120 : 黒と桃
「……髪、切ったんだ」
「……はい」
カウンターに並んで座るシュヴァルツとロゼ。他の面々はホールの中央で騒いでいる。わざとらしく「ふたりの邪魔はしないぞ〜」とでも言うような距離の開け方に、シュヴァルツはうなじを掻きむしる。
気まずい沈黙。いたたまれない空気。うなじを刺激する風に、シュヴァルツは落ち着かない。
「あー……あのときの言葉、覚えて……る?」
「あっ……」
絞り出した問い、ロゼは一気に顔を赤くした。その反応にシュヴァルツもまた顔を赤く染める。
狐に満ちた彼女を呼び戻すため、何度もぶつけられた言葉。伸ばした手。冷静に振り返れば、気恥ずかしいことこの上ない。
「覚えて、ます。全部」
「あー……忘れて、欲しいん……だけ……ど」
消え入りそうな声、しかし彼は口籠る。少しの間を開けた後、いや、と彼は否定した。
「覚えてるなら、いい。覚えて、いてほしい。……あの約束は、本当だから」
「シュヴァルツ様……」
顔を上げたロゼ。彼は項垂れ、手元を組み交わしながら呟く。
「僕は、誰かに愛される存在になりたかった。僕は、誰かの一番になりたかった。……君の勇者になりたいという願い、例え君の言葉が嘘だとしても、それは本当なんだ」
微かに開かれた唇。ロゼは一瞬の躊躇の後、手を伸ばす。シュヴァルツの手へ重ねた。
「──嘘じゃ、ありません。嘘なんかじゃ、ありません」
汗ばみ熱を持った手。彼女の態度にかつてのような溌剌さは無く、戸惑い、揺れ動く少女そのもの。
「たとえ……私の生が、都合良い解釈をするためだけの嘘で塗り固められていたにしても。……あの言葉は、あの思いだけは、偽物とは言いません。言えません」
苦しい記憶を忘れるための嘘。
悲しい思いを打ち消すための嘘。
そんな暗い闇の中でも、彼と出会ったときに得た光。
「貴方を一目見たときに、星を見つけたと思ったんです。夜空を見上げても、私の目には月しか映らなかった。私を傷つける世界を滅ぼしてくれる、狐しか映っていなかった。でも……貴方と出会って、貴方達に出会って、知ったんです」
ぽたり、ぽたりと落ちる雫。重ねられた手の上、握り締めた手の上に。
「光のない生の中でも、私を照らす星はあった。幼い私を連れ出そうとしてくれた名も知らない人。私を慕ってくれたカナタとコナタ。頼めばきっと、私の助けになってくれた四神のみんな。──そして、みなさま」
教えに従うより、ロゼの笑顔を望んだ双子。
彼女を守るために、戦うために生み出された四神の皆。
教祖として生きる中でも、彼ら彼女らは側にいた。それは理解者じゃないとしても、彼女が手を伸ばせばきっとその手を掴んでくれた。
「夜空を照らすのは月だけじゃない。遠いどこかで、必ずそこで、星々は燃えている────私は、それを知った。ようやく知ることが、できた」
ロゼの手は離される。彼女は涙を拭った。
「……それが何故なのか、どうしてなのか、そんな理由はわかりません。けれど、あの日の夕暮れ、空から現れた貴方に、私は確かに『恋』をしました」
あの日彼女の世界を変えた一瞬。それは運命と言うには綺麗過ぎて、偶然と言うには理想的過ぎた。
「貴方が好きです。貴方に恋をしています。シュヴァルツ様。これだけは、他の誰の言葉でもありません。私の私だけの、思い」
彼を見据える彼女の瞳。透き通るような紫水晶、その瞳に銀の影はなく。
紛れもない、「彼女」の言葉。間違いない、「彼女」の思い。
「私は罪を犯し、それでも生きる。生き続ける──貴方様は、そんな私の隣にいてくれますか?」
シュヴァルツは顔を上げ、手を伸ばす。微かに躊躇しつつも彼女の後頭部に手を置き、抱き寄せる。ロゼの耳に届く脈動。それは早く拍子を刻む。
「言っただろ。僕は、君の勇者。君だけの勇者だ」
真っ赤に染まる自身の顔を見せないように、なんとも言えぬ顔で壁を見ながら、シュヴァルツは続けた。
