132 : 君達の生きる未来
魔女レーゲンの膝が地面へ落ちる。ルフトは刀をしまい振り返った。憐れみのような、悲しみのような表情で下を向く。
「何故君は、今更現れたんだ。二度と顔さえ合わせなければ、二度と世に姿を現さなければ、君と殺し合うこともなかっただろうに」
レーゲンは自嘲気味に笑った。その態度にルフトは眉をひそめる。
「理由は『ふたつある』と君は言ったな。ならばもうひとつは何だ、なんのために、君はわざわざ死にに来た? 古い過去に囚われ、君はなんのために────」
彼の言葉を遮るように、血を垂れ流す傷跡を押さえながらレーゲンは立ち上がる。そのままよろつく足取りで崖へ、迷宮へと歩いた。
「……儂は、過去に囚われていたわけではない。その生き方が間違っていたことに、友との語らいでようやく気がついたんじゃ」
彼女はルフトを背を向けた。見渡す視界、深い谷底、その先に広がる迷宮第一層。
「儂は、未来のために生きる。未来のために、これを選んだ。儂が望む未来へ託すために、お前に戦いを挑んだんじゃ」
「……未来?」
レーゲンは振り返る。いつもの企んだような笑い方ではない。慈愛に満ちた聖母のような、陽の光が注ぐような、そんな微笑みだった。
「愛おしい、守りたい子らができた。その子達が進む先の、邪魔者を蹴散らしてやりたかった」
ルフトは歯を食い縛るが、一歩踏み込むことがどうしてもできない。彼女はこんなことで意識を奪えない。一歩踏み込み首を跳ねればすべて終わるというのに、それを決断させる一歩が出ない。
「あの子達はすでに、六層へ到達した……。これ以上先へ進むことを、お前達は必ず妨害するじゃろう……。二十年前我々が見た、あの大いなる真実を──世界に、公開しないために。知る者を、生まないために」
レーゲンはひゅう、と喉を鳴らして空気を吸った。
「街に戻ってきたところを撃ち抜かれるかもしれん。帰還の楔を、破壊されるかもしれん。……そんな結末は、そんな行為は、儂が許さん」
ぼやけてピントの合わない視界。ぐっと瞬きをし、必死に閉じかけた目を開く。
「おぬしを討てば、そちらの対応で奴らを抑えられる。何も、命は奪わんでもよかった……。手負いにさせれば、どうにでもなると思っておった……。しかし、それすらも叶わんとはなぁ……」
彼女の耳に届く耳障りなノイズ。ついに観念し、目を閉じる。
「……最後に聞かせろ。ルフト。お前は何故、儂らを──ゼーゲンを、裏切った?」
風が吹く。彼の言葉はそれにかき消され、遠巻きに様子を見ていた民衆の耳には届かない。彼と彼女、その場に居合わせたふたり以外には、届かない。
彼女は、笑った。ははっ、と乾いた声が溢れる。そのままがくりと首を項垂れた。
「……そうか、ああ、そうだったのか」
ルフトは俯き、顔を上げない。
「……許してくれと、そう言うつもりはないさ。仕方がなかった、こうするしかなかった、そんな言い訳は、通用しない」
思い出される、ゼーゲンにいた日々。無鉄砲なフル、それを支える優しいハイル。無茶をしでかすツュンデンと冷静な兄ルフト。それを後ろから見守り続けたレーゲン。
レーゲンは目を閉じる。
「どんな大義があろうとも、私がしたことは裏切りだ。私は結果的に、フルの命を奪った。より多くの平和と仲間を天秤にかけ、私は仲間を切り捨てた」
「……儂らは」
か細い声にルフトは顔を上げた。
「ただ一度、話し合うだけで良かったのだな。たった一度、お互いの思いを共有するべきじゃった……。そうすればきっと、また違った未来があったかもしれん」
それに彼は首を横に振る。
「それは、違う。私はきっと何度繰り返そうと……あの日、君達を裏切る判断をした」
「ああ、そうか。ならば、やはりこうするしかあるまいな」
色を変える瞳、それが金に染まる。目の前の彼と揃いの色だ。
「儂の死体は、頼んだぞ」
「ああ。必ず、十二貴族には渡さない」
レーゲンはそう告げ、懐へ手を差し込んだ。一気に引き抜く、そこから出されたそれ。ルフトは目を見開く。手の中、収まるのはいびつなベル。ほの青く光を放つベルに、ルフトは見覚えがあった。
「遠呼びの────!」
「聞こえておるか、お前達」
遠呼びのベル。青い光は、繋がっている証──!
