140 : 一方その頃
穏やかな昼下り。日の光に照らされる石段、かすかに砂埃を被ったそこを不機嫌そうに叩く靴。響くのは子供達のはしゃぐ声と、間延びした年寄り達の会話。仲間を求める冒険者がため息を付き、井戸端会議に花を咲かせる女達が笑い合う。
多くの人々が行き交う広場。一年と半年程前に焼け落ち、今は立派な再建を果たした教会がまるで、広場を見守るように建っている。
真白のレンガで築かれた外壁、深い光を放つ木の扉。その前で、腕を組んだ修道女は足で石畳を叩いていた。彼女と向かい合う年若い青年。彼は手にしたチラシを視線の高さで掲げ、ごくりと喉を鳴らしつつも、一歩も引かず相対する。街の治安を守るため各地に在する衛兵。その制服には皺一つ無く、おそらく新兵だろう緊張した面持ちだ。
黒のヴェールからはらりと覗き、肩の高さで揺れるくすんだ金髪。顔の右半分に降ろされた前髪の隙間から見えるのは、額から瞳を貫き頬まで伸びた傷。鋭い鳶色の瞳はじろり、と蛇のような温度で睨みつける。口に咥えた煙草はまだ煙を上げていた。衛兵の青年と同じ程の背丈、それなのに見下されるような圧迫感。
「だから、この付近でこの者の目撃情報があり……」
「確かにそいつらは私の知り合いだった。一年近く前かねぇ、そのあたりから見てないさ」
「知り合い。……こ、この者はあのゼーゲンの一員だぞ! ゼーゲンとの関わりは、厳罰処分で──」
「なぁに言ってんだ。王様である『疾風のルフト』、そんでその妹である『猛銃ツュンデン』無実無罪っていう話を知らないのかい? そりゃあひよっこ新兵ちゃんな訳だ」
そう言って女はけらけらと笑う。何が面白いのやらわからず衛兵はあんぐりと口を開いた。
「こ、この近辺には燕の旅団も滞在していた! 匿うようであれば、容赦はしないぞ!」
「あの雛鳥ちゃん達がなぁにしたってのさ。冒険者として迷宮を進んでるだけだろう?」
手にした携帯灰皿にとんとんと灰を落とし、じろり、と衛兵を睨みつける。
「や……奴らはギルド『ゼーゲン』の危険思想を引き継いでいる!」
「なぁにが危険思想? 底にはそんなに知られちゃまずいことがあるのかい?」
「ゼーゲンはこ、国家転覆を目論み、十二貴族の体制を破壊しようと企んでいた! それは紛れもない罪だ!!」
衛兵の大声に、あたりにいた民衆も何事かと視線を寄越す。女は砕けた笑いをやめ、青年の肩を掴み立ち位置を転換させた。扉へ青年を押し付け、ロングスカートに覆われた脚を伸ばし靴底を叩きつける。蹴りつけた足は青年の腰骨すれすれをかすめた。
「国家転覆? 野心上等! 冒険者たるもの、その程度の野望はかわいいもんさ。七つの世界を知りたいと言うんだ、傲慢ちきでいいじゃあないか」
煙草を手に持ち、口の端から煙を吐く。膝の力が抜けた衛兵は、扉へもたれるように腰を降ろした。それでもへたりこまなかったのは気合か執念か。しかし見下ろす鳶色の瞳に恐れをなした。
「お前達がゼーゲンの何を知っている? 燕の旅団の、何を知っている? ここにいるみんな、ふたつのギルドにゃ恩がある。根も葉もない噂だけで差し出せるほど、私らだって薄情じゃぁない」
女は顔を衛兵の耳元へ口を寄せる。囁くような声で言った。
「一年と少し前まで、このあたりはあんた達衛兵がたまたま見つけられず、逮捕できなかった反社会集団に酷い目に合わされてねぇ……私も、この教会も含めて。わかるかい? 色々溜まっちゃってんのさ、色々」
王国や衛兵と繋がり、罪に問われることなく民衆から搾取を繰り返した反社会、「烈火団」。この黒猫通りへ居を構え、この教会の土地を狙って嫌がらせを続けていた。教会と街を守るため、当時シスターだったロートは三年間、孤独な戦いを強いられ金を巻き上げられ続けたのだ。
そして一年と半年程前。約束が果たされる寸前、この教会は火を放たれた。皆の命は無事だったものの、辺りは更地に。それに激昂したロートをはじめとする燕の旅団一行が、烈火団を壊滅させたのだ。
