115 : 隣のあいつ
幼い頃から隣には、何でもできる奴がいた。
誰からも好かれて、愛されて、恵まれた環境で、何をしても及ばなくて。しかもそいつはそれを自慢するでもなく、ずっと隣にいた。
相棒だと、向けられた笑顔が憎らしくも、誇らしかった。
「散華せよ、イフリート!!」
炎の巨人が腕を振り上げる。その指先から炎が解け、不規則な軌跡を描いて狐へ向かう。狐は笑みを絶やさぬまま腕を一振り。霧散する炎。
「話を聞いておったのか? 我の力は破壊と消滅。魔法であれどそれに例外はない」
そんな言葉などお構いなしに、シュヴァルツは階段を蹴った。後方へ飛ぶ体、高い階段の上から身を投げる。自殺にも等しい行為──彼が魔法使いでなければ。
シュヴァルツの体はイフリートの手によって受け止められた。その炎は魔力の複合体、生みの親へ牙を剥く真似はしない。イフリートの肩の上、膝を付きながら魔力を集中させる。真っ直ぐに手を伸ばした狐。その背後へ音も立てず、白い炎が接近する。
「爆ぜろ、イグニス!!」
至近距離の閃光、爆発。直撃だった。
「今だ! イフリート!!」
再度解ける腕、炎のリボンが煙の中へ飛び込む。シュヴァルツは張り付くような寒気を感じ、即座に身を庇った。
「憐れな」
音さえも、なかった。ただ音もなく、前触れもなく、何もなく。イフリートの右腕が消え去った。即座に身を引いたシュヴァルツ、引いた場所から一歩ずれていれば、彼の右半身は消滅していただろう。
手にした杖、先端部分が消えていた。その断面は、あたかも「元々そうだった」とでも言わんばかりに美しい。折られたとも、切られたとも違う。ただ、消滅したのだ。
「それほどまでに、この娘を信じるか。たかが言葉ひとつで、お前は命をかけるのか」
煙が晴れ、姿を現す狐。眼前に組まれた手、複雑な形に組み合わせた指の隙間、四角の間から銀の瞳を覗かせる。
「安心しろ。世界が終わればこの娘も解放する。お前の元に返してやる。そう躍起になって、取り返そうとしなくてもいい」
即座にイフリート以外の精霊を退避させる。イフリート自身もその場を動いた。巨体とはいえ炎の塊、その動き自体は早い。広間の中央まで下がり、シュヴァルツはただの棒切れとなった杖を握り締めた。
「若造! お主は何故、ここまでする!? お主はこの娘に何を求める!?」
「奔れ! イフリート!!」
白石の床を滑るように駆けるイフリート。その勢いのまま飛び上がり、狐の真上へ舞い降りた。
「僕は昔から、何をしても一番にはなれなかった」
手の上に集約する炎、狐の眼前で爆ぜて瞬く。手で弾かれながらも、彼は棒切れと化した杖に魔力の装甲を施し、振りかぶった。
「僕の横にはあいつがいたから。僕はあいつみたいに早く動けないし、あいつみたいにみんなから好かれることもできない。みんなと比べて体力も力もないし、誰かから好きになられたことがない」
狐はあえて消滅ではなく、防御へと力を注いだ。ぶつかり合う魔力と魔力。シュヴァルツは叫ぶ。
シュヴァルツはヴァイスに敵わない。今はシュヴァルツの方が上回っている魔法だって、これから先はわからない。ヴァイスは魔法の勉強を嫌ってあまり真面目に取り組まなかった。だから使い方を知らないだけ。シュヴァルツのように熱心に取り組めば──ヴァイスは彼を上回る魔法使いにだってなれる。
端正な顔立ち、誰からも好かれ仲良くなれる愛嬌。風のような身のこなし、鍛錬で身につけた尋常ではない体力。人を引き寄せる才能、誰にも敵わない家柄。
何故そんな彼が自分を相棒と呼ぶのか、シュヴァルツはずっとそれがわからなかった。しかし事実なのは、劣等感に苛まれるより先にヴァイスが手を引いて引っ張り上げてしまうこと。それでも心に残るかすかなとっかかり。「自分は何をしてもヴァイスには勝てない」という苦い羨望。
自身の血を、両親の正体を聞いてなお、その感情は消えなかった。両親は誇らしい存在だったし、偉大な人物だった。しかしそれは、自分ではない。自分自信を誇るものには成りえない。
彼の、シュヴァルツの胸に秘めた望み。
その望みを叶え、胸にこびりついた感情を振り払ってくれた存在。
「────ロゼは、そんな僕を真っ直ぐに見てくれた。真正面から、好きだと言ってくれた」
「はっ、何度言えばわかる。そんなものは演技よ」
勢いよく杖を弾き飛ばされる。向けられた指、空中で何かを唱えたシュヴァルツの体が解けて消えた。狐の指先、白石の柱がまるごと抉れて消え去った。
転移の技、一年の修行で習得した技だ。高度な技術、多大な負荷のため近距離での使用しか推奨されない上に、それでさえも使用できる魔法使いが限られる技。肉体の融解、再生成。彼は頭の痛みを振り払い、イフリートの肩に膝をつく。
「演技でも、そう言われたのは初めてだったんだ。あいつ以外に、初めてだったんだ!!」
滑走するイフリート。その肩の上に乗り魔力を束ねる。手の中に集約する瞬き、光る星のような魔力。
「調子に乗ってると言われても、勘違いだと言われても、知るものか!! 一番と言ってくれる人のためなら、僕は何度だって命をかけられる!!」
両の手を振りかぶり、両端から狐の動きを封じるイフリート。その真上、再度上空より挑むシュヴァルツ。棒切れとなった杖は捨てた。振り上げた手の中で躍動する閃光。
「光天・明瞭!!」
彼の師、魔女レーゲンの扱う七臨演舞。火水風雷地光闇、魔法の王道である七属性の最上位呪文。
以前までの彼は、あくまでそれを模倣した技しか使えなかった。それも、本人が得意とする火属性のみ。この一年で、この修行で磨き上げた技術。
誇張ではなく、光の速度で炸裂する魔力の煌めき。狐が動くより早く、死角から攻撃が飛ぶ。白石の上に着地したシュヴァルツは歯を食い縛り、放つ右手を左手で掴む。
狐は自身の動きを縛るイフリートの両腕を消し飛ばした。
「たったそれだけの言葉に、光を見出すなど……お前は、お前の人生は、苦痛だったのではないか?」
「それは、違う」
鉄臭い匂い、シュヴァルツの鼻から一筋血が落ちる。
「僕は、自信がないだけだ。誰かに言葉にしてもらえないと、その実感がわかないだけ」
閃光が止む。シュヴァルツは親指で鼻の下を拭った。
「また君と会えたとき──きっと僕は、自分を誇れる」
彼の背後で響く爆音。眩い白の閃光が聖堂の大扉を吹き飛ばした。狐がそれに気を取られる。イフリートに回収され、距離を取るシュヴァルツ。
「ヴァイ──────ッ!!」
「────任せろ、ルッツ!!」
勢い良く放たれた刃。回転し、軌道を描いて狐の元へ飛ぶ。それは彼女の着物を掠めるに留まる。
「なんだ!?」
「続けていけ!! ロート!!」
「なにがなんだかわかんないんだけどっ!? なんでロゼに技ぶっ放さなきゃいけないの!?」
「いいからやれ────ッ!!」
「無茶苦茶よ!!」
叫び声と共に撃ち出される銃弾。困惑しながらもかわす狐。それを手で消し飛ばし指の隙間から粉塵の向こうを覗く。
「────燕の旅団!?」
瓦礫の山の影に立つのは、短剣を抜いたヴァイス、銃砲を抱えたロート。その奥にも人影。
「ボクらもいるぞ! ちょっと痛いよロゼ!!」
「本当に、報告・連絡・相談というものを知らないのですか坊っちゃん達は……!」
刀を抜き、振りかぶったジルヴァ。槍を掴み構えたブラウ。瓦礫に脚を乗せ各々獲物を狐へと向ける。
「十色抜刀! 青天井!!」
「神槍抜錨、風花!」
大河さえも打ち上げる剣撃の圧と、強烈に吹き付けた風の勢い。狐の体は空へ舞う。いくら神を宿すとはいえ、その器は人の小娘。翼で舵をとり空で留まりながら、真白の指を燕の旅団一行の立つ扉の上へ向けた。
壁の一部が崩壊し、瓦礫が彼らの眼前へ降り注ぐ。彼らは聖堂内へは侵入できない。空を落ちる狐の視界、炎の巨人に掴まるシュヴァルツが見えた。手には青の炎、ウィルオとウィスプ。
「貴様……! 燕の旅団は、抜けたのではなかったのか!?」
「抜けたとは言ったけど、誰が縁まで切ったと言った?」
ウィルオとウィスプは絡み合い形を作る。シュヴァルツの手の中、一本の剣へ。瓦礫の向こうでヴァイスが息を吸う。
「やれ──────ッ!! シュヴァルツ!!」
「いわれ……っ! なくても!!」
青い光を放つ魔力の刃、それを握り締め、彼は狐を視界に捉える。
「説教だ、ロゼ。キツイの一発────いくぞ!!」
踏み込んだ足、回転する視界の中、狐は彼の目に滾る熱を見た。




