119 : 橙と緑
ロゼの帰還に湧くホール内。並べられる酒瓶に料理。その騒ぎの中、オランジェは浮かない顔で階段に足をかけた。
「上がるの?」
「ああ……ちょっと、疲れた」
グリューンの問いに一言だけ返し、階段を上がっていく。その背を見送ったのは鷹の目の三人。ヴァイスはその異変にいち早く気づき、グリューンへ声をかけた。
「……なぁ、子供達は、どうなった」
目を伏せ、首を横に振るグリューンに、小さく頷く。
「……それであいつ、堪えてんのか」
「うん。あいつ、最後に子供達と話したから」
オランジェの涙を、悲痛な嗚咽を聞いている。そうか、とヴァイスは言うと頭を掻いた。
「いつまでも、引きずんなきゃいいんだが」
「それは厳しいかもね……君はどうなの?」
「俺は……」
握り締めた拳を開く。手のひらの中を見つめながら、ヴァイスは言った。
「十二貴族を、許せねえよ。直接血の繋がりはなくても、身内みたいなもんだ。多くの人を殺してまで不老不死を得ようとする浅はかさに、吐き気がする」
顔を歪めて言う彼の言葉に嘘偽りはなく。
「だからこそ俺は少しでも早く、『夢』を叶えなくちゃいけねぇ」
「……夢? そういや、君の夢って何?」
「ん、お前らには言ってなかったっけか? 俺の夢は──」
「おい」
ジルヴァに抱き着かれ振り回されているロゼを眺めていたシュヴァルツは、呼ばれた声に振り返る。
「……師匠どうかしました?」
「見てられんわ」
幼い少女の見た目にそぐわぬ嫌そうな顔を浮かべながら、彼女はシュヴァルツを指さした。
「なんじゃその髪は。切り落としたにせよ、もう少しやり方があったじゃろ! ざんばらな頭をしくさって」
「いやこれは、あのときは無我夢中で……」
「整えてやる、良いなツュンデン!」
「おう!」
「ええちょっ! 師匠!?」
ツュンデンによって無理矢理椅子ごと運ばれるシュヴァルツの声に、ロゼが顔を向ける。ジルヴァはそれに気づき動きを止めた。
「どうかした? ロゼ」
「あっ……えっと」
それからカウンターに座ったロートへ視線を向ける。
「ロートさん、少し、頼み事が……」
「んー?」
ロゼの「頼み」を聞くと、ロートはぱちんとウィンクをして「了解!」と承った。そのままふたりで階段へ向かう。ヴァイスと会話をする中、口を開けて驚いていたグリューンが、ふたりの姿に気がつく。
「あ、ちょっとロート」
「何?」
「……と、できればツュンデンさん」
「へ? 私ぃ?」
シュヴァルツへ布を巻いていたツュンデンさんも顔を上げる。眠るクヴェルを囲んでいたブラウ、ゲイブとリラも階段の方を向いた。
「ちょっと、頼みが」
明かりのない室内。カーテンも閉め切った部屋の中で、オランジェはひとり蹲る。真っ暗な視界の影で浮かぶのは、忘れもしない子供達の姿。あの声が、あの音が、頭から離れない。幾度目かのため息、彼は膝を抱え直す。
「オランジェ、開けるよ」
「……今はやめてくれグリューン」
沈黙を破るノック音。その直後に響いた声。オランジェは呻くような低い声で返答した。
「……あれは間違いなんかじゃなかった。オランジェ自身が、そういっただろ?」
回りくどい真似をせず、直接切り込む。その思い切りの良さに呆れながら、オランジェはうんと返事をした。
「間違いじゃなかった……間違いじゃ、なかったんだよ。でもな、考えちまうんだ」
扉の向こうで座り込む音がする。オランジェも扉の方へ歩き、背を持たれて座った。薄い板一枚を挟んだ背中合わせ、彼は言う。
「俺がもし、十二貴族になってたら。エメラルドの名をついで、将来は領主になってたら。……その時俺は、あんな行いでも受け入れることができちまうのかなって。子供達を実験に使って殺すことが、正しいと思っちまうのかなって」
もし彼が、双子の弟と逆であれば。そんなIFの話。
「この怒りは、子供達のことを許せないと思う感情は、どこに向ければいい? ロゼちゃんはお門違いだ。『救済』にまで追い込んだ奴が悪い。それは銀月教? いや、あいつらが根っこじゃない。本当に腐った元凶は、十二貴族だ」
オランジェは額の傷を引っ掻く。
「そんなものになろうとしていた過去の自分が、そんなものの血を引いている俺自身が──凄く、物凄く気持ち悪い。ヴァイスの親父はその醜い輪から抜け出そうとしていた、それなのに俺の親父は、その輪が歪んでることから目をそらしてた!」
だらり、と床に手が落ちる。そのかすかな物音も、グリューンは聞き逃さない。
「俺だって、その血を引いてるんだ。たとえ家から逃げ出しても、血からは逃れられないんだ。……もし、またあんな目にあった子供達を見て──俺は、また向かい合うことができるのかな……」
後ろに下がるごとに掠れゆく声、グリューンはとん、と頭を扉にもたげた。
「できる。オランジェは、何度心が傷つこうと、誰かを助けるために走る」
はっと、オランジェの目が見開かれた。
「父親がそうだから自分もそうなんて、そんなわけないじゃないか。明らかな美人局でも助けに行って、身包み引っ剥がされて野犬に追い回されたのは誰? 痴話喧嘩に首を突っ込んで、腹刺されたのは誰? 迷惑かけた不良達に立ち向かって、磔にされたのは誰なわけ?」
