96 : 暗闇から聞こえる
前へ倒れ込んだオランジェ君が立ち上がるのを確認し、俺達も部屋へ侵入した。分解したドアノブは数分もすれば再生するだろう。オランジェ君はあたりをきょろきょろ見回していた。
換気扇の回るような低い音が、うるさいくらいに響いている。俺とゲイブ、そしてグリューンは、部屋の中の光景を目の当たりにした。
「いっててて……ちょっとリラ、また切れちまった……頼むぜ」
「あ」
どさり、と音。グリューンが地面へ、腰をおろしている。崩れ落ちたのだ。目を見開き、口を微かに震わせ、微かな声を漏らしている。
「あっ、あ、あぁ、うわ、あ……」
「グリューン……? なあリラ、暗視頼むよ。どうしたんだ、グリューン?」
「オランジェ君」
ゲイブは口元を抑えながら、地面へ座り込んだグリューンを抱きかかえた。
「────だれ?」
そんな、声が。
「……え?」
「見ちゃ駄目だ! オランジェ君!!」
ばちんっと音を立てて、暗闇に覆われた室内へ明かりが点った。目を焼くような光に視界がくらむが、すぐになれる。低く唸っていた換気扇の音が、止んだ。
「だれか、そこに、いるの?」
その空間は、随分と広かった。
石壁に囲まれた部屋、等間隔に並べられた寝台。その上に──なにかが横たわっている。
「あ、あが、あう、い、いあ」
「おかーさんおかーさんおかーさんおかーさんおかーさん」
「虹のカップでバッタの花を摘みましょうパンケーキのティアラと絹のスープで朝ごはん」
「いたいよ、いたいよ、いいいいた、いたい、よ」
「魚が、お魚がぼくの足をかじるよ。たすけて、ぼくの指、いもむしになっちゃう」
「あ──ッ!! うわ────ッ!!」
うめき声、うわ言、悲鳴、叫び。換気扇の音でかき消されていたそれらが、あたり一面に響き渡る。
声の主、寝台の上に並ぶ影。 口元を残して、巨大な虫のようなものに取り込まれているもの。腹の部分に顔みたいなものができたもの。トカゲの頭部になったもの。手足が植物のツルになったもの。
思わず吐き気を催した。おおよそ人間の姿ではない。なにより──それらの大きさが、残った人の体が、幼い子供のものだった。
「────あ」
呆然と、目を見開いたオランジェ君の口から、乾いた声が漏れる。まずいと判断し、咄嗟に動いた。オランジェ君の口をふさぎ、通路を引き返す。
彼は何かを叫ぼうとしたが、くぐもった呻きにしかならなかった。抵抗するのを抑え込み、この空間から逃げ出すために、この状況から抜け出すために急ぐ。動けなくなったグリューンを抱えたゲイブも続いた。
「また、来てね」
明確な意思を持った声。それを投げかけた少年──頭の上半分、右肘から下、左脚全体が水晶のようなものへ変質した少年は、確かに、俺達の方へ顔を向けていた。それに背を向けて、俺達は通路を駆ける。中にいた人々に見つかればそこで終わりだ。降りてきた通気孔の元まで、走る。
「ゲ、イブ」
「喋らなくていいっす、グリューン。大丈夫、あれは、悪い夢っす」
ゲイブが必死に落ち着かせるように話す。あいつ自身も、かなりのショックを抱いているはずだ。それを悟られないよう、不安にさせないようなんとか取り繕っている。
「な、んで……!」
オランジェ君が手を伸ばした。愕然としたように、落胆したように、虚ろな目で手を伸ばす。
「助けないんだ!! なんで、置いていくんだ!! なんで見捨てるんだ!! あんな、あんな目にあった子達を!!」
「落ち着いてオランジェ君!」
「あんなの、おかしい! おかしい!! なんで、なんで!!」
