131 : 精算
夏といえども早朝は、少しだけ冷えた風が吹く。街の外れ、広場の片隅に豪奢な馬車が止まった。降り立ったのは黒衣に身を包む長身の影。人影は御者に手を振ると、馬車はすぐに走り去った。
取り残される影、迷いなく進む。広場のすぐ隣は迷宮との境、深く闇を覗かせる谷だ。民衆の事故を防ぐための柵が立てられている。その一角、柵ではなく乱雑に大きな石が置かれていた。まるで放棄されたようなそれ、男はその前に立つ。
ただの石、そのはずだった。しかし今、その前に添えられたものを目にして影はフードの下から金の目を瞬かせる。
七本の、青いバラ。深い海を写し取ったような青。それが束ねられ、石の前へと置かれている。その青は、影に何かを呼び起こすのに十分だった。
響く足音、湿り気を孕んだ夏の朝風が吹く。影は振り返った。そこにいたのは、影と同じくフードを被った小柄な影。幼い少女、その風貌に影は腰へ下げた獲物にかけていた手を降ろした。
「貴様も、この日はここへ訪れるのじゃな」
響いた声、影は一度下ろした手を獲物へ戻す。幼い声色にしては成熟しきった口調。小柄な影はフードに手をかけ、マントを脱ぎ捨てた。
束ねられたのは長い濃紺の髪。その隙間から姿を覗かせる長く尖った耳。そして、光の当たり方によって金にも緑にも、青にも色を変える、瞳。
彼女は手にした杖で地面を叩いた。
「久しいな。二十年ぶりか」
「……レーゲン」
小柄な影、魔女レーゲンは強く睨みつける。
「儂のことを覚えておったか。すっかり王様に馴染み、我らのことなど忘れたであろうと思っておったが」
「……忘れなぞ、するものか。忘れて、なるものか」
その言葉、レーゲンは眉根を動かし杖を振るった。先端から放たれた風が影のフードを巻き上げる。
高い位置で束ねられた深い緑の髪、突きだす猫の耳。誰かの面影がある、眩い金の瞳。影は──男は、形容し難い複雑な表情を浮かべ、レーゲンを見下ろしていた。
「どの口が言うか! 貴様に、貴様が、すべての始まりであろうに!! 答えろ、疾風のルフト!!」
ルフト、かつて伝説と呼ばれたギルド「ゼーゲン」の剣士にして、裏切り者。そして、迷宮都市ゾディアックの創立者にして現国王。彼はマントを落とし、腰から下げた刀の柄へ手を置いた。
「……今更現れて、何をするつもりだレーゲン。二十年逃げておいて、何故今更」
「さあ、何故じゃろうな。貴様が知らんだけで、儂は何度もこの国へ来ていたかもしれんぞ?」
煽るようなその言葉に、彼はなんの反応も返さない。目を閉じ、静かに口を開く。
「二十年、姿を現さず隠れて生き、何故今、今日この日に、私の前に現れたんだ。答えろ、レーゲン」
「決まっておろう。来年こそフルが、我らがみた予言の年。何かが起こるのは、今年じゃ。……そしてなにより今日は──フルの、命日じゃ」
すべてを知り、地上に戻ったその日。レーゲンやフル達は、ルフトにより告発された。民を誑かす大嘘つき、天秤領を追放された大犯罪者。そしてギルド「ゼーゲン」は散り散りとなった。
そして数年後──蠍領の革命を終わらせた彼は捉えられた。腹に子を宿した妻を逃し、彼はこの街、この場所で、処刑された。
「まさかと思い今日この日に来てみれば……案の定、じゃな」
谷の目前に置かれたそれ、古びた石。それは「呪いの子」と呼ばれた男の墓石であった。名も刻まれず、罵声を浴びせられながら死んだ英雄。竜鱗のフル、彼の人の。
「予言の日、その前に私を殺して、復讐とでもするつもりか?」
「復讐? そんなわけではない。あの日見た未来は必ず来る。その前に」
レーゲンは杖を回し、その先端を彼へと突きつけた。
「やるべきことがふたつある。──儂はどうしても、お前に腹が立っておる! お前を一撃殴り、地に伏せさせなくては気が済まん!!」
いつになく感情を剥き出しにした彼女の顔。眉を寄せ、目を釣り上げ、歯を食い縛りながらルフトを睨む。
「それは、復讐と同義ではないのか……。残念だ、レーゲン。君は、そんな子供のような理由で無謀をするような人じゃなかっただろう」
「はっ。儂は存外子供らしいと、誰が言ったんじゃったかの」
対峙し合うふたり。彼らは同時に一歩踏み込む。
風が生まれる、気流が乱れる。ルフトは巻き上がる上着の下で刀へ手をかけた。黒鞘に収まった直刃の刀。レーゲンは杖をかざし、口元を手で隠しながら早口に呪文を呟いた。あたりへ顕現する四つの光弾。それはまっすぐにルフトを目指し飛ぶ。
金の瞳が光を捉えた。鞘から刀身が姿を表す。それを捉えることが限度だ。瞬きの間、いやそれを超える速度でルフトは光弾を切り裂いた。