「……全部俺」
「そうでしょ。オランジェは天地がひっくり返っても、記憶が吹っ飛んでも、傷ついた人を見捨てたりはしない」
グリューンの手が扉を引っ掻く。
「僕らのリーダーオランジェは、そんなことはしない。そうでしょう?」
扉越しに伝わる振動と掠れた音。オランジェは暗闇の中、小さく頷いた。その衣擦れの音を聞く。ゆっくり扉に頭をもたげ、彼は目を伏せる。
「……なぁグリューン」
「何?」
「笑わないって、約束してくれるか?」
「……だから何?」
オランジェはゆっくり目を開けた。春先の緑をした瞳、暗闇の中でも光を灯す。
「俺の、夢の話」
「……うん」
窓の外、静かに降り出した雨は柔らかく硝子を撫でる。
「俺は生きる証明のために、冒険者になった。名前がなかった生に報いるように、俺は何かを残そうとした。……その何かのことが、ずっとよくわからなかった」
「残ったものはあるだろ? 僕らっていう仲間ができて、二股の黒猫亭っていう帰る場所ができた。ハルピュイアを倒して、冒険者になって……オランジェという名前は、多くの人の心に残ったよ」
「うん……そうだ、そうだな。残ったものはたくさんある。でもようやく、本当に残したいものを見つけたんだ、俺は」
扉越し、ふたりは背を合わせ、手を合わせる。オランジェは目尻に浮かんだ涙を拭い、顔を上げた。
「俺は、子供達が笑って生きていける世界を作りたい。俺みたいに、『生まれてこなければよかった』なんて言う子供達がいない世界を!」
それは、果てしない夢物語かもしれない。それでも、それでも、叶えることはきっとできる。
「俺は、孤児院を作りたい。世界中を旅する孤児院だ! 子供達が色んな場所を、色んな景色を見て、自分の道を見つけられる、自分の目指す星を見つけられる、そんな場所を────俺は作りたい!」
グリューンは口角を上げて笑った。唇の端から覗く牙が白く光った。そして立ち上がる。
「──笑わない。笑いなんかしない。だって僕らは、僕は! 君の行く末を最後まで見届けることが、『夢』なんだから!!」
勢いよく扉を開け放った。後頭部を打ったオランジェが頭を押さえて振り返り、何かを言おうとして──止まる。口は半開き、伸ばそうとした手も途中で止まった。
「……そういえば、これに関しては目を反らしまくってたよね」
開け放たれた扉、廊下の明かりが差し込みグリューンを照らし出す。
「目を凝らせばって、僕は伝えたはずだったのに」
「グ、リューン……?」
呆れたようなため息ひとつ。少し伸ばされた横髪が揺れる。
「君の生を望む人はいる。君が今生きていることを、祝福する人はいる。君は世界に、多くのものを残している」
伸ばされた手、剣を握るせいで、皮が固くなったオランジェの手より、一回りも二周りも小さく細い手。その手は細いが少しだけ硬い。冒険者を思わせる手。今夜、手袋はない。
「友として、仲間として、相棒として──いや、そうじゃないね。……僕は君の、大切な人の夢を、側で支えたい」
短く切り揃えた前髪、少し伸ばした横髪。頭から覗く狼の耳。夕空の色をした瞳は彼を映す。唇から覗く鋭い牙。ふわりと揺れるスカートを少し気恥ずかしげに握り、彼女はオランジェへ手を伸ばす。
「これで元気になれとは、言わないけどさ────リーダー、いや、オランジェ」
顔を真っ赤にし、動揺する彼。彼女もまた、うなじまで真っ赤にして彼の手を掴んだ。
「朝になっても、話をしよう。君に、伝えたいことがあるんだ」
青年と少女。少女は腰を下ろした青年の前へ膝をつく。夜はまだ明けそうにない。けれども彼らの出会いは、今度こそ一晩では終わらない。
「うむ、こんなものじゃろ」
「……ありがとうございます師匠」
うなじに届かないあたりで切り揃えられた黒髪をさすり、シュヴァルツは顔を上げる。レーゲンは満足げにはさみを鳴らした。
「無事イフリートは喚べた、か。必ずやおぬしの力になるじゃろうよ」
「……はい」
シュヴァルツは壁に立てかけた、先端の消し飛んだ杖を眺める。レーゲンから渡された杖、特別なもの。狐に勝利したことと引き換えに失ってしまったもの。
「オッケーロゼ! バッチリバッチリ!」
「……変ではありませんか? 本当に?」
「アタシが切ったんだから間違いないって! ほら、顔上げて、さ!」
賑やかな声。階段を降りる人影三つ。笑うツュンデン、顔を手で覆うロゼ、その肩を押すロート。シュヴァルツは階段の方へ視線をよこす。
「────あっ」
「────あ」
顔を上げたロゼ。以前までの彼女は前髪を伸ばし、額の中央で分けて流していた。しかし今、彼女の前髪は降ろされ、目に届かない長さで切り揃えられている。結んでいた位置も、結び方も変わっている。
着ているものも、淡く花をあしらわれた着物から気取らないシンプルなワンピースへ。涙のせいで赤い目元は変わらない。しかしその瞳には、かつてのように怪しさはなく。至極普通な、動揺と恥じらいに揺れる紫水晶。
彼女の紫水晶と、彼の血潮の瞳が交差する。
長い黒髪を切り落としたシュヴァルツ。
前髪を切り揃えたロゼ。
ふたりは互いに顔を見合わせ、頬を赤く染め上げた。




