閑話休題 白と黒と雨と妖精 2/3
「む、あの小僧はどこに行った?」
「へ?」
夕暮れの森。本を読むのに夢中になっていたシュヴァルツは、背後へ投げかけられた声に素っ頓狂な疑問符を返した。椅子から飛び降り、扉の前に立つレーゲンの前へ駆け寄る。
「にわにいませんでした?」
「おらなんだが……なに、どこかへ行ったのか? もう日が暮れるというのに」
シュヴァルツの顔が青く染まる。森の中に行っても、すぐに帰ってくるだろう。危険な動物にあっても結界の中へ入れば、すぐに逃げれば。そんな考えが頭の中を駆け巡った。
「うむ……シュヴァルツ、何か知らぬか? もし結界の外へ出ておれば、まずいぞ」
「えっ、ど、どうしてです? すぐにもどれば……」
慌てる彼へちらり、と視線を寄越しつつ、レーゲンは上着を翻して戸口へ向かった。
「結界は外からの侵入は難しい。解読、解除、もしくは破壊。魔術の素養があるおぬしならともかく……あのような小僧が知るとは思えん」
事の重要性を理解し、シュヴァルツははくはくと口を開閉した。止めなかった、むしろ、自分が行くように仕向けた。その事実がシュヴァルツに重くのしかかる。どうする、どうすると脳裏を駆け巡る思考。レーゲンの後を追って庭先へ飛び出した。
「ししょう! あいつは──」
「む!?」
彼が口を開いた刹那、なにかに気づいたレーゲンは即座に手を構えて呪文を呟いた。解呪すらまどろっこしかったのか、結界を構成する地面の杭を一本破壊する。硝子が割れるようにして解けた結界、シュヴァルツはあっけにとられた。
開いた視界の先。擦り傷と切り傷、打撲痕に塗れた体を擦り、鼻水を啜る白髪の少年──ヴァイスの姿が、そこにあった。
「おまえ!!」
「小僧!!」
レーゲンがすぐさま駆け寄り傷を見る。ヴァイスはぐいと目の周りを服の袖で擦り、涙を堪えるように唇を噛んだ。
「何故家の中におらなんだ! 結界から外へ出れば、そう簡単には戻れんのだぞ!!」
声を張り上げるレーゲン。ヴァイスは何も言わない。
「儂が伝え忘れておったのは悪いが……どうして何も言わず森の中へひとりで向かったんじゃ! 探検したいならシュヴァルツになにか言うなり、儂の帰りを待つなりすればよかったじゃろう!!」
シュヴァルツの顔がこわばる。探検にでも行けと言ったのは彼だ。それがレーゲンに知られれば? 危ないと知っていただろうと怒られる。レーゲンに怒られる。
唇を震わせたシュヴァルツは意を決して前に踏み出す。
「ししょ────」
「だまっていった!!」
それを遮るように、ヴァイスが言い放つ。レーゲンがぴくりと眉をひそめた。
「おれが、ルッツにだまっていった」
「……それは誠か?」
ヴァイスは大きく頷く。
「せんせーはまだかえってこないし、こわいし。ルッツにいったらとめられるとおもったから、ひとりで」
レーゲンはヴァイスの肩を掴んだまま、長い長いため息をついた。気の抜けたように地面へへたり込む。顔を伏せたまま、彼女は呟いた。
「……二度と、ひとりで結界の外へは出るな」
「……はい」
それを壊す無粋な唸り声。結界が破られたことを嗅ぎつけた野犬の群れが迫ってきていた。シュヴァルツとヴァイスが慌てる。レーゲンはそれらを横目に見た。
「──邪魔じゃ、帰れ!!」
低く響く声色。小声で呪文を唱えた。辺りへ灯る光、眩い光弾が四つ出現する。それらは激しい光を放ち野犬へと飛んだ。あまりの光量と気迫に圧倒されて逃げ帰る野犬達。レーゲンはそれらを顔すら上げずにやってのけた。
「……怪我の手当をしてやれ、シュヴァルツ」
「は、はい!」
そう言ってレーゲンは、結界の修復を急いだ。
──────