「君の悲しみをわかったとは言わない。君の苦しみを知って、同情もしない。僕と君は一生『理解者』にはなれないし、僕は君の罪を許さない」
それは、知らぬ者からすれば冷たい言葉に聞こえるだろう。だがその言葉は彼女にとっては──もっとも、望む言葉。
許しなど、第三者が決めることではない。加害者と、被害者。その双方以外に持ち出す話ではないのだ。
「それでも、君の側にいると誓う。君の過去の苦しみも、君がこれから受ける悲しみも──僕が半分、背負う」
シュヴァルツはロゼを離す。ロゼは涙に濡れた顔を上げた。彼は彼女に指折り示す。
「君の苦しみも僕の喜びも、僕の悲しみも君の幸福も、ふたりで半分。辛いことは二分の一、喜びは二倍。……悪くないと、思わない?」
ロゼは何度も頷いた。恥ずかしそうに口籠るシュヴァルツへ、彼女は飛びつき抱き締める。驚きはしたが、彼は悩んでその背に手を回した。
「……狐から、君を不幸にしたら今度こそ世界を壊すって、脅されたんだ」
「……はい」
「だから……その、上手くは言えないんだけど……」
「はい」
彼は黙って彼女を抱き締める。天を仰ぐように顔を上げ、小さな声で続けた。
「……君を幸せにする。これから先、けして君を悲しい目に合わせないと誓う。だから君は、ここにいていい。側にいていい」
「……ありがとう、シュヴァルツ様」
私の勇者様。そう彼女は心の中で呟く。
しんしんと降っていた雨は早くも上がった。明かりが灯り、賑やかな声が響く「二股の黒猫亭」。その外で、雨露に濡れる薔薇が一輪。それは美しく咲いていた。
──と、そんなふたりを見守る影。
「……ヴァイス、水ある?」
「……なんだよロート、泣いてんのか?」
「泣いてないわよ。ちょっとふたりの眩しさに目がくらんだだけ」
「にしても長かったね。二組とも」
「お? リラもなーんかうるっと来てないっすか……って!」
「うるさい、ゲイブ」
「……皆さん出歯亀はほどほどにしてください」
「仲良しに戻って安心だな〜」
声を潜める野次馬六人。次々に空く酒瓶と皿。そんな彼らの後ろ、扉に手をかける影とそれを見守る影。
「……何もこんな時に出なくてもいいじゃないか、レーゲン」
「ふん、ちょうどいいじゃろ」
長い髪をまとめたレーゲン。手には杖と鞄。ツュンデンはしゃがみ込み、彼女と視線の高さを合わせた。
「本気なんだね、レーゲン」
「本気じゃよ。今日の一件を見、心残りも消えたしの」
ホール内を一瞥。レーゲンは色を変える瞳を揺らめかせ、目を伏せた。
「儂はあの日やりそこねたことをしに行くだけじゃ。なぁに、お前が気にすることではないよ。細工はしたしな」
ひらひらと手を振り、背を向ける。ツュンデンはその背に向かって手を伸ばした。
「……帰ってくるんだよ、レーゲン。今あんたが生きることを祝福するのは、私だけじゃあないんだから」
レーゲンの手を握り締めるツュンデン。その様子にレーゲンは軽く笑った。最後にもう一度視線をやる。机に突っ伏し寝ていたはずのクヴェルが起きていた。彼は寝ぼけなまこながら、レーゲンを見つめる。彼女は指を立てて唇に当て、「静かに」と訴える。彼は何かを伝えようと口を開いたが、何も言わずに頷いた。
「……さて、動くとするか」
二十年止まっていた時は動き、うねり、やがて大きな嵐を呼び起こす。
クヴェル少年は何も言えなかった。何も、伝えることができなかった。彼の見た夢、彼の見た景色。彼の心臓が、竜の眼が伝えた未来。
レーゲンの体を貫く散弾。レーゲンは笑い、指を突き出す。舞い散る鮮血、それでも彼女は尚笑う。何かを伝えた後、彼女の体は暗い闇へ飲み込まれる。そんな光景。そんな、未来。
誰が言えるだろう、誰が伝えられるだろう。「お前はもうすぐ死んでしまう」、そんな宣告が可能だろうか?
