72 : 私は貴方を守ります
「あ、にうえ、どこ?」
「私はここにいますよ、クヴェル」
伸ばされた小さな手を、そっと握る。寝台に横たわったクヴェルは身動ぎして体を起こした。
「もう大丈夫なのですか?」
「うん。……ごめんね、あにうえ」
申し訳無さそうに俯くクヴェルの頭を、ブラウは撫でた。何を謝る必要がある、そう込めた視線を向ければ、より一層クヴェルは縮こまった。
「ここに、いられなくなる?」
「…………」
ブラウは、答えることができなかった。
キャビネットに置かれた本、壁に貼られた絵、この街で築いた思い出が二人を縛る。
「ごめんなさい、あにうえ、ごめんなさい……! ゆめを見たら、もう、かかなくちゃいけないきがして……どこかにのこしておかなきゃ、ておくれになるきがして……!」
「責めやしません。……遅かれ早かれ、『竜の眼』の存在はバレていたんです。だから……貴方が気にすることじゃない」
クヴェルの涙を指先で拭う。その体をまた寝かし、しゃくりあげる肩を擦った。
「それよりもクヴェル。教えて下さい。貴方の見た『可能性』、それは、どんなものだったのですか?」
「……」
クヴェルは目を閉じる。そして、その唇を開いた。
「海の中、なの」
「ええ」
「五つの大きな岩があって、そこから水のはしらがのびてるんだ」
「水の柱……ですか?」
「うん。……そのまんなかに、大きなくじらがいるんだ」
海の中、付き出す五つの岩、水の柱。そして鯨。
「そのくじらがね、海にあいたおっきなあなを、ふさいじゃってるの」
「穴……」
ブラウは合点がいったように思考する。
「くじらがふさいじゃってるせいで、海の水が下に行かないんだ。そのせいで、下にいるわるいものがおさえられないんだ」
「悪いもの、とは? 魔物ですか?」
クヴェルはゆるりと首を横に振る。わからない、と小さく言った。
「でも、よくないものなのはわかるの。こわくて、おさえなくちゃいけなくて、すごく──つよい。止めなくちゃ、あがってくる」
そこで、クヴェルはブラウに視線を向けた。金の瞳にブラウが映る。
「あにうえ、止めて。あれを、出しちゃだめ。おねがい」
「……勿論ですとも」
ぎゅっと手を握りしめ、ブラウはその甲を額につけた。
「私は貴方の兄。私は必ず、貴方を守ります。クヴェル。大丈夫、兄を信じなさい」
そう言うと安心したように微笑み──クヴェルは目を閉じた。その頭を優しく撫でる。そして目を閉じたまま、クヴェルは言った。
「あにうえ」
「なんですか?」
「クライにぃなら、あにうえのちからになれるのにな」
頭を撫でる手が、止まった。
「ぼくはまだこどもだから、ずっとずっと、よわいから。なにもできない。あにうえのちからになれない。ぼくが見た未来なのに、ぼくのちからで何もすることができない」
「クヴェル──」
「おねがいあにうえ、ひとりでいっちゃだめ」
続けようとした言葉は、そこで止まった。ブラウは唇を噛み締める。
「もう、いやだよ」
彼らの脳裏に焼け付く光景。
焼け落ちる家、泣き叫びながら手を伸ばすブラウ、崩れた民家の中から現れた人影。差し出される血に濡れた宝石。叫び声、消して忘れられない──笑顔。
「もうぼくのために、だいじな人がいなくなるのは、いやだよ」
ブラウは、何も言えずに目を伏せた。
クライノート。 ブラウ達兄弟の命の恩人にして、家族、そして親友だった少年。その身に竜の眼を宿し、竜の力を得た少年。
その竜の眼を狙い現れた野盗により、火を放たれ焼け落ちた柱に心臓を貫かれたクヴェル。クヴェルを救うために彼は──自身の心臓、すなわち「竜の眼」をクヴェルへ与えた。
忘れられない、忘れてはいけないとブラウは常に言い聞かせている。あの日、弟のために死した親友の笑顔を。
──関係のないクヴェルを巻き込んだのは俺だ。
──止めないでくれ、ブラウ。みんなに、ありがとうと伝えてくれ。
──これでいいんだ。
心臓を失った弟。笑って、己の心臓を引き抜いた友。抱き寄せた友の体、その冷たさ。反対に、ぬくもりを持ち始めた弟の体。何もできなかった自分自身。胸の奥に燃え滾る後悔──それを、ブラウは忘れない。
「──大丈夫。私は、貴方の元からいなくなったりしません」
ブラウは微笑み、また頭を撫で直す。大丈夫、となんとも繰り返し、クヴェルに、自分自身に言い聞かせた。
「もうなにも、失いません。失わせやしません。私が、貴方の見た未来を変える」
一階ホールにて、俺は立ち上がる。階段を上がり、自室がある三階ではなく二階へ。
手前から一、二、三番目。元は空き部屋だったそこの前に立つ。少し間を開け、躊躇のないノック、ノック、ノック!
「なにようっさいわね! ばんばんばんばん叩くんじゃないわよ!」
「開けていいよー!」
中から声、ヴァイスは扉を開けずに言った。
「一階集合」
きゃんきゃん言っていた声が止み、二人揃った返事が届いた。
「了解」
そして一階ホール。ロゼとババア以外の面々は集まり、俺からの話を聞いていた。シュヴァルツは無言で思案し、ロートはわからないことに首をひねり、ジルヴァだけは何かが引っかかるような反応を示す。
「……と、言うわけなんだが」
一通り話し終え、沈黙。真っ先に口を開いたのはロートだった。
「それ、間違いなく騎士サマ、ひとりで行くわよね」
「ああ。賭けても良い」
駄目だそりゃ、と肩をすくめる。次にジルヴァが手を上げた。
「海の穴、くじら、その情報は確かだね?」
「おう。間違いない」
「そのくじら、てのはどういう生き物なの?」
地上の生物ゆえ、ジルヴァが知らなくても無理はない。クヴェルのスケッチブックを一ページもらい、適当だが絵を描いて説明した。
それを見、ふむふむと頷く。椅子をとんとん、と叩きつつジルヴァは言った。
「間違いない。そのくじら、が噂の『リヴァイアサン』だ。大穴、は五層への穴。下にいる悪いものってのが微妙だけど……」
巨大な二足歩行の獣、みたいな姿だったセト。
鳥の翼と下半身を持つ女の姿をしていたハルピュイア。
そして、巨大な鯨? 神霊とやらはどうなっているんだ。
「まあとにかく、リヴァイアサンを倒すことがその『未来』を変えること、なんだと思う。その他の特徴を聞けば更にはっきりするかもね」
「その特徴を聞けば、騎士サマなら賢いしさっと気づくでしょうね。……そうすりゃ、いよいよひとりで突進よ」
ロートの言葉にうんうんと頷いた。あいつは絶対ひとりで行く。間違いない。それに無理矢理ついていくのはいいとして、だ。
「ロゼはどうするんだよ」
シュヴァルツの言葉にロートとジルヴァは黙り込んだ。俺もまたそれに並ぶ。
「彼女はまだ動き回れる状態じゃない──と、思う。正直、師匠が過労って言ってたのも信じられないし、もしかしたら……何かあったのかもしれない」
そこなのだ。今、ロゼを連れて迷宮に行こう! と言うわけにはいかない。しかし今の彼女を残して行くことは不安だ。
「ロゼが心配な以上、彼女を残して行くわけには行かない。師匠やツュンデンさんがいるとはいえ、不安要素が──」
「私の心配は、不要です」
響いた声に皆が顔を上げる。階段を降りてくるロゼの姿だった。側にはババア、ブランケットを羽織り降りてくる。顔色は迷宮内にいたときよりだいぶ良さそうだ。
「大丈夫……なのか?」
「ええ。かなり楽になりましたわ。ご心配おかけしましたシュヴァルツ様、皆様」
「いや元気ならそれが一番よ」
「そうだよ!」
ロゼはにっこり微笑む。ババアがふんと鼻を鳴らした。
「過信するな。まだ迷宮探索に向かうほどは回復しておらん」
「うっ……」
やっぱりまだ駄目じゃないか。ロゼは取り繕うように早口で言った。
「た、確かにまだ動き回れはしません。ですが、この宿の留守番程度なら、できますわ」
そう言って、俺達を見る。
「私は大丈夫。だから、ブラウさんを助けてあげてください」
微かに視線が天井へ移る。話を聞いていたのか。
「……ロゼ、本当に……いいのか?」
「シュヴァルツ様? 私だって……いつまでも守られてばかりでは、嫌になりますわよ?」
ふっと微笑むその顔に、シュヴァルツは目を逸らした。なんとも言えぬ空気を振り払うため、俺はぱちんと手を叩く。
「んじゃ、決まりだな」
大きく伸びをして周りを見回す。仲間達は勿論、ババアもツュンデンさんもこっちを見ていた。
「俺らは、勝手にするぞ!」
「おうっ!!」