磨き抜かれた銀の刃、鏡のように空を映す。彼は踏み足を入れ替え返しの刀を凪いだ。放たれる斬撃。レーゲンは杖で受ける。魔力の障壁はかろうじてそれを受けきった。
「長年の王様生活でも腕はなまっておらぬか」
「君こそ、隠居生活でも変わらないな」
弾く攻撃、火花が咲く。レーゲンは手の内で杖を回しルフトの首を狙った。彼はそれを柄で弾き、迷いなく刃をレーゲンの腕へと振り下ろす。しかしそれに穿たれるほど彼女は未熟ではない。瞬く光弾がそれを制した。
レーゲンが実体化させた光弾。シュヴァルツの火の精と同じく、それは彼女の使い魔にして分身だ。視界を焼くような光を放ち、その隙をついてレーゲンは距離を取る。剣士と魔法使いでは、距離のリーチが違う。レーゲンは光弾をひとつ手に纏わせた。
「氷天・水鏡」
地面から伸びる無数の氷。きらめく光の粒を放ち、ルフトの眼前へ立ちふさがる。表面に映り乱反射する景色は彼の死角を生んだ。
氷の壁から刃が伸びる。狙うはルフトのうなじ、しかしその刃は彼の髪をかすめるに留まった。背後を振り返ることもせず抜き身の刃で受けきり、刀を大きく振るって氷の壁を破る。きらきらと星のように輝く破片、その雨の中から彼は金の目を覗かせた。
レーゲンの姿はない。感じた気配に猫の耳を突き立てる。発端は、真上。見上げた上空、レーゲンはそこにいた。
「炎天・火車!」
降り注ぐ火球。石畳をえぐり、巻き上げ、轟音を響かせる。海を割る炎、限定された場に落とされる灼熱。それは間違いなくルフトを襲った。
一瞬の閃光が、炎の赤を飲み、切り裂く。
彼は己の力量のみで、太陽の如き火球を切り裂いたのだ。荒れ狂う熱風の中髪と外套をその余波で石畳を割った。
彼が持つ獲物、それはかつて彼が手にしていた神造武装にあらず。ごくありふれた、普通の、刀。
「かつての相棒を捨ててなお、それか!」
ぶつかる、ぶつかる。刃と魔力。かつて英雄と呼ばれたふたりは争い続ける。ひとつ魔法を受けるごとに石畳はえぐれ、ひとつ刀を振るうたびに大地へ亀裂を刻んだ。
夜明けの風はとうに止んでいる。街から離れた広場といえど、近隣住民が異常に気が付き始めた。そろそろ夜は明ける。
ルフトは刀を鞘にしまい直す。レーゲンは構え、即座に防御へ転じたがもう遅い。取るは居合の体制、ルフトは細く長く息を吐く。
呼吸が止まった。気配が止まった。鼓動が凪いだ。体内を流れる血潮ですら動きを止めた。
レーゲンは間に合わないことを悟る。ならばと彼女は光弾のひとつを射程圏外へと逃がす。背後には崖、眼前にはルフト。彼女は歯を食い縛り杖を握る。
呪文のひとつも、唱えやしなかった。彼は口を閉ざしたまま、ただ凛と、一度だけ瞬きをした。
風が吼える。一筋の線が石畳を駆けた。一瞬の沈黙、無の空間。その刹那轟音が響いた。彼の刃は広場にとどまらず迷宮を割った。
彼から谷、その向こうに見える迷宮、それらを結んだ線のように走った亀裂。流石に迷宮を分断とまではいかないが、街から確認できる範囲でも大きな亀裂が生まれていた。彼は顔を上げる。直線上、そこにレーゲンの姿はない。彼女が集めた光弾さえも、先の一撃で消し飛んだ。
しかしルフトは未だ警戒を解きはしない。かっと目を見開いた刹那、彼は迷いなく背後へ刀を突き出した。
地面へ落ちる赤。靴底が石畳と擦れる音。ルフトは手応えがあった刀を抜く。
その背後、練り上げた魔力を纏ったレーゲンは悔しげに表情を歪める。刀の刺さった脇腹を抑えるが、その小さな手から血が溢れていた。
「レーゲン。君が魔女と言われる所以はその魔法の腕、それは確かだ。しかし、君自身の魔力は無尽蔵なわけではない。人並みにしか留まらない。君は人より長く生きた分、古の技術や魔法を知っている。それが優れていただけだ」
ルフトは振り返らずに告げる。レーゲンは勘の鋭いルフトに対抗し、気配遮断の魔力を使い続けていた。しかし度重なる魔力の消費、そして止めに小規模ながらの転移の術。魔力切れに至るには十分な痛手だ。それさえなければ、ルフトの背後を取り一撃を穿つことも可能だっただろうに。
「……貴様に言われんでも、わかっておるよ」
そう言った彼女の手から、杖が落ちる。石畳を転がり、その表面を血で汚した。
「儂は、私は、所詮ただの人なのだから」
彼女はゆっくりと顔を上げ────青く澄んだ、朝の空を見た。
「さよならだ、レーゲン」
ルフトは振り返り、レーゲンの肩から腰までにかけてを、斬る。血が舞った。石畳に描かれた軌跡。ルフトは悲しげにそれを見──背を向けた。




