143 : 彼が女性を苦手になった理由
──Side Weiss──
先日までの雨が嘘のように晴れている。まるで快活なリリーベルの性格を現したような晴天に、アーベントは頭を痛くした。扉の向こう、ヴァイス少年の私室から騒がしい音が聞こえてきた。すぐに辟易した様子の執事長が部屋から飛び出してきて、ため息をつく。
「ああ旦那様……」
「ヴァイスの調子は?」
「全く駄目です。寝台から出てきもしません」
アーベントは黙って少しの間考え、執事長を下がらせた。扉を叩く。返事はない。
「ヴァイス。出てきなさい」
「……いやだ」
言葉をかければ、たっぷりの時間をかけてやっと端的な返答。アーベントの予想通りだ。
「母さんを一緒に送ろう」
「うそだ。……かあさんはかえってくる。やくそく、したんだ」
「……わかっているだろう? お前は、母さんによく似た──賢い、優しい子だ」
沈黙。アーベントは続ける。
「お前が大事に育てた、母さんの代わりに守った花を摘んでおいで。母さんに見せてあげなさい。母さんが呆れないよう、立派な姿を見せてあげなさい」
「……うん」
ずるり、と衣擦れの音。アーベントは黙り、扉から離れた。酷なことだとはわかっている。冷たい親だとは自身でわかっている。でも、乗り越えなくては。乗り越えねば少年は──この先の苦難に、勝つことができない。
愛する妻の葬儀。本当は家族だけで見送りたかった。だがそれを、彼の立場が許さない。羊領に点在する名家の者も訪れる。礼服の重さにため息ひとつ。アーベントは階段を降りた。
ヴァイス少年が庭に出る。一階には、見たこともない大人が何人もいた。それがなんだか恐ろしくて、彼は駆け足で花壇を目指す。
初めて袖を通す礼服。泣き晴らした顔。ぴしりと顔をひとつ叩き、ぬかるんだ地面を慎重に走った。
「あら、貴方は──」
背後からした声。ヴァイス少年は振り返る。緩く巻いた髪に長いスカートの礼服。歳は少年より十以上離れているだろう。慣れない大人の女性に少年はぎょっとした。
「アリエス様のお子様? 私、──家の……」
聞き終わる前に走り出す。泥が跳ねるのも気にしない。怖かった。大人の女性が向けた、じっとりとした視線が怖かった。少年ではなく、その奥。何か深いところを舐め回すように見ている目が。
「アリエス様の────」
「お待ちください!」
「我々──家の────」
耳に響く。うるさいと耳を押さえる。追いかける足音に脈動が早まる。少年は走った。ぎらぎらとした目で彼の──いや、彼の「立場」を狙う彼女達が、恐ろしくてならなかった。
誰ひとりとして、彼を「ヴァイス」として見ない。「アリエス家の次期当主」「領主の息子」、そうとしか見ない。彼はまだ幼き少年だというのに、背負った立場に背負われている。
ヴァイス少年よりいくつか歳上の少年とぶつかる。見慣れぬ異国の服装、どこの家かと思ったがヴァイス少年は一言「ごめんなさい」と早口に言い放つと顔も見ずに駆け出した。ぶつかられた少年は、駆けていくヴァイス少年の背を見送る。
ヴァイス少年はそうこうしながら花壇へたどり着いた。色とりどりのマリーゴールド。ささやかに彩るノースポール。垣根に絡む薔薇の花、すらりと伸びるダリアにガーベラ。母が育て、少年が守った鮮やかな花達。
早く花を摘んで戻ろう。そうしゃがみこんだその時だった。
「ここにおらしたのですね、そろそろ葬儀が始まりますわ」
「御子息様、さぁ私と参りましょう」
「ごしそくさま、はじめまして。わたくし──のいえよりまいりました」
名家の勢力争いとは過酷である。この世の人間は十二貴族か、それ以外かに分けられると言っても過言ではない。だから商人が成り上がり、公爵の地位を得ることも可能だ。地位を得るのに必要なものは権力のみ。人を従える力、人並外れた財力さえあれば地位を買える。
その中で更に力をつけるには、さらなる地位に上がるには。より上の立場へ付け込むのが一番早い。まさに──十二貴族など、最上級へのひとっ飛び。見初められれば家ごと安泰。数百年、その家が廃れることはないとされる。
人は地位を手に入れるほど貪欲になる。大衆より上に立てば立つほど、より上を目指したくなるものだ。誰よりも上、何よりも上に立つまでは。
背後から迫る無数の声。少年の値を定めるような視線。少年はすぐさま花壇の横に生えた木へよじ登る。令嬢達には登れまい。先日までの長雨で濡れた木は登りづらいが、かまってなどいられない。
彼に木の登り方を教えたのは母親だった。執事長が泡を吹いて倒れそうになっているのを、母とふたり木の上で見た。その思い出が少年をこの恐ろしい空間から救ってくれる。そう信じて登る。礼服を引っ掛けるのも気にしなかった。ただ、怖かった。花壇の上へ伸びる太めの枝に抱きつくようにして、下を見る。
「御子息様、危ないですわ!」
「御子息様、お降りになって」
「何も怖いことなどありませんよ」
「早く戻らねば、奥様の葬儀が始まりますわ」
木の下から伸びる手。足を掴んで引き降ろされそうな恐怖に身が震える。少年は喉をかひゅ、と鳴らした。
「────じゃない」
その声は彼女達には届かない。
「おれは、『ごしそくさま』じゃない……!」
その時、ひとりの令嬢が一歩前に出る。花を囲む花壇のレンガに足を乗せた。少年が落ちてきたとき、受け止めようと思ったのだろう。そのドレスの裾が花を叩いた。
少年が目を見開く。母と揃いの色をした、透き通るような空の瞳。母によく似た愛らしい顔を歪めて叫ぶ。
「かだんに、はいるな!!」
腕を突っ張り、上体を上げた。濡れた木の表面は、幼いつやつやとした少年の手を弾く。
体が傾ぐ。木の表面を滑った手先から、体が地面へ傾いた。すべての光景がゆっくりに見える。令嬢達も、少年自身も言葉を無くした。落ちる、落ちる体。地面まではたった二メートルか少し。それでも、それでも────落ちた先には、何がある?