ルフトは咄嗟に思考を回す。ベルの基礎を作ったのがレーゲンであることは、彼も知っている。彼女は二十年前、その有り余る知識を用いてゾディアックの魔法技術を発展させた。だからベルを所有していてもおかしくはない。彼女なら自作できる。しかし重要なのは、それがどこと繋がっているかだ。
「いいかお前達、儂らのようになるな!!」
レーゲンは声を張り上げた。必ず届けると、必ず聞けと、そういう思いを込めて叫ぶ。
「お前達は、お前達の望む道を進め! お前達が正しいと思うものを信じろ! その道が間違いであるかもしれないなどとは、考えるな! 振り返るな!!」
ベルを通じた先、その向こう。彼女の愛した少年少女がそれを聞いていると信じている。
「例えそれがどんな結末へ至ろうとも──儂は! 私は!! お前達の選んだ道を祝福する!! お前達がどれほど後悔しようと私がそれを認める! すべてを許す!!」
年寄りめいた口調は剥がれた。その口から告げられる言葉はまるで、シュヴァルツがロゼに告げた言葉とは真逆で。
「お前達が望むままに、自由に、生きてくれることが──私の願いだ」
ベルの向こう、息を呑む声が聞こえる。レーゲンはその様子に笑った。
「すまないな、帰ると約束したのに」
「な、んで」
泣きそうな、悲しげな声がノイズにまぎれて届く。よくもまあ、戦闘中に黙っていられたものだと彼女は感心した。
「言ってくれなかったんですか! なんでそれを僕らの目の前で、言ってくれなかったんですか!! なんで、そんな、ひとりで全部決めてるんですか!」
「おいババア! 説明するって言っただろ!! なぁ、約束破るなよ!! 俺達、何もわかんねえんだよ!!」
普段は落ち着いたシュヴァルツも、気丈なヴァイスも動揺しきって、叫んでいた。そんな様子に彼女は微笑むが、生憎、映像は遠くへ届かない。
「すまない。本当に、すまない」
「謝るな! 帰ってこいババア! なぁ!!」
机を叩く音がする。その音が、遠くから聞こえてくるのを感じ、彼女は自身の限界を悟った。もう立つこともおぼつかない。地面に落ちた血の跡はどんどんと広がる。体の熱が失せていく。それでも、それでもと彼女は喉奥を震わせた。
「シュヴァルツ、ヴァイス。ロート、ブラウ、ロゼ、ジルヴァ。オランジェ、グリューン。ゲイブ、リラ────ツュンデン、クヴェル」
ゆっくり、ゆっくりと。確かめるように、噛み締めるように。その名を呼ぶ。彼女の帰る場所、二股の黒猫亭を築く皆の名を。
「私は、お前達を────」
切り裂いた、銃声。
耳が痛むようなその音に、世界が呼吸を止める。
遠く離れた黒猫通り、二股の黒猫亭で音声を聞く一同も、言葉を無くした。
響いたのは一発。レーゲンの手から、ベルが滑り落ちた。激しい物音、咳き込む音。地面にべちゃりと血が落ちる音。膝が石畳と擦れる。その体が、地面に落ちる。
ルフトが凍りつき、振り返る。その金の瞳が大きく見開かれ、その指先は震えた。
「け、け、け。せっかくよォ、不老不死そのものがいるってのに、みすみす手放すわけねェだろ」
レーゲンへと向けられた銃口。未だ紫煙を登らせるそれ。それを握る褐色肌、腕を覆う豪華な装飾、豪奢な民族調の衣装。
その青年はけ、け、けと耳につく笑い声を上げてルフトとレーゲンを見据えた。
「馬鹿やってんじゃねェぞルフト! 竜の血肉を宿す生き物を、あっさり死なそうなんて──愚の骨頂じゃァねェか!」
レーゲンも、ルフトも、動揺でその瞳を泳がせる。レーゲンが血を吐いた。放たれた銃弾は彼女の心臓、その上を撃ち抜いている。
「どうせしばらくすりゃ元通り、だろ? 竜の魔女サマ。おとなしーく、俺達にその体、寄越せよ」
地面に落ち、血に汚れたベルはまだ青の光を放つ。ざざざとノイズが強く鳴った。
「トルマリン……スコーピオン!!」
ヴァイスの掠れた悲鳴のような叫びが、ベルを通して遠く離れたその場に届く。それを聞き青年は──蠍領次期当主、トルマリン・スコーピオンはにやりと笑みを浮かべ、け、け、けと独特の笑い声を響かせた。
「し、しょう──────」
シュヴァルツの弱々しい声。レーゲンは喉をひゅうと鳴らした。
彼女の脳裏によぎるのは、幼き彼らの姿。彼女の周りを駆け回る、無邪気な姿。レーゲンは一際大きく咳き込み、地面へ血反吐の華を咲かせた。