141 : 記憶の痛み
──Side Weiss──
目を開く。辺りは白い霧に覆われていた。何故か俺はそこでひとり立っている。
「ブラウ? ロゼ! グリューン! リラ! どこだよ!?」
声をかけても返事はない。全員はぐれちまったのか? ……そもそも、いつ七層へ着地した? 大穴に飛び込んでからの記憶がない。いつもなら、着地の寸前に上へ吹き荒れる風に乗り、地面に落ちるはずなのに。
「どこに……」
辺りを見回しても影はなく。ただ絡みつくような霧があるだけ。まあいい、歩こう。歩けばどこかで会えるはずだ。
頭の奥にも霧がかかったみたいに、なんだか思考がまとまらない。こんな前も後ろもわからない場所、じっとしていたほうがいいのでは? わからない。でも、歩こう。
歩けばどこかに行けるはず。歩けば仲間に会えるはず。歩こう、歩こう。
「おーい、ヴァイス!」
声がした。誰だろう。何故か、暖かい気がする。心のどこかが、柔らかく撫でられる気がする。振り返った。思わず、目を見開く。
「どうしたの? ヴァイス。そんな顔して」
「────あ」
薄い茶色の髪、空色の瞳。屈託のない笑顔。そして、鏡を見る度に感じていた面影。なんで、なんで。
「か──あ、さん」
「そう! お母さんだよ〜! ほら、おいで!」
五歳の頃、シュヴァルツやババアと出会う前。親父と向かった遠征先で事故に巻き込まれ、亡くなった母さん。あの頃、俺の夢を肯定してくれた、たったひとりの人。
今すぐにでも駆け出したかった。その腕に飛び込みたかった。でも、脚が動かない。
「ん? 照れてるの? 気にしなくていいよ! ここには誰もいないし!」
照れてるのではない。頭の奥で鐘が鳴る。呼吸が詰まる。何故、何故だ。何故女性と相対したときのような反応が出る?
忘れかけていた感覚。この「発作」とも呼ぶべき女性に対する拒絶反応。いや違う、違う。この発作は、女性全体に出るわけじゃない。昔は、接することができた。ロートやロゼ、仲間達とは直接密着しない限りは普通に接せた。何故この反応が、母さんを相手に出る?
ある日、ある時からいきなり出るようになったこの発作。そのきっかけ、頭が痛い。思い出すなと本能が告げる。
この女性アレルギーとも言える発作は、俺に好意を抱いて近づいてくる女性に対して起こるはず。きっかけは、なんだった?
動悸が止まらない。肌が泡立つ。いつから、いつからだ。何故今、母さんと出会ったことによってこんなに心が波打っている?
いくつもの映像が脳を駆け回った。断片的な記憶、走るノイズが霧を晴らす。頭を抑えてえづく俺を見下ろす母さんの顔は、最後に見たあの日と変わらず優しい顔をしていた。
──Side Lira──
顔を上げ、体を起こす。目の前に広がるのは穏やかな草原。今まで見たどの階層より平和な光景。気温、湿度土壌共に平常。遠くになにか崩れた廃墟のようなものが見える。ここが、第七層。虚影の廃都。
辺りを見回す。グリューンが頭を押さえながら立ち上がるところだった。咳き込みながら、顔を上げる。
「リラ……」
「無事ですか、グリューン」
「うん……」
彼女の手を取り立ち上がらせる。他の三人……ヴァイスさん、ロゼさん、そしてブラウ君。三人は目を閉じ、動く気配がない。
「リラも、見た?」
「ええ、まぁ」
穴に飛び込んだ直後から、妙な「夢」を見た。どこか懐かしく、どこか胸が詰まるような記憶。目が覚めた今、詳細は思い出せない。
「あれは僕ら……過去だった。なんで、あんなもの……」
「わかりません。この階層特有の大気によるものなのか……」
何やら大気中に、やけにいやな魔力を感じる。あまりこの場に突っ立っているのも良くない。三人は未だ目覚めず、とりあえず肩に背負った。皆それぞれ分担して荷物を持っていたため、皆それぞれずしりと重い。ブラウ
「どうやって目覚めた?」
グリューンに問う。彼女はロゼさんを担ぎながらこちらを見上げた。
「どうやったも何も……とっくに死んでる母さんが出てきて、帰ろうって言ってきただけだったから、振り払って起きた。それだけ」
その言葉に思わず吹き出した。彼女はぶすっとした顔を向ける。
「……何」
「いや、グリューンらしいなと思って」
「なんかムカつく」
「すみません」
まあ、俺も同じようなものだ。顔すらうろ覚えになりかけていた両親、育ての親、彼らが出てきた夢のような気がする。今の俺は、暖かい家庭にはそこまで関心がない。家で暮らして、平和に生きるのだけが……家族じゃない。
しかし、過去の夢を見せる、か。ちらりと三人の表情を見た。
家族と故郷を失い、更には親友だったクライ君を失ったブラウ君。
銀月教の巫女として、世界を滅ぼす「狐」の器として、多くの人々を手にかけ続けたロゼさん。
このふたりが相対する「過去」は、かなり厳しいはずだ。安寧の夢に、逆らえるかどうか。
──だが、ヴァイスさんだけはわからない。十二貴族の生まれ、父親を苦手と思っているものの関係自体は良好。女性が苦手で、レーゲンさんの弟子。そして異常なまでの「夢」への執着。彼は何を抱え、どんな過去を背負っている?
