70 : 予兆、そして予言
「師匠! いらっしゃいますか!?」
ロゼを抱き上げたシュヴァルツが、勢いよく宿の扉を開く。その後ろから俺達が縺れ込むようにして中に続くと、カウンターに座っていたババアとクヴェルは目を丸くしていた。奥に立っていたツュンデンさんも驚いている。
「何事じゃ一体……」
「ロゼが!」
濡れ鼠のまま早足でババアの元に向かい、腕の中で眠るロゼを見せる。
「迷宮探索途中に、ロゼが倒れたんです。医者に見せようとしたんですが……」
ロゼがそれを拒んだことをシュヴァルツは早口でまくし立てた。ババアは険しい顔をしてロゼの顔を眺めた。すぐさま椅子から飛び降りる。
「こやつの部屋に。まずは寝かせよ。それからは儂がどうにかする」
「ありがとうございます!」
部屋に運ぶのはロートが変わった。受け渡されるロゼの体は、雨の中を走ってきたというのにそれほど濡れていない。シュヴァルツが必死に庇ったのだろう。
二階に消えるロート、ロゼ、ババアの背中を見つめ、俺達はホール内で立ち尽くした。
「と、とりあえず……おかえり」
ツュンデンさんが遠慮がちに言う。
「あ、ただいま……」
「ただいま、母さん」
「ただいま戻りました。クヴェル」
「戻ったよ」
ぽたぽたと落ちる雫。役所からここまで、お構いなしに走ってきたからずぶ濡れだ。
「そこから一歩も動くんじゃないよあんた達!!」
即座に動きを封じられ、ツュンデンさんはクヴェルを連れて二階に消えた。指示に従い固まる。ツュンデンさんは一瞬のうちに降りてきた。その手にはタオル。クヴェルはまだだ。
「ええいもう恒例だね! 次に言いたいことがわかるかい!?」
びしり、と投げつけられるタオルを受け取り俺は答える。
「銭湯へ行って来い!」
「そのとおり! はよいけ!!」
いそいそと体を拭き、傘を受け取る。クヴェルが持ってきてくれた着替えと財布を手に、俺達はまた雨の中へと飛び出した。
「あんたはこっち!」
「えぇ〜! ボクもセントー? 行って見たい!」
「ロートがあのまま上にあがったからね。風呂入ったらここと二階の掃除だよ!」
「ひどいやツュンデ〜ン!!」
銭湯にて。雨で冷えた体に温もりが染み入る。相変わらず客はいない貸し切り状態だ。静かな環境に暖かいお湯、しかし心はざわついたままだった。
「ロゼ、どうしたんだろうな」
「……ああ」
今までずっと健康体そのものだったロゼが、突然倒れる。ずっと同じものを食って同じように動いてきた俺達がピンピンしているのだから、その理由は彼女の体にあるのだろう。
「心配だな」
「……うん」
シュヴァルツは勢いよく立ち上がり、脱衣所へ向かった。
「もう上がるのか?」
「うん、早めに帰る。二人はもう少しゆっくりしてていいから」
そう言って、扉の向こうに消えた。俺とブラウが残される。
「なぁブラウ」
「なんでしょうか」
「お前のガキの頃って、どんなかったんだ?」
回答は沈黙。丁度いい機会だと思ったのだ。俺はこいつのことをほとんど知らない。
知っていることといえば、クヴェルを死ぬほど大事にしてること、昔蟹領でゲイブやリラ達と暮らしていたこと、彷徨い歩いていたところを親父に拾われたってこと。そのくらいだ。
「……深く話すことではありません」
「つまらない面白いの話じゃねえよ。仲間のことを知りたいと思うのは、当たり前だろ」
濡れた髪の隙間から、温度の無い深緑の瞳が覗く。俺を一瞥し立ち上がった。
「逃げんのかよ!」
「坊っちゃん」
その声は、出会ったばかりの頃を彷彿とさせる、冷たい声色だった。
「貴方は主の息子、それだけです。この旅に同行しているのも、主の名があったからこそ」
雫が落ちる音が反響する。
「仲間、などという馴れ合いは不要です」
そのまま歩き、脱衣所の扉へ手をかける。その背中、無数の傷が刻まれた背中に俺は声を投げる。
「まるで、あの時のロートみてぇだな」
ぴくり、と扉にかけた手が固まる。少しの間の後、扉の向こうへ姿を消した。一人残された俺は肩まで湯に沈む。曇った天井を眺め、ため息をついた。
なんで俺の仲間には、こんな頑固者が多いのだろうか。
「おかえりっ!」
「おかえりー」
二股の黒猫亭に一人で戻った俺を出迎えたのはジルヴァとロートだった。奥のカウンターにシュヴァルツとブラウもいるが、二人は無言で座っている。ブラウの膝の上でクヴェルが不安げな顔をしていた。
「ロゼは?」
「疲労、だってさ」
カウンターの定位置に座ると、奥から出てきたツュンデンさんが遅めの昼食を出してくれる。は? 疲労?