沈黙を保った不死身の魔女、彼女の旅立ち。それは大きな嵐の前触れであったことを──燕達は後に知ることになる。
「あーやれやれ……さぁて、これからどないにしましょ?」
「逃げ出した信徒の皆さんまとめて、俺らで新しい教祖にでもなる? なーんてな」
「馬鹿なことを言わないでください」
「ください」
魔女の門出より時は少し遡る。まだ夜の雨が降り注ぐ路地裏に、四人の影があった。よく似た顔立ちをした双子の男女に、幼い双子の童女。
迷宮より楔を用いて帰還した四人。多くの信徒はすでに脱出し、四神の行方はしれぬまま。
「ま、自分らは最悪素知らぬ顔で御役所に戻ればええわな。まだスパイやとはバレとらへんし。あんたらがどないするかやけど」
「私達は信徒の元へ向かいます」
「向かいます」
「もう二度と、ロゼ様のような方を生み出さないために」
「私達が銀月教を変えます」
救いのために、滅びのために人を犠牲にする。命を弄び、生み出す行為を止めさせる。狐を宿した教祖の世話係という立場の人間は、惑う信徒には希望の光となり得るだろう。
なにかに縋ることは悪ではない。しかし、その縋るなにかのために他を犠牲にするのは誤りである。
「ふぅん。ま、俺らはこの騒動に紛れて抜けさせてもらいまっせ」
「ルナ君とステラちゃんは死んだって伝えとってな。信徒は知らへんけど、四神の方に見つかりゃいやぁよ」
「そうそ、特にセーリュの兄さんはいやよ? あの人俺らに無茶言うもんな」
「四神の方も大変ねぇ。腕やら脚やら、目やら耳やらが不自由な戦うことしかできん命て、これからどないするんやろ」
「……それも、私達で考えなくてはなりませんね」
「なりませんね」
雨に濡れる。ステラはくしゃみをひとつした。
「ううさぶ! このままやとアカンわ、あんたらも信徒探す前に、ちょっとうち寄ってき?」
「せやな、急いだところで信徒は逃げへんよ。もう地下施設も地下神殿もあらへん。世界各地の支部に飛んでも……ヘボ格下信徒達やったら、もう実験や研究はできへんやろ」
「ありがとうございます」
「ございます」
「そうだなァ、もう実験や研究はできねェよ」
路地裏の闇から聞こえた声。四人はすぐさま振り返る。闇の中に、褐色肌の青年が立つ。布を巻き付けたような衣装に豪奢な飾り。濡れネズミにもかかわらず、張り詰めるような緊張感を放つ。思わず跪きたくなるような緊迫感。青年はにやにや笑い、芝居ぶった仕草で両手を広げた。
「ご機嫌麗しゅう畜生腹生まれのみなさん!!」
身動きも取れない空気の中、ルナとステラは即座に判断を下す。カナタとコナタを抱え、路地裏から抜け出そうと走った。痛む体など気にしてはいられない。即座の離脱、彼らの判断は正確だった。
「狐には寄生虫が沸くからよォ、しっかり『駆除』しとかねェと、なァ!!」
男は手を振り上げる。駆けるルナとステラ、路地を抜け、街の明かりに感嘆の息を零す。一歩、踏み出した刹那。眼前に突きつけられた白銀の刃。
「け、け、け。安心しろ、二度と銀月教は酷いことなんてしねェよ。銀月教はその名、存在すら、残さねェから」
飛び散る赤、崩れ落ちる音。地面に投げ出される体。目の覚めるような赤を吸い上げる衣服。赤の中に浮かぶ白い手、細い足首。青年の足元に赤が飛ぶ。一滴の雫に彼は不機嫌そうな顔をした。
「何汚してんだてめェ! 俺を誰だと思ってやがる! 無様に生きる狐の寄生虫が! 俺に血なんか飛ばしてんじゃ! ねェ!!」
「ト、トルマリン様……」
「あァ!?」
「すでに、死んでおります……」
憤慨し動かない体を踏みつけていた青年は、黒衣の影に呼び止められ足を止める。
「あー……そういや、俺に血が飛ぶように殺したお前らがわりィよなァ、うん、そうだな」
「お、お待ちをトルマリン様! トルマリン様!!」
「うるせェのは嫌いだ。不快でしかねェ」
腰から抜いた、宝石に彩られた見事な剣で首を薙ぐ。飛び散った赤は民家の壁を汚した。赤に染まる壁、石畳。青年は愉快そうに笑う。
「……にしてもやってくれたなァ! 燕の旅団!! 好き勝手暴れて、十二貴族を敵に回して、こりゃァ傑作だ!」
先程は返り血の一滴で憤慨していたのにも関わらず、彼は血溜まりを蹴散らし路地から出る。街の明かりは消えていた。いや、その空間は街から切り離されていた、と言ったほうが正しいか。青年は笑う。
「け、け、け。好き勝手暴れろヴァイス・アリエス。名もなきタウラス!! 人も果実も、腐りかけが一番美味い!!」
見上げる夜空、雨はとうに止んだ。
「全部、ぜェんぶ搔き混ぜろ!! どうせやるなら、無茶苦茶にしろ!!」
青年は──トルマリン・スコーピオンは、高らかに笑う。
「また会おうぜ『燕の旅団』。次会うときは、竜の眼も白翼種も、全部お前らから奪い取ってやる。二度と夢なんて、言えねェようにしてやる」
け、け、け、と響く笑い声。
「世界の真実を知って嘆け、ヴァイス・アリエス、名もなきタウラス。お前らには、消して拭えぬ醜い血が流れてる」
狂った夜、その夜が明けるのは──まだもう少し、先の話。