母さん、いい質問です。植松さん、ご自分で話されますか?」

「……はい」

 いつの間にか、あたりはすっかり夜の色に包まれていました。植松さんの低い、小さな声だけが、闇の中から聞こえてきます。

「見た目がよく似ている紫苑とミヤコワスレは、どちらも、キク科の植物なんです」

 

 5


 縁側からは、光を受けて反射する見事なツツジが眺められました。気持ちのよい、少し冷えた山下ろしの風が吹き込んでいます。すっきりと晴れた日でしたから、この家のご先祖が拓いた茶畑がよく見えました。

夏も近づく八十八夜、山肌はみずみずしい若葉色に染まっています。

 一方でわたくしは、舐めるくらいの勢いで畳に額を擦り付けておりました。

「こういう訳で、わたくしとこちらの妙子は、菊子様の私生活を覗き見るという大変失礼な真似を致しました。どうぞ訴えるなり、警察に突き出すなりなさってください」

 頭の上で菊子様が笑う気配がしました。

「まさか。わたし、そんなことをする女に見えます?」

そうなのです。この方のやさしさのことは、わたくしが一番よくわかっているのです。

「顔を上げて、トキさん。妙子さんも」

 今日の菊子様は、編み目の大きい、青いニットを着ていらっしゃいます。片側に垂らした髪の毛が動くたびにさらさら流れ、首筋の銀色が見え隠れしました。

「わたしの軽率な行動で、ずいぶん多くの人をこまらせてしまいました」

「とんでもないことです。わたくしどもが勝手に素人探偵のようなことをして、菊子様に迷惑をかけてしまったというだけで」

「ねえ、トキさん。わたくし、死ぬ前に帰ってきたあの人の顔、ほとんど見ていないの」

 わたくしたちはそれぞれ離れた位置に座り、三人とも顔には白いマスクをつけています。最近さらに感染が広がって、とうとう米薫の村にも感染者が出てしまいました。

「あの人はずっとこの部屋で寝ていたし、近づくなと家族のみんなから強く言われていました。だからこんな風にマスクをつけて、部屋の隅っこに座って、一緒に庭を眺めているしかなかった」

 菊子様はまぶたを閉じると、胸を膨らませて空気を吸い込み、ゆっくり吐き出しました。

「話すことなんかなくて、触れることなんかなくて……だけどわたし、あんなに幸せな時間を過ごしたこと、なかったわ。長い時間そうしていたはずなのに、時計の針はいつもの五倍くらい早く動いているみたいだった。ずーっと胸がどきどきして、涙が出そうなくらい、あの人のことで頭がいっぱいで……情けない話ね」

 そんな話は、一度も、聞いたことがありませんでした。決して短くない時間をこのお方と共に過ごしていたのに、です。

「愛していたわ。それに、愛してくれていた。お母様がああいうことになってしまったから、表立ってあの人を擁護しにくくなってしまったのが苦しかった」

 菊子様は胸元から小さな銀色のカプセルを出し、両手でギュッと握り締めました。

「あの人がわたしと共寝をしなかったのは、わたしの体を案じてのことでした。もともとお医者様からは、子を産むなら体力があるうちに、早いうちに、と言われていたのです」

「……初耳です」

「言えませんでした。だってお医者様がいう早いうち、というのは、あの人と出会ったときにはもう過ぎ去っていたんですもの」

 菊子様は大榊家でもっとも婚期が遅れた方です。あり得ない話ではありません。

「『植松さん』の中に紫苑という名前の方がいると知ったときは驚きました。そして神に感謝したんです。たった一瞬見かけた、あの人の連れていた赤子がこうして戻ってきてくれたことに、奇跡まで信じました」

 菊子様は目を開けてわたくしを見ると、マスク越しにもわかるくらい綺麗に笑いました。

「ありがとう。あの人とわたしのためにこれだけ考えてくれたのは、きっとあなた方が最初だわ」

「そんなこと」

 お礼の言葉が胸に突き刺さるようでした。だってわたくしは、今までさんざん、菊子様との会話の中で葵都様のことを悪様に言ってしまっているのです。自分の先入観だけで彼のことを決めつけ、菊子様だって嫌っているに違いないと思い込んでいたのです。

「菊子様、わたくしは」

 そのとき、着物の袂をくいと引っ張られました。こんなことができるのは、斜め後ろに控えている妙子だけです。

 妙子はいつものあの、気の抜けた声で話し始めました。

「菊子様は葵都様と結婚して幸せでしたか?」

 わたくしのお姫様は、何も言わずに、ただ深くうなずきました。

 その姿を見て肩の力が抜けました。

このお方が幸せだったのなら、何も言うことはありません。


「それにしても、検索履歴を消していなかったのはうかつでした。これが届いたときの伝票や段ボールはすぐに紫苑に燃やしてもらったのだけれど」

 なるほど、植松さんが焼却炉で燃やしていたのは、ゴミ箱の中身だったようです。

「ええ、その、まあ、ネットに触れる機会が少ない方ほど忘れますよね」

 楽しげな笑い声をあげた菊子様は、再びわたくしを見て言いました。

「おばあさんは気を付けないといけませんね、トキさん?」

 わたくしは「そうですね」と答えつつ、内心はかなり焦っていました。そうでした。わたくしも気をつけねばならないのです。

帰ったらすぐにパソコンを開いて、履歴を消さねばなりません。

「お義母さん、大丈夫ですか?」

「大丈夫よ、大丈夫。……あなた、しばらくは探偵の楽しみとやらをしないで頂戴ね」

だってそこには、『嫁 仲良くなる』『嫁 優しくする』という言葉が並んでいるのですから。




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