「んなわけあるかよ、あんな倒れ方して……」
「レーゲンがそう言ってんのさ。問い詰めたところで、私らじゃ医療知識無いしわかんないよ」
シュヴァルツがぶすっとしているのはそれか。納得いっていない様子だが……それは俺も同じだ。
「んっだよそれ……」
出されたサンドイッチを齧る。すっかりホール内は暗いムードだ。あのロートやジルヴァでさえ、空気を読んで黙ってしまっている。
「……んで、そのレーゲンは?」
「ロゼの部屋。元気になるまでつきっきりだってさ。……アタシとジルヴァは今日から別室に移動よ」
今までロートとロゼは相部屋で、そこにジルヴァが加わり、部屋が整うまでは三人でいたのだ。そのジルヴァ用だった部屋にロートも移動するらしい。
「と言うわけで、移動の準備するわ」
「おう」
ジルヴァを連れ立って二階に上がる二人を見送る。
「……探索再開はいつから?」
「ロゼが元気になるまでは、やめとこうか」
シュヴァルツの問いにそう返す。大事な仲間だ。ゆっくり休ませたい。俺の答えを聞き、少し間を開けてからシュヴァルツは立ち上がった。
「どこ行くんだよ」
「部屋。ちょっと寝る」
そう言って、階段を上がっていく。一階には俺とブラウ、クヴェルとツュンデンさんが残った。
「なんだかんだ、あの子もロゼちゃんのことは心配してるんだね」
グラスを拭きながらツュンデンさんがそう零す。俺は四つ目のサンドイッチに手を伸ばしつつ頷いた。
「なんだかんだ、ロゼが危ない目にあったり困ってたりしたら、助けるのはあいつだよ」
空になった皿を回収された。
「『勇者様』って呼ばれたしな、一応頑張ってるんだろ」
「春だねぇ」
微かに聞こえる雨音に耳を澄ます。カウンターに座るブラウの横顔をちら見した。銭湯でのことがあったから少し気まずい。
気を紛らわせるために、その膝の上に乗ったクヴェルを見た。俯いて、眠ってしまったのだろうか。その正面、カウンターの上に乗ったスケッチブックを見つけた。
「これ、クヴェルの?」
「あぁ、はい」
「あんたらが留守の間、結構描いてたわよー。上手だし、将来有望ね」
「へぇ〜ブラウとは大きな違いだな」
俺の言葉にブラウはじろりと睨んで反論する。しかし事実だ。ブラウの絵はなんというか……凄まじい。
ページを捲る。教会で遊んでいる絵、街の絵、ツュンデンさんと料理をしている絵……子供らしい元気さを備えた愛らしい絵だ。特徴を捉えており、確かに上手い。
その中の一枚を見て──俺は、手を止めた。
並ぶブラウ達の姿の横に、薄黄色い線に包まれた大きな影らしきものが描かれている絵。俺達が、二層の神霊セトと戦っている光景?
「それ上手いでしょ? あんたらから話を聞いて描いたんだろうけど、想像でそんだけ描けるってのはすごいもんだよねぇ。そこからしばらく後の、あんたらを夢で見たときの様子を描いた、っていう絵も上手だったよ」
捲る、捲る。青空の中を飛び降りる俺達の絵。鷹の目連中も入れたみんなが揃っている絵。その絵、俺の腹とオランジェの左手に赤い色が塗られている。他にも、青い中──海だろうか。そこを、岩のような生き物の背に乗って進む俺達の絵。
「なぁ、ブラウ。お前、こんな話クヴェルにしてるのか?」
ブラウは、無言で首を振った。その横顔、目が見開かれ、明らかに動揺している。
「俺もこんな話クヴェルにしてない。なんでクヴェルは、こんな絵を描けるんだ?」
それでもブラウは──なにも、言わない。俺はスケッチブックを置き、眠るクヴェルを見た。
「クヴェ────」
声をかけようとして、気づく。俯く横顔、髪の間から見える顔色。眠っているのかと思ったが違う。唇を微かに震わせ、なにかに怯える表情をしている。
「クヴェル!?」
俺の声にブラウが気づいた。体の向きを変え対面にさせる。顔にかかる前髪を避けてやった。
「どうしたクヴェル!」
「あにうえ、いた、い」
俺の声に、か細い声がそう言った。頭を押さえる小さい手、それはがたがたと震えている。ツュンデンさんも何事かと飛び出してきた。ブラウは黙り、クヴェルを抱きしめている。
「どこか痛むの!? 怪我したのかい!?」
「けが、じゃ……」
「どうした? 苦しいか? すぐにババアを──」
クヴェルはぎゅっと、ブラウの服を掴んだ。それでもブラウは何も言わず──ただ、必死に何かを堪えるような顔をしていた。
「あにうえ、だめ、よくない、こわいのが、でてくる」
クヴェルはその金の目で、ブラウの顔をじっと見つめる。
「とめて、とめて。大きなくじらが、せんをしてるの。うみをふさいでるの。それを、こわして。下からでてくるこわいのを、とめて」
意味のわからない言葉の羅列。呆気に取られる俺とツュンデンさんを他所に、ブラウはぎゅっとクヴェルを抱いた。
「大丈夫、大丈夫です。貴方の兄は、約束を守ります。貴方の見た未来を、実現させはしない。必ず、貴方を守ります」
その答えに安心したのか、クヴェルは柔らかく笑みを浮かべた。そして──力尽きたようにがくんと倒れる。
そのときのブラウの顔。何かを覚悟した男の顔だった。