こんなだだっ広い荒野にはいられない。ひとまず、少し離れた場に見える廃墟を目指して足を進めた。
──Side Rose──
真っ白な霧の中で私は目覚めました。体が重く、辺りは何も見えません。声を出しても、誰も答えてくれません。みなさまとははぐれたのでしょうか。私は立ち上がり歩き出します。
どこかから、そこの君、という声がしました。私はいつの間にか半地下の座敷牢におり、声のする方へ顔を上げました。鉄格子がはめられた、明かり取りの小さな窓。そこからぼろぼろの姿をした男性が覗いています。
ああ、随分と懐かしい。私はそんなことを思いました。これは私の過去です。これは、七歳の頃の記憶です。それを認識したからか、私の体もまた、七歳の頃へと変わっていました。
五歳で世を恨み、内なる獣へ破滅を望んだ私は、生きることに憔悴しきっておりました。滅びの誓いが果たされる十七まで、とりあえず生きようか、という気概でした。その時です。私のいた建物で騒動が起こりました。なにやら、ようやく見つけ出した大切なものを、誰かが盗み出したらしいのです。
窓から顔を覗かせた男性が、その盗人だったのでしょう。すっかり諦めて、達観しきっていた私は、あのときその手を拒みました。声を上げ、盗人の存在を知らせたのです。
ですが、今は違います。私は窓へ手を伸ばしました。今の私は、助け出されることを望みました。
私は走っています。男性は怪我をしていましたが、致命的なものではありませんでした。どうしてか、私達の周りには四神のみんながいます。もう少し後の時間でしたら、カナタとコナタも連れてこれたのでしょう。ですが私が七歳の今、カナタとコナタは赤ん坊。そこだけが残念でした。私の大切なお友達。
お姫様が望むなら、いくらでも手を貸しましょう。──そう言ってくれたのは賢いセーリュ。
都会の街で暮らしてみたいわ! ──そう笑ったのは快活なスザク。
俺らの体を治してくれる医者はいるかな? ──そう問うたのはたくましいビャッコ。
我々は人々に受け入れられるでしょうか? ──そう心配したのは優しいゲンブ。
こんな記憶は、ありません。頭のどこかでなにか違和感を覚えます。もしかしたら、今までの日々こそが夢だったのでしょうか? 私は七歳のあの日から、長い長い夢を見ていたのでしょうか?
──いいえ、いいえ、なにか違います。なにかじゃありません、絶対に違います。
シュヴァルツ様と出会った日々が、仲間ができた日々が。味わった苦しみが、受け取った悲しみが、夢幻なんかのはずは、ありません!!
『は〜ぁ、ようやく寝ぼけ頭から目覚めたか』
靄がかった頭をかき回すように、私と同じ声がしました。私の周りにいたみんなの姿が霧散します。この口調、この態度、覚えがあります。忘れられません。五歳の頃からずっと、私の中にいたお方。
狐様。私は呼びます。目の前に人影が現れました。あの日以降、「私」は着なくなった着物。豪奢な着物に身を包んだ私と同じ顔、同じ背格好をしたお方。その瞳だけが、銀色にきらめいています。
『このまま惰眠を貪るようなら、我自ら起こしてやるところだったがな』
お手を煩わせることはありません。私は深々頭を下げます。
『ふん、まあいい。目覚める手段はわかるだろう?』
ええ、まあ、薄っすらと。
『ならばやれ。早く目覚めろ。存在しない夢想に溺れて死んでは我がつまらぬ。我はまだ、この世界を見なくてはならぬ』
わかりました。私は息を吸い込みます。柔らかな記憶、心地よい思い。それが私をこの夢にとどめている。ならば簡単。今の夢を否定すればいいはずです。
────シュヴァルツ様!!
『は?』
シュヴァルツ様シュヴァルツ様シュヴァルツ様!!
『待て待て、いくら未来を見ろと言えどそれは────』
ご無事ですか!? どこにいますか!? 必ずそこへ参ります! 必ず追いつきます!! シュヴァルツ様!! 一刻も早くお会いしたい!!
『……まあ、いい、か』
呆れ声。狐様ははぁとため息をこぼした後、顔を手で覆ってしまわれました。
──Side Grun──
「シュヴァルツ様ッ!!」
「うわあぁぁ!?」
耳元でした声に飛び上がる。背負っていたロゼが意識を戻したらしい。辺りを見回し、背負われていることを知って慌てて降りた。……びっくりした。
「あ、ありがとうございますグリューンさん」
「うん……何、今の……」
「お気になさらず……」
どんな目覚め方だよ。僕はリラからヴァイスを引っ張りおろして肩に担いだ。リラはいいと言ったけど、人ふたり担がせるのは気分が良くない。
「おふたりはまだ……」
「うん。起きない」
ロゼは眠るヴァイスの横顔を見る。
「ロゼは……どんな夢見た?」
あんな起き方をしたんだ。気になるに決まってる。彼女は少し考える素振りをし、頭を押さえて……うーんと唸った。
「なにか凄く……暖かくて、優しい夢を見た……よう、な?」
「はは、僕と同じだね」
それでも僕らは夢より現実を選んだ。だから起きることができた。
オランジェは無事だろうか。あいつもかなり、重いものを背負ってる。……まあ、それに引っ張られてるようなら、僕がぶん殴ってやるけどさ。