その時民衆達は己の無力さを嘆きつつも、烈火団への恨みは湛えたままだった。ふつふつと湧き上がる怒り、それは壊滅後、その烈火団を放置し続けた王国へと向いている。
烈火団崩壊後、一連の事件の口止めと共に多額の金銭が周囲へ手渡された。だが、彼らが苦しめられた三年以上の月日は幾ばくかの金で戻るわけもない。
「いくら衛兵様方といえど……このあたり一帯に住む『善良な市民』が怒り狂った場合、止められるかねぇ? まさか! 暴動を止めるために善良な市民を捕まえたり、暴力を振るうことは、しないだろうけどねぇ?」
衛兵は言葉をつまらせる。彼女は顔と肩を拘束していた手を離した。
「ま、とにかくツュンデンも、燕の旅団も知らないさ。燕の旅団の方は、帰還の楔を抑えりゃいずれ出てくるさ」
「……奴らは帰還の楔を、どこかへ持ち出している」
「そりゃルール違反だ。頑張って捕まえな」
心底興味なさそうに吐き捨てられた言葉。衛兵は歯噛みしながら彼女を見上げた。とうの彼女は素知らぬ顔。もう彼をどかし扉を開ける。
「まぁ頑張りな。あと、ひとつ言っとくとすりゃあ……この街のみんなは衛兵ってもんが嫌いだからね。元々低い評価をさらに落としたくなきゃぁ……身の振り方考えな」
そのまま扉を閉める。閉ざされた扉の前、衛兵の青年はついに耐えきれず、腰を抜かした。
かつかつと、礼拝堂を歩く女。二本目の煙草に火をつけ、煙を吸う。中で座っていた老婦人が頭を下げた。それに頭を下げ返し、彼女は奥へと進む。
全焼から再建された教会だが、間取りや内装は以前と同じだ。唯一、奥の懺悔室を除いて。
長い廊下、その突き当り。半地下になった階段を降りた先。扉を開く。真正面に椅子が一脚。ちょうど座って顔が来る位置にすり硝子を備えた壁。壁全体には太古の神話、それを模した絵が描かれている。その一角、迷宮らしきものが描かれた箇所。独特のリズムでノックをし、ぐっと押し込めば扉のように開いた。
「厄介なお客は帰ったよ」
「助かる、フランメ」
「ありがとうございます、シスター・フランメ」
奥、本来懺悔を聞くシスターが座る空間。通常なら人ひとりが座れるスペースがあればよいのだが、今この場は狭めの客間ほどの広さはある。
煙を吐きながら女──シスター・フランメは呆れ顔でふたりを見た。
「にしても、狭いから改築しろって文句を垂れた懺悔室が、こんなことに使われるたねぇ」
「許してよフランメ。親友のよしみでさ」
燃えるような赤毛を頭の後ろでまとめ、金の瞳を煌めかせる女。ぴょこりと覗くのは猫の耳。燕の旅団が滞在する宿、「二股の黒猫亭」店主にして、ロートの母親。そして、伝説のギルド「ゼーゲン」の一員にして現国王の妹──ツュンデン。
傍らに置いた、黒い棺桶のような銃砲。それを机代わりにスケッチブックを広げながら、頭を下げるのは幼い少年。細く柔らかな髪が揺れる。光に合わせ、瞳は金や緑、青へ色を変える。ブラウの弟、神秘の「竜」、その力を宿した少年クヴェル。
燕の旅団が旅立った後、ふたりはこの教会へ転がり込んだ。シスター・フランメとツュンデンは、二十年以上前からの付き合いである。なにせ、ツュンデンやロートが扱う大きな銃砲は、フランメが作ったものなのだ。
「やばくなったら逃げ出すから。それまでは頼む。必ず礼はする」
「はっ、ならロートを養子に出しておくれよ」
「それは無理だ」
「つれないなぁ」
フランメの軽口を笑い飛ばすツュンデン。ああして衛兵が来たのは、彼女達が転がり込んでから初めてである。
「これからああいうのも増える。本当に、悪いと思ってる」
「何言ってんのさ。今更。お前が迷惑かけるのは今に始まったことじゃない」
金の瞳と鳶色の瞳が交差する。
「変わんないね、フランメ」
「変われないだけ。お前は変わったさ、ツュンデン」
