第2話 え、『時もり』の作者? この人まだ生きてんの
ミツイは、賀々沼を見下ろす丘の中腹にある一軒家に、ひとりで住んでいた。妻とは死別し、子供はひとり立ちして近郊のマンションに移ったあとの家には、まだ処分しきれない蔵書が5万冊ほどあり、そのほとんどは10年以上前に買ったり、同業の作家から贈呈してもらったものだった。「謹呈」「恵存」あるいは「乞御高評」といったしおりが挟まっている小説本のうち、生きていてまだ作家業を続けている人の著作は残して、それ以外はどんどん捨てたり、バラして電子テキスト化したりしていた。
ミツイが自分の老いを感じたのは、その春高校に入学した孫娘であるミミコにこう言われたときだ。
「この教科書に出てる小説書いたの、これこれ、うちのおじいちゃんなんだぜ、って新しいクラスの子たちに言ったら、え、『時もり』の作者? この人まだ生きてんの、って男子のひとりに聞かれた。日付けとそいつの名前入りのサイン本くれないかなあ」
『時もり』というのは、正しくは『時を守る少女』というタイトルで、未来から来た少年と、ごく普通の少女、そしてその仲間たちが、過去改変をはかる侵略者と何度も、複数の時空系列で戦う、中高校生向きの話だった。
ミツイが結婚したての金がないときに、暇だったらジュニア小説、だったかな、とにかく若い子向きの本書いてみない、って、学習雑誌の編集者に勧められて、1か月ぐらいで書いた小説だ。まだ多元宇宙とかの考えは一般的じゃなかったかな、とミツイは回想した。そして、半世紀近く前のその本が、未だに新刊書店で手に入るとは知らなかった。
孫娘が差し出した文庫本は、ミツイが表紙カバーのデザインだけはチェックした記憶のある最近のもので、肩までの髪ときっちりした眉の、ヒロインの少女がアニメの絵柄風に描かれていた。その本は過去に何度か映画やテレビ、劇場用アニメなどになり、そのたびにヒロインの顔は変わっていた。
「というよりむしろ、お前らの世代が本読んでるってことに驚きだよ、孫娘よ。みんな電子書籍なのかと思ってた」
「まあだいたいね。でも教科書は紙と電書の両方使われてる。書き込みとか落書きとかできないし」
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「そう言えば、おじいちゃんって魔法使いだよね。なんか魔法っぽいことやってみせて」と、ミミコは言った。
「なんでお前なんかのためにやらにゃいかんのじゃ。あ、こういう風に「じゃ」とか「なのじゃ」とか言ってると老練の魔法使いっぽくていいかな。あのねえ、おれが使える魔法は、嘘を作って、それが本当にある世界にすることぐらいなのじゃよ。ではひとつ、やって見せようかの」
「そういうキャラ立てはどうでもいいから、さっさとやれよ」
「うん。まずミミコは美人じゃないな。でもそんなにひどい顔じゃない。タヌキのように愛嬌があるって感じの、すこし顔が丸めで、背は普通で、濃褐色の髪と灰色の瞳をしている。これはお前の母のほうの血かな。おれはドラゴン系だから金色の瞳だろ。それから、元気があって友だちがたくさんいる。人間関係と将来のことについて悩んでいる。お前がおれのサイン本を渡す男子は、何考えてるかわからない奴で、バスケと読書が好