「……なんで、言わなかったんだよ」
「ん?」
ヴァイスの怪我にガーゼを押し当てつつ、シュヴァルツはぽつりとこぼした。痛みに顔をしかめるヴァイスは目をぱちくりと瞬かせる。
「ぼくが行けって言ったって、なんでししょうに言わなかったんだよ」
「ん〜、じっさい、ふらふらあるいてったのはおれだからなぁ」
ヴァイスは頭の後ろへ手を回しうーんと唸る。
「あと、せんせーにいったらおこられるだろ? おまえが」
さらり、と告げられた言葉に目を見開く。シュヴァルツはぽかんと口を開いた。ヴァイスはそんな彼に驚きもせず、笑って言い放つ。
「おまえがおれのせいでおこられたら、おまえにきらわれちまう。おれがなーんもしらなくてってほうが、おこられねぇ! だからいちばんいいとおもったんだ」
「おまえ……ぼくにきらわれるのが、いや、なのか?」
震え声で投げられた問いに、ヴァイスは不思議そうな顔をして振り返ると、もちろん! と溌剌とした笑顔を返した。
「おれはおまえと、『ともだち』になりたいんだ!」
目の前が、ぱっと弾けた。シュヴァルツ少年の眼前に瞬く光が、眩しい星が、煌めく。暗い夜空、手元の明かりだけしか頼りがなかった彼の世界に──星が光る。
「なんで、ぼく、なんだよ」
脈打つ鼓動、唇が噛み締めないと震える。少年は初めて、「ともだち」という言葉を聞いた。
「ん? りゆうなんてあるか? おれがなりたいとおもったからだ!」
一度、目を瞬かせて、目を閉じる。唇の端から笑いが漏れた。ヴァイスは意味がわからず、何が面白いんだよと驚く。
「へんなやつだな、ヴァイ」
「おまえもへんだろ、ルッツ」
ヴァイスの鼻に刻まれた擦り傷へガーゼを押し当てながら、シュヴァルツは笑った。
──────
「しぬしぬしぬ! せんせー! こんなのむりだって!!」
「死なぬ死なぬ。ほらもう一丁」
「さいあくだ────ッ!!」
響く悲鳴。短剣を構えたヴァイスがレーゲンに向かって叫ぶ。杖を振るう足元、土が隆起しその姿を現す。地面から伸びた手、土でできたゴーレムだ。
「ほれほれ倒せ。あと四十七体」
「いやだー!!」
地面から次々に出現するゴーレムを即座に撃退し続けるという特訓、「ゴーレム百鬼夜行」。修行を初めて二週間、ヴァイスは渡された短剣二本を手に半泣きで励んでいた。
「ルッツ〜〜! たすけてぇ〜!!」
「いやだよ! ぼくだってていっぱいだ!」
身の丈に余る杖を振り回すシュヴァルツ。火の玉で目の前に迫るゴーレムを吹き飛ばした。ヴァイスも必死に地面を転がりながら攻撃を躱し反撃に転じる。
「たすけてとうさ────ぁんっ!!」
悲痛な叫びが森に木霊する。
──────
「では本日の鍛錬は終わりじゃ。儂は『事件』の調査に出る。戻り、儂じゃと確認が取れるまで扉を開けるなよ、よいな」
「はーい」
街で起こる子供達の行方不明事件。それは、ヴァイス達が生まれる以前にこの羊領で起こった事件である。夕暮れ時、遊びから帰ってきてひとりになった子供が姿を消す。それはこの世界から少しズレた位置に存在する「妖精」の仕業であった。
いたずら好き、無邪気で残酷な妖精達。当時迷宮都市を追われ、羊領まで逃げてきていたレーゲンが解決しなければ、さらに犠牲は増えていただろう。その恩義と謝礼のおかげで、レーゲンはこの森に居を構えていられている。
既にさらわれたのは三人。ひと月前から順々に皆、夕暮れ時に姿を消した。妖精に接触する方法は少ない。実際さらわれるか、その現場に直面するか、その痕跡が色濃く残る場に赴くか、のどれかだ。故に調査といえど、聞き込みを終えた以上次の事件を待つ他に無い。
二週間前、ヴァイスが預けられたその日に聞き込みへ赴いた以降、レーゲンは沈黙を保っていた。……のだが、次の事件は起こらなかった。動き出さない現状にしびれを切らし、本日街へ降りることにしたのだ。
「変に儂の部屋へ入るなよ、よいな」
「わかってらーい。いってらっしゃい!」
立ち去り結界を抜けたその背を見送り、ヴァイスは家の中へ戻る。机に向かうシュヴァルツの後ろで彼もまた、本を抱えてベッドへ座った。内容もちんぷんかんぷんな本を必死に読む。
正午を迎え、レーゲンの手料理──生活力に欠けるため、非常に味気ない料理である──を突きながら雑談をする。それからはふたりで庭に出て鍛錬をした。
「まだ『せーれー』? はつかわないのか?」
「うーん……『しょうかん』は済ませたんだけど……」
ヴァイスの問いに、シュヴァルツは答えた。杖を振るい、その切っ先に青い炎を呼び出す。二対の炎、それは彼の周りをゆらゆらと飛んだ。
「どうすればたのみを聞いてくれるのかわからないんだ。ししょうは『そのうち、せいれい自体が自我をもってうごいてくれる』って言ってたんだけどね」
「でもつかえたらつよいよなー。わざわざ、『まほー』つかわなくても、かってにうごいてくれたらさ!」
ふたつの炎の実態を解く。レーゲンの帰りは夜になると言っていた。日は既に傾き始めている。
「そろそろ、ばんごはんにするぞ。ヴァイ、かたづけよう」
「おう! なにてつだおうか?」
鍛錬に使った的を片付け、ヴァイスは短剣を腰に、シュヴァルツは杖を小脇に抱え、ふたりは家の中へ戻る。
「うーん、せんせいのりょうりは味気ないしな……。ちょっと手をくわえてみよう。ヴァイ、しょくりょうこからマイマイ草をおねがい」
「おう!」
台所に向かうシュヴァルツ。家の北側、食料庫を目指すヴァイス。ヴァイスはその時、裏口の戸を叩く音を聞いた。立ち止まり、扉を見る。シュヴァルツではない。結界がある以上、この家の扉を叩くのは自分かシュヴァルツ、レーゲンしかいない。
「ししょー?」
呼びかけた声。少し間を開けて返事が届く。
「あけ、ろ」
つぎはぎな、いびつな、変な声だ。これはまずい、とヴァイスは腰に指した短剣を確認する。修行を始める際にレーゲンがくれた短剣、やけに軽く手に馴染む一品。
扉のノブが回る。結界があるため、裏口に鍵などない。それを防ごうと走り、扉に駆け寄る。その手がノブを押さえる刹那、扉上部につけられた窓が叩かれる音がした。それに気を取られる。見上げる高さの窓を叩いた、その手は黒く、細い。まるで焦げた枝のよう、少なくとも知っている人間ではない。
押さえる手が緩んだ瞬間、扉が開けられた。強い、強い風が吹く。
「ルッツ!!」
ヴァイスの叫びも、無慈悲な風はかき消していった。それに屈せず、しっかりと目を開け足を踏みしめながら叫ぶ。
「せんせーを、よべ!!」
その風が止む頃、ヴァイスの姿はそこになかった。激しい風の音とヴァイスの声、ただならぬ魔力の流れを察したシュヴァルツが駆けつけるが、そこにはただ、風に揺れる裏口の戸があるのみ。
「ヴァイ────ッ!!」
叫んだシュヴァルツは思考する。様々な思いが駆け巡る脳で絞り出した。どうする、どうする? レーゲンを待つ? いや、いつ戻ってくるかなどわからない。まだ風は吹いている、追いかける? 自分に何ができると言うんだ!
悩み、悩むシュヴァルツの髪を風が揺らす。顔を上げた。
──おれはおまえと、『ともだち』になりたいんだ!
風に揺れる扉、シュヴァルツは杖をしっかと握りしめ、そこに向かって飛び込んだ。
視界が揺れる、視界が震える。吹き荒れる風の残滓は彼の体を飲み込み──消えた。