「そう?」
少しだけ、目を伏せる。フランメはぼそりと囁くように小さく言った。
────変われないさ。お前が遠くへ行ったあの日から、ずっと。
「ん? なんか言ったかい?」
「いんや、別に」
フランメはクヴェルを覗き込む。スケッチブック、それに描かれた絵。
「これは?」
「ああ……クヴェル君がまた、『竜の眼』を通して、見たのさ」
クヴェルはぐっと唇を噛む。彼の胸、心臓の代わりをなす神秘の力──竜の眼、それが彼に見せる、未来。
「兄上……ヴァイス兄、ぶじかなぁ……」
見上げたところで、そこには木目の天井があるだけ。少年の呟きは壁に吸い込まれ、消えた。
────────
深い霧が立ち込める。自分の手さえ見えない白。私は一歩一歩、地面を踏みしめ探るように歩く。
「坊っちゃん……ロゼ嬢! グリューンさん、リラ!」
声を張り上げても届かない。皆とはぐれてしまったのだろうか。この霧だ、無理もない。
何故だろう、大穴に飛び込み着地するまでの記憶がない。気がつけばこの霧の中を彷徨っている。皆はどこに、私は今、どこに。
槍を握る手がぼんやり遠く感じる。しっかと掴んでいるはずなのに、霞を握るような空虚さ。踏みしめる足も、本当に地面の上なのかわからない。
一歩一歩、踏み出すごとに絡みつく。なにが、なにかが。重い、体が重い。頭が重い。なにかが体内を満たす感覚。これは、まずい。意識を保たねば。意識を、強く。
「ブラウ」
声がした。坊っちゃんや、仲間達の声ではない。そんな、そんなはずは。あるわけがない、あってはならない。この声は、この声は、そんな、まさか、信じない。幻聴だ。この霧と違和感がもたらす脳の不調だ。
「ブラウ」
そんな、そんなはずは。ああ、それでも、それでも。背後から響く声。あの、懐かしい響き。何年も前から、記憶の中で反芻し続けた声。ずっと、会いたかった声。ずっと、探し続けていた声。
振り返る。視線の先。深い立ち込める霧の中なのに、何故か彼だけははっきり見える。見間違うはずがない。見間違えるわけがない。私の夢、俺の夢。
毛先に行くごとに青に染まる白髪。それは頭の後ろで括られている。襟が長い白の服、細身の体。そして、今の弟と同じように、金や緑、青に色を変える瞳。「竜の眼」を、宿す証。それを、それを持つ者は。たったひとりしかいない。あの日失った、俺の────
「ひさしぶりだな、ブラウ」
「クライ……ノート……?」
あの日失った俺の親友。彼が、そこには、いた。
──ある冒険者の所持する帳面、最後の記載より抜粋──
──第七層、虚影の廃都。
今までの世界が、困難に耐えうる肉体の力を求められていたのだとすれば、この世界は圧倒的に異なる。それはこの世界の過酷さだけが理由ではない。確かに待ち受ける自然や気候は最難関とも言える激しさだ。だがそれを超越する壁がある。
この第七の世界は、突入したものの精神を揺さぶり、心の底に仕舞った過去を引きずり出す。己の過去に歩み寄った者は、ずっと浸っていたくなる甘美な幻惑、暖かな記憶に足を絡め取られるだろう。
そうなればもう終わり。永遠に幻を感受するしか道はない。魔物に食われて最後を迎えたとて、気づくこともないだろう。永遠に夢の中、幻覚の中で終わりを迎える。
それ故、私は断ずる。
この第七層こそ、迷宮の中で最難関。最も手強い階層であると。
この第七層こそ、我々にとって最大の障壁であると。
乗り越える術はひとつ。己の過去に飲まれぬこと。
それを過去と断じ、切り捨てること。
残酷かつ、冷たい決断だとしても、そうしなくては進むことはできない。
勇気ある冒険者達に告げる。第七層では、過去は捨てろ。ただ、未来だけを見ろ。そうすれば、幻惑に飲まれることはない。己の力と仲間の力を信じ、壁を乗り越える意志を忘れないでほしい。これを読む君達がそれを選ぶことを、私は信じている。
──Luft──