98 : 銀の狐
扉の叩く音に皆が黙りこくる。退室していたブラウも場の異常さに引き返し、口を閉ざしていた。俺は息を潜め、ゆっくり扉に近づく。
ノブに手をかけたところだった、響く声。
「怪しいものではありません」
「ありません」
「お迎えに上がりました。それだけでございます」
「ございます」
意を決し、扉を開く。不自然なほどに真っ暗な街並み、それを覆い隠すように、黒いローブに身を包む人影が、扉の向こうを覆い隠していた。
「改めまして」
「まして」
「お迎えに上がりました、お姫様」
「お姫様」
一番手前に立つ、小柄な二人。二人はローブを着ておらず、その無表情を見せていた。ロゼが着ているのに似た……キモノ、だったか。乙女領では普通に着られているという。赤のキモノと青のキモノ。双子だろう、よく似た顔立ちをしている。
そして二人の視線は──俺の背後、シュヴァルツの隣。……ロゼに、向けられていた。
「お姫様。十七の夜、その刻限は近づいております」
「おります」
「もう、お戯れはおやめください」
「おやめください」
「お戻りください、我ら銀月教に」
「銀月教に」
その場の皆が、凍りつく。銀月教、先も名が上がった。五層地下の施設にて、星見の騎士と共に紋章を掲げられていた、らしい。
しかし銀月教は、一年以上前に壊滅したはず。この迷宮都市ゾディアックの地下空間に根城を張っていた彼らは、衛兵と俺達民衆の手によって打ち倒された。ひとりの信者を教祖の身代わりにし、消滅。信者も幹部も皆確保された。教祖として祀り上げられていたロゼを切り離し、終わったはずだ。終わったはずだったんだ。
「お戯れもほどほどに、真の役目をお忘れなきよう」
「なきよう」
「我らの活動において、貴方様の存在は欠かせないのです」
「のです」
ロゼを見る、胸の前で両手を握り、俯く姿。シュヴァルツが庇うように前へ出た。
「何を勝手に……銀月教は、もう終わったはずだ! また現れて、ロゼを縛ろうっていうのか!? お飾りの教祖に、象徴に据えて信者を集めようと──」
ざっと俺の横に立った。奴らからロゼを隠すように睨みつける。双子の童子は一切顔色を変えず、じっと俺達を見上げていた。
「ロゼは渡さない。ロゼは僕らの、仲間だ」
そうシュヴァルツが言い放った、直後だった。
「仲間ぁ? 笑わせんじゃん!」
童子の背後、細身の影から伸ばされる、すらりと長い脚。女の声がした、その瞬間向けられたそれはシュヴァルツの腹を蹴り飛ばす。一瞬苦悶の声が響き、シュヴァルツの体は吹っ飛び店内のカウンターに激突した。
「シュヴァルツ様ッ!!」
ロゼの悲鳴、項垂れるシュヴァルツの頭から流れる血を見て、頭の奥が真っ白になり飛び出した。細身の影、その胸倉を掴み上げようと手を伸ばす。
「やめろ、お姫様の前だぞ」
「お前、すぐ脚出すんじゃねえよ下品な女だなぁ」
「だってぇ、仲間とかお飾りとか、ムカつくしぃ?」
俺の手は女の隣、長身の影によって止められた。女に向かって、軽薄そうな男が話しかけている。童子の後ろには四人、幹部だろうか。女、長身の男、軽薄そうな声をした男、そして年齢も性別も判断つかない壺のようなものに入った影。ぞくりとするほど冷たい手に、咄嗟に振り払った。
「申し訳ない、この場で争うつもりはないのだ。我々は穏便に、お姫様をお迎えに上がったつもりだ」
「まあ今この場で殺し合っても、オレはいいぜ? あたり一面の空間とは、切り離してるしなぁ!」
空間を切り離す、この嫌な静寂はそれか。しかしそんな高度な技、レーゲンでもできるかどうかだ。
「殺し合う? お姫様をかけて! 私は構わないけどさ!」
「おやめなさい!」
嬉しそうに声を上げた女、その声を遮るように響く──ロゼの声。彼女はシュヴァルツの側でしゃがみこみながらも、視線だけは強く奴らに向けていた。
「彼らへの手出しは、禁じます」
凛とした態度、声色。扉の向こうの面々は、皆口を噤み頭を垂れた。それを確認すると、ロゼは立ち上がる。
「ロゼ……駄目、だ」
