144 : 踏ん切り
──Side Weiss──
頭の奥が鐘の鳴るように、響くように痛む。霧がかった視界が揺らぎ、奥に立った母さんの姿がぶれる。
「どうしたの? ヴァイス」
俺が、女性に好意を抱いて迫られたとき、起こる発作の理由がわかった。俺自身が無意識に、この記憶を封じ込めようと防衛本能が働いていたのだ。
罪悪感と嫌悪感で吐きそうになる。潰された花、頭が痛い。そうだ、俺の女性不信は俺自身のせい。それがようやくわかった。だからといって、それがどうなる? 今の俺に、母さんへ合わせる顔があるのか?
「ほーら、顔上げて? 母さんに顔見せて」
「母さん……俺」
母さんの大事にしてた花を潰したんだ。追いかけられるのが怖くて、それで。守るって、咲かせるって、約束したのに。それなのに。
女性に迫られる度、その顔があの日と重なる。母さんに、怒られると感じる。そして、自分自身への罪悪感に押しつぶされる。口から悲鳴が飛び出しそうだ。自らの喉を切り裂きたい衝動に襲われる。
──夢を語るのは結構。でもあんたら、どーやってそんなの探すつもりだい?
──シスターやってるだけじゃ食ってけないの。度々迷宮潜ってるから、迷宮探索のコツも教えられるし戦力にもなったげる。どう?
──改めまして、私ロゼと言います。銀月教では、教祖を務めておりました。
──ずっと男だと思って隣に置いていた奴が女だって気がついたらさ──絶対、腹よじれるくらい、面白いに決まってる。
──キミの力になりたいんだ! キミと共にありたいんだ! キミの側にいたいんだ!!
はっ、と。顔を上げる。そうだ、俺は、何故彼女達が平気だった?
俺に好意を抱いていないから? 俺のことをなんとも思ってないから?
──了解よ、ヴァイス!!
──ヴァイス! ボクを、キミの仲間に入れてくれ!
彼女達は、アリエス家の次期当主ではない。ヴァイスを見ている。心の中の奥底で、どこか懐かしい気持ちがした。
だって、俺を俺として見てくれた最初の人は────
「母さん」
母さんは首を傾げている。俺は顔を上げた。真正面から、彼女を見る。もう身長はとうに追い越した。一歩、前に。
「俺、冒険者になったんだ。俺、仲間ができたんだ。親父と言い合いしたんだよ。親父に歯向かって……ここまで来たんだ」
「うん、知ってる。ヴァイスがすっごく頑張ったことも、ヴァイスがすっごく勇気を出したことも」
母さんとの約束。俺が抱える世界一大きな夢を、必ず叶える。世界一の冒険者も、親父みたいな王様も、全部その夢への前準備だ。
「仲間達もみんな、大きな夢を持ってる。きっと、俺の夢を聞いても笑いやしない。あと少し、あと少しで迷宮の奥に行けるんだ。そこできっと、何かを掴めるんだ」
「うん。母さんは、見守ってる」
手を伸ばせば届く距離に立つ。ここまで、ここまでだ。俺と同じ色をした母さんの瞳に、俺が映る。伝えなくては。たとえ幻だとしても、伝えなくてはならないことがある。
「母さんに、謝りたかったことがあるんだ」
「なぁに?」
「あの日──俺、母さんに任された花を、潰したんだよ」
深く、深く頭を下げた。
「ごめんなさい……守るって、咲かせるまで、大事にするって約束したのに……」
頭の上、そっと触れる、手。こんなの、夢なはずなのに。こんなの、現実なわけがないのに。何故──何故、触れる手は暖かい?
「いいの。気にしなくて。母さんだって、約束守れなかったんだから」
本当の母さんなわけがない。それでも──こんなに、安堵してしまうのは何故だ?
「咲かせてくれたんでしょ? なら、気にしなくていいのよ。……ずっと、伝えようとしてくれて、ありがとうね」
「────うん……うん……っ!」
胸の奥が、すとん、と軽くなった。
「……もう、行かなきゃね」
母さんが言った。顔を上げる。少しだけ悲しそうな顔をしていて。
「どこに?」
「あんたの現実へ」
そうだ、帰らなくては。夢を見るのは止めて、夢を目指さなくては。
母さんは俺の両頬を手で掴み、笑った。それは記憶の中と変わらない……いや、記憶の中より、晴れ晴れとした笑顔で。
「頑張れ、ヴァイス! あんたが夢を叶えた後の世界、私はずっと待ってるからね!」
「ああ────見ててくれ、母さん」
霧が薄まると共に、母さんの姿も薄まる。俺はそれを振り払い、前へ進んだ。
──私はあんたの夢を応援するからね。父さんは色々言うかもだけど、自由にするあんたを見るのが私は大好きなんだから!
──でも口にしたからには、絶対叶えるんだよ。叶えなくちゃ、夢じゃなくて理想だからね。母さんとの約束、忘れないでね。
「いってきます」
──Side Blau──
背後に立つのは父と母。もう十年も前に死んだはずの。
「友達は生き返らせるのに?」
「私達は生き返らせてくれないの?」
「私達のことなんて忘れたのかい?」
「本当の家族より今の家族が大切なの?」
それが正しい声なのか、それがなにかの間違いなのか。それすらもわからない。ずっと、ずっと昔の話だからだ。
「違う……ふたりは、もう、遺体が」
我々知恵の民は、命付きた後、その肉体が腐敗しないという特異な性質を持つ。火にくべない限り、その肉体は不変のままだ。故に私はクライノートが死亡した際、生き返る希望にすがり火を拒んだ。
だが両親は、ふたりは、違う。病の根絶という大義をかざし、民衆は家ごとふたりを焼いた。そこに理性も、罪悪感もない。ただひたすら、狂気のような「正義」の本流。もはや濁流と呼ぶべきかもしれない。それに押され、ふたりは死んだ。あの日、生まれたばかりのクヴェルを私に託して。
「ブラウ」
「ブラウ」
「ブラウ」
両親が、クライノートが私を呼ぶ。
「私達を見捨てないでくれ」
「私達を忘れないで」
「ブラウ」
脳裏に響き続けるふたりの声と違い、彼の声だけは凛と鳴る鈴のようにまっすぐ響く。
「何故お前は、両親より俺を選ぶんだ?」
その言葉に、はっとした。顔を上げる。色を変えるクライノートの瞳、クヴェルと同じ色に揺らめく瞳。
「お前の願いをまだ────まだ、聞いていないからだ」
驚いたように、悲しげに、眉を寄せるクライノート。真っ直ぐに、彼の目を見た。彼を見た。両親の声が遠ざかる。いや、あれは両親ですらない。本当に父と母ならば──今更、生き返らせろとせがむはずはない。
「父と母は、私にクヴェルを託して逝った。『ふたりで生きろ』と願って逝った。私はその願いをずっと、叶えるために生きてきた。これまでも、これからも。でも……お前は、お前は────違う」
手を掴む。確かに、暖かな手。あのときと何も変わらない、細身で骨の浮いた腕。
「……クライノート、お前はまだ、やり残したことがあっただろう」
あの日、あの夜。戻ることさえできたらと何度願ったことだろう。戻れれば、戻りさえできれば、私は誰も死なせない。
「俺だってそうだ。まだ、何も返せてない。クヴェルも、俺も、命を救われて……お前に何もできてない。お前ひとりで満足した顔して、逝かせるなんて納得がいかない」
彼は言っていた。彼もまた、誰かによって繋がれた命。その誰かに、報いれるように生きると。
「クヴェルを救って自分は死んで、それで良かったなんて言わせない。俺が、許さない」
腕の中で、冷えていった体。耳鳴りがするほどの静寂。それを、忘れてはならない。
俺はまだ、あの日に囚われ続けている。
「……ああ、ブラウ」
クライノートは柔らかく笑っていた。手首を掴んだ俺の手を、ゆるりと振り解く。
「……お前の親だ。彼らはきっと、あんなことは言わないさ」
「ああ……ずっと忘れない」
向かい合う。気づけば私の体は元に戻っていた。成人を過ぎ「大人」になった私は、彼の背をとっくに越えている。最後の日までは、彼と身長は変わらなかったというのに。
「クライノート」
その手はもう、彼には触れない。この彼は幻、私の記憶が見せる夢。こんなものに縋らなくたって、いつか、必ず。
「必ず、また会おう」
ゆっくりと、彼はその手を振った。
「待っている。クヴェルやゲイブ、リラに、よろしくな」
それに頷き私は────彼に、背を向けた。