「────────あ」
反転した視界。青空を遮る木々の枝。少年は花壇に仰向けになり、空を見る。体が痛いのかはよくわからない。空中で体が回転し、背中から大の字に落ちたらしい。
「御子息様!」
「お怪我は!?」
「危ないと申しましたのに!」
「誰か! 人を! 人を!!」
自分を覗き込む顔、顔、顔。化粧に彩られた顔、彼女らを飾り立てるのは宝石か建前か。少年は何も言えない。己の体の下、今いる場所が彼にはわかる。
「────あ、ああ、うあ、あっ、ああ」
口の端から漏れるそれ、嗚咽と呼ぶには酷く弱い。彼は泥に塗れた手で顔を覆った。顔についた泥を涙が洗い落とす。
「かぁさん、かあさん──ごめんなさい……ごめんなさい……ああ、うあ、ああぁぁぁ!!」
彼の体の下、まるで彼を守るように、根本から折れた沢山の花。折れ、潰れ、花弁を散らして茎を寝かす。母が育て、彼が守ったその花は、彼自身の手で、手折られたのだ。──彼の望まぬ形で。
彼が泣く真意を令嬢達は知らない。落下の恐怖によるものだろうと決めつける。甘やかすように、なだめるように、近づき触れ、声をかけるがそれは無駄。むしろ、傷ついた彼の心に塩を塗り込むに等しい行為だ。
自らが花を潰したのだという、母への罪悪感。
己を追いかけ回し、傷ついた心を撫で回す彼女達への恐れ。
たった五歳。母を亡くしたばかりの少年にとって──それは、魂の奥底まで刻み込まれる「記憶」として、残り続ける。
──Side Blau──
「クライノート……? 本当に、クライノートなのか……?」
「何を言っているブラウ。俺が本物以外に見えるのか?」
頭の後ろで束ねた髪が揺れる。細身だが引き締まった手足、礼儀正しそうに見えて粗野な態度。間違えるはずがない。一歩踏み出す。気づけば、駆け出していた。
走るごとに、彼に近づくごとに。体が幼くなるのを感じる。視界が低くなり、体が軽くなる。手足の甲冑の重みが消えた。私は今、あの日の──十六歳の、あの頃に戻っている。
「クライ……クライノート!!」
「ぶはっ、なんたその顔。らしくないな」
眼前まで近づき、彼の顔を見る。その笑顔、紛れもなくクライノートその人だった。言いたいことは山程ある。伝えたいことは溢れるほどある。でも、うまく言葉が出てこない。
「わたっ、しは、おれ、は……お前を、お前を────」
「ああ。知ってる」
耳に響く声。ずっと望んでいた声。
「お前がクヴェルを守ってたことも──俺を、生き返らせようとしてくれてることも、知ってる。知ってるんだ」
「でも、今……お前に、あえ」
「私達は?」
彼とは異なる、声。彼より深く、記憶の底にしまった声。もう、思い出せもしなかった。もう、脳裏で反芻することもなかった。
振り返る。影がふたつ。私とよく似た髪の色をした大人の男。同じ瞳の色をした大人の女性。
「ブラウ、私達は?」
「と、うさん──かあ、さん」
クライノートより遥か昔。クヴェルが生まれた直後、亡くなった両親。
遠い故郷、北の果ての村を襲った病。心臓の一部が炭化し、血が黒に染まる病。病は発症していないというのに迫害され、私達は居場所を失った。銀月教の一件にて、坊っちゃん達に話した内容。あれらはすべて、私自身が体験したことだった。
それでもさまよい流れ付き、ようやく人並みの生活を取り戻したが──病の手は、私達家族を離さなかった。
生きることを否定され、死ぬことを求められ、第二の故郷も居場所を追われ。逃亡の日々の中、両親は死んだ。病でではない。迫害の果て、撃たれて死んだ。私の腕に、生まれたばかりのクヴェルを遺して。
そして逃亡の中クライノートと出会い、彼が持っていた病の特効薬により、命を救われた。ゲイブやリラに会い、また家族ができた。────三年後、クライノートを失い私は自ら家族を切り離した。
両親のことは、自分の中で区切りがついたはずだった。知恵の民は遺体が腐らない。だからこそクライノートはまだ生き返らせれる可能性が残っている。彼の遺体は燃やさず、ずっとあの地で眠り続けている。だが、両親は違う。撃たれ、家ごと燃やされた。それは、私自身の目で見た。
だから、もうどうしようもないのだ。生き返らせたいと願っても、叶うことはないのだ。新しい家族と出会えたことで、前の家族を忘れたわけではない。けれど、けれども。忘れなければならないこともあるではないか。
「なあブラウ」
「ねえブラウ」
その声が、正しいのかさえわからない。最後にその声を聞いたのは、もう十年も前なのだから。
「私達は生き返らせてくれないのか?」
「私達を忘れてしまうの?」
背中に重くのしかかる声。頬や首筋を冷たい汗が伝う。そんな私を────クライノートは、ただ静かに見下ろしている。