シュヴァルツが彼女に向かって言う。ロゼは振り返り、シュヴァルツの耳元に顔を寄せた。一言二言、何かを囁く。シュヴァルツの目が見開かれ、もう一度名を呼んだ。それでも彼女は、戻らない。
「何をするつもりだ、ロゼ!!」
「みなさん」
からんころんと、ゲタを鳴らして歩くロゼ。彼女は俺の隣を通り過ぎ、双子の童子の前に立った。
「私は、みなさまを騙そうとした訳ではないのです。……本当に、この日々は楽しかった」
顔を向けない。しかしその言葉が俺達に向けられているということはわかる。
「私を、大切な仲間と呼んでくれて──ありがとう」
「やめろ、ロゼ」
そんな言葉、まるで。
「だから私も、大切な仲間のみなさまを、守りたいんです」
「戻って、ロゼ」
ロートが言う、手を伸ばす。届かない手は、ただ何もない空間をかきまわすだけ。
「ヴァイスさん。あんな素性のしれない私を、燕の旅団に入れてくれてありがとう」
「何をするんだ、ロゼ」
すぐ目の前にいるのに、何故か遠い。そんなはずは無い。それなのに。
「ロートさん。私はちゃんと、お別れできますわ」
「何言ってんのよロゼ!」
立ち上がり、ロートは扉に近づく。
「ブラウさん。……貴方様の悲劇は、大本を正せば我々の責任です。……本当に、申し訳ありませんでした」
「……え?」
ブラウは顔を上げ、ロゼの背を見つめる。
「ジルヴァさん。貴方のまっすぐさは、私にとっての光でした」
「何を言ってるんだよ、ロゼ! こんなの……お別れみたいじゃないか!!」
そうだ、こんな別れなんて──
「オランジェさん。あのとき、攫われた私を助けに来てくれて、ありがとうございました。それと……もう少し、隣にいる人を、よく見てあげてください」
「そんなの……お礼なんて、いらないよ、ロゼちゃん」
今、なんと? 攫われた?
「グリューンさんも。あのときは、ありがとうございました。貴方は必ず、幸せになれますわ」
「幸せ、なんて。ロゼ、駄目だよ、戻ろう」
グリューンがぶんぶんと首を振る。
「ゲイブさん。貴方の医術は本当に素晴らしいものです。貴方様のようなお医者様がいれば、私の血なんて、白翼種なんて、必要無くなります」
「お姫さん、それは」
ゲイブは立ち上がるが、前に進むことができず止まる。
「リラさん。あの施設のことは、お忘れください。あれは、必ずみなさまを不幸にしてしまう」
「それはどういうことなんだ、ロゼさん」
その問いに答えはない。
「ツュンデンさん、こんな私に帰る場所を、暖かな場所をくれて、ありがとうございます」
「何言ってんだい、ロゼちゃん」
「レーゲン先生、約束を守って、みなさまに何も言わないでくれてありがとうございました」
「儂は……こうなるなど、何も聞いておらんぞ」
ババアでさえも、動揺している。彼女はそこでようやく、振り返った。視線の先、目を見開くシュヴァルツ。
「シュヴァルツ様。私の勇者様。あの日、空から現れた貴方のおかげで、私はたくさんのものを手に入れることができました」
「聞きたくない、ロゼ」
「数え切れないほどのありがとうが、あるんです。これは、本当なんです」
「やめろ、ロゼ」
「愛しています。シュヴァルツ様」
そしてロゼは、こちらに背を向けた。
「みなさまに手出しは、させません。だからどうかみなさまは、世界の綺麗なところだけを見てください。嫌な部分から、目を背けてください。……それが、みなさまにとっても救いになる」
少しずつ前に、扉の向こうに。双子の童子が深々と頭を下げ、扉に手をかける。
「本当にありがとう、燕の旅団。そして──さようなら、みなさま」
「ロゼッ!!」
伸ばした手は、扉に遮られる。ばたりと閉じた扉、耳の痛くなるような静寂が、あたり一面に広がる。
動けない沈黙が長く続き、いきなり前触れもなく音の本流が押し寄せた。扉越しに聞こえる街の喧騒が、こんなにうるさく聞こえたときはない。窓の向こうの街並みも、いつもの明かりを取り戻していた。
その中で──ただ俺達だけが、静寂を保ち続けている。