再び暴れ出したオランジェ君。もし職員らしき人々に見つかれば終わりだ。本能がそう告げている。必死に彼を抑える。今手を離せば、さっきの部屋まで走る勢いだ。
「あんなのおかしい! 助けないと……助けないと!!」
「オランジェ!!」
声は抑えながらも、張る。一瞬動作が怯んだ隙に畳み掛けた。
「助けたい、そう思うのは勝手だ。だけど、ここがなんの施設で、なんのためにあの子達がいるのか、そんなのはさっぱりわからない。それも知らず連れ出して『助けた』とは、言えない! 違うかい?」
反論はない。
「これが正しいことだとは思えないけれど……。確証ももてないまま行動に移るのは、軽率すぎる! 一度、落ち着け!!」
叱咤を繰り返すと、オランジェ君は力なくうなだれた。そのまま抱え、通路を走る。
「何事だ!?」
「『チャイルドルーム』に不審な影が……」
「どうせ見間違いだろ! まったく……」
駆け抜けた通路の向こうから、耳に届く会話。先の二人組だろうか、こちらに気づいた様子はない。来た道を駆け戻り、蓋の開いた通気孔の下に立つ。
「イグジスタンス!!」
急ごしらえのはしご、それをつかんで一気に上り──通気孔内を駆け抜ける。目指すは外、一刻も早く、この施設から抜け出すために。
狭い通路を、人を抱えて進むのは中々苦しかったが、そんなことを言っている場合ではない。必死に走り、抜け出す。
外の空気を肺一杯に吸い込む。オランジェ君は途中で抵抗をやめ、なすがままに身を任せていた。格子を修復し、一息つく。ゲイブに抱えられていたグリューンが、強くゲイブの袖を握った。
「ねえ……あれは、何」
グリューンは暗闇でも目が利くし、耳も利く。明かりが灯り、換気扇が止まる前からあの室内を見てしまったのだろう。普段は無感情に振る舞う彼女が、明確に恐怖を抱いていた。
「……わからない」
そう答えるのが、やっと。それから、まだ動けないオランジェ君とグリューンを支えながら、即座にその場を離脱した。窪地を這い上がり、遺跡の中へ。石壁にもたれながら、その場に座り込む。
「暗い中から、聞こえてんだ……助けてって、痛いって、怖いって……あんな、あんなの……っ」
「思い出しちゃ駄目っす、忘れて、グリューン」
震えるグリューンの頭を撫でるゲイブ。気丈に振る舞いながらも顔は真っ青だ。オランジェ君を地面へおろした。ぺたりとその場に座り込み、呆然とうつむいている。
「……紋様」
「え?」
唇を弱々しく動かして、かすかな声を上げた。オランジェ君はがたがたと全身を震わせながら、顔を上げる。
「紋様、だよ。あの男達の服に、刻まれた紋様……」
見開かれた目、俺を見ているようでどこかずれた場所を見ている。
「胸元に、銀の刺繍……狐、みたいな……。それ、からっ」
喉の奥から、引き攣るみたいな音がした。ひゅっと、息を飲む声。
「星にっ、絡みつく……竜、の、紋章! 星見の騎士、だったんだよ……あいつらは!」
この世界を牛耳る十二貴族……オランジェ君、ヴァイスさんも含めた彼らに使える最高戦力。星見の騎士。ブラウ君が属する組織。
あの施設は星見の騎士が回していた。つまり、それが、意味することは──!
一息、深呼吸。動悸を押さえ、そばにいるであろう火の精へ呼びかける。
「シュヴァルツさん、こちらリラ。……まずいものを発見した」
すぐにでも連絡は行くだろう。鞄の中から、俺達用の帰還の楔を取り出す。
「俺達は即座に離脱させてもらう。申し訳ない。そして君達もすぐに戻ってきてもらいたい」
これは直感だ。直感が、全力で警鐘を鳴らしている。
「下手すれば──とんでもないことになる」
その言葉を最後に、地面へ帰還の楔を打ち込んだ。