116 : 僕は君の勇者
走る、走る、踏みしめる。揺らぐ炎の肉体を、揺らぐ巨人の肉体を。炎の剣を携えた少年は息を切らしながら駆ける。
「諦めろ、諦めろ、若造。ここにもうロゼはいない。ここにいるのは、ただの狐」
その声を振り払うように、眼前へ向けられた光弾を黒の炎で弾く。
「我はただ、ロゼの願いに答えたのみ。世界を無くせという、此奴の願いに答えたのみ」
「黙れ!」
手を組み交わし指の隙間から、目が覗く。シュヴァルツはその場を転がるようにして離れた。先程まで彼が立っていた場所がまるごとえぐれる。すぐに魔力で再生したが、彼の魔力は残り僅か。
「黙らぬよ。この娘は生を恨んだ。世界を呪った。我を呼び、我の力を使って多くの民を殺した。それが救いと、それが正しいと信じ込んで。なあ若造、お前は此奴を許せるか? お前はそんな醜いロゼに、縋るのか?」
「黙れと、言ってるだろ!!」
狐の背後で白の炎が爆ぜる。シュヴァルツの鼻から再度一筋鼻血が落ちた。
「この娘はお前に守らせるためにあのような睦言を吐いた! そこに、愛はあらぬよ。期待も無いよ。ああ、あぁ! 愛に焦がれるお前にとって、その言葉は如何に甘美だったか!」
シュヴァルツの視界が点滅する。イフリートの肉体を保つのでさえ精一杯だ。喉の奥から伝わる血の味。声を振り絞り叫ぶ。
「黙れ……僕は! お前と話をしているんじゃ、ない!!」
叫ぶ、叫ぶ。願うように、届けるように────!
「君を呼んでるんだ!! ロゼ!!」
狐の顔がぴくりと反応する。
「聞こえているんだろう? まだ、そこにいるんだろう!? 帰って来るんだ、帰って、こい!! ロゼ!!」
「……もう無意味と、言ったはずだが?」
「関係無い! 僕はまだ、諦めてない!!」
足元がふらつくシュヴァルツを目指し、狐は指を構えた。足元を崩す。彼の魔力はもう限界。再生の余力はない。その時だった。
「──彼岸花!!」
そんな叫びと共に放たれた弾丸。瓦礫の下から隙間をぬぐい、撃たれたのだとわかる。軌道からは逸れているはず、故に意に介する必要はないと狐は判断した。
しかしその弾丸は、かすかに起動を曲げ彼女の──着物の裾へ命中。
全身を駆け巡る落雷のような痛み、口の端から乾いた空気が吐き出される。何故、何事、と思考を回す。着物の裾、そこに先程ヴァイスから放たれた短剣が突き刺さっていた。
雷の魔力が込められた弾丸、鋼の刃を避雷針に放たれたのだ。狐は歯痒げに舌打ちをした。
「えぇい! もう余興にはかまけておられん!! 始めようか、世界の救済を!!」
両手を重ね、互いの小指と親指を重ねる。手のひら同士が向かい合う空間に、大きな渦が集約していた。
「貴様は勇者に在らず、我に勇者など必要なく! 不愉快な人間よ、我の視界から消え失せろ!!」
「────上等さ」
狐の眼前。イフリートの体から飛び、シュヴァルツは真っ直ぐに狐を目指す。握り締めた炎の刃。それを高らかに掲げながら。
──僕は、世界を救う勇者様でも、世界を滅びへ導く勇者でもない。
──はじめから、誰かにとっての一番に。誰かにとっての「勇者」になれれば、それで良かったんだ。
「僕はお前の勇者じゃない。僕は、ロゼの勇者だ」
炎の刃を、狐の胸へ突き刺す。その炎は魔力、燃やす対象は、シュヴァルツの意志によって自由に変えられる。この場合、彼が燃やすと決めたのは──絡みつく、狐の意志!
「戻ってこい! ロゼェェェ──────ッ!!」
燃え上がる狐の体。彼女の肉体に絡みつき、こびりついた悲しみを、苦しみを、憎しみを燃やし尽くす。その思いを胸にシュヴァルツは握り締めた剣を離さない。
「僕の声が聞こえるか!!」
手繰り寄せるように、縋るようにシュヴァルツはその剣を両手で握る。苦悶に呻く狐の眼前へ顔を寄せ、叫ぶ。
「すべて演技だったとしても、すべてその狐の意思だったとしても! どこかに、どこかに君の意思はあったはずだ! あの日、僕を好きと言ってくれた、僕を勇者と呼んでくれた君を、僕は信じる!!」
狐はかすかに唇を震わせ、憎々しげに表情を歪める。ロゼの顔でそんな表情を浮かべる狐に歯軋りしながらも彼は続けた。
「あの言葉が本当に嘘だとすれば、何故あのとき君は銀月教へ戻った!? 何故君は僕をここへこさせないように双子へ伝言を残した!?」
見開かれる目。それらの行動から明確に伝わる、ロゼの意思。シュヴァルツは叫ぶ。
「君の苦しみを、わかったとは言わない! 君の悲しみを、癒せるとは言わない! 君の痛みは僕にはけして理解できないし、君が今まで出会ったものを、僕にはどうすることもできない!!」
それでも、そうだとしても。
「僕は、今の君を救うためにここに来た!! 僕には、君が必要なんだ!!」
燃える炎がシュヴァルツの体にも移る。熱はないはずなのに、焼け付くような痛みが彼の体へ絡みつく。
「ただ一度、口にするだけでいい。僕を呼べ、ロゼ。君がロゼだというのなら、僕を呼べ」
燃え盛る青い炎の中、シュヴァルツはそっと剣から片手を離し、ロゼの眼前へ手を伸ばした。
「今までの悲しみの分、僕が必ず、君を笑顔にして見せる」
それは、あの双子との約束でもあった。
微かに震える手。青の炎に照らされる彼女の瞳が、ゆらりと光る。冷たい銀から、涙の膜に包まれた紫水晶へ。
「こんな私を、救って──くださるの、ですか?」
伸ばされた手。多くの人を殺した手。シュヴァルツは迷いなく、その手を掴んだ。
「救う」
初めて出会った夕空の下。その時も彼はこうして、彼女の手を取った。
「僕は、君の勇者なんだから」
伝う涙をそっと拭う。青の炎が一際強く燃え盛った。
落ちていく体、イフリートの肉体が消滅していく。空中でなすがままにふたりは落下していく。
「……ああ、まこと愚かな」
シュヴァルツの腕の中から聞こえる声。まだ炎は尽きていない。ロゼの目は紫と銀に揺らめいていた。銀の瞳、狐は言う。
「たとえ今我を抑えたとして、この世界、その本質は変わらんよ。この代乗り切ったとして、我はまたこの世に現れる。その時、器がこの世を憎めば──どの道、この世界は滅びる」
その時、シュヴァルツのように器を救えるとは限らない。
また銀月教は復活し、ロゼのような犠牲を生み出し続けるかもしれない。この世界が続く限り、狐の尾は離れない。必ず絡みつき、この世界を見定める。
「狐、滅びの獣」
シュヴァルツは呼ぶ。
「それでも僕は、人を信じている」
その銀の瞳が見開かれた。
「何度でも僕は、お前の前に現れて滅びを止めてみせるよ。狐」
彼の言葉。どこから湧いて出てくる自信か、狐はにやりと笑ってみせた。炎はどんどん弱くなる。
「やってみせろ、若造。気が乗った。あぁ、我はまだもう少し、この娘を通して見定めよう」
指を突きつける。その手にもう力はなく。
「この娘がまた世界を呪えば、十七も縛りも関係なく、即座に世界を滅ぼしてやる。覚えておけよ?」
「ああ、忘れない。──僕は必ず、ロゼを幸せにする」
炎が止む。シュヴァルツの腕の中へしなだれかかるロゼの体。目は閉じられ、穏やかな顔。頬には涙の跡。魔力切れを起こしたシュヴァルツは朦朧とする意識の中で、ロゼの体を抱きしめる。
落ちる体、激しい轟音。入口の瓦礫が吹き飛び、粉塵の中から四人の影が飛び出した。落下地点へ身を滑り込ませ、ふたりの体を受け止める。ロゼを抱えたシュヴァルツ、その顔を覗き込み、ヴァイスは笑った。
「おかえりだな! シュヴァルツ!!」
「……ただいま、ヴァイス」
シュヴァルツへ拳を突き出すヴァイス。脱力しきったシュヴァルツは、片手でロゼを抱いたまま拳を突き出した。ぶつかり合うふたつ。
「帰ろうぜ、二股の黒猫亭へ」
「ああ、帰ろう」
そして彼は、伸ばされた手を掴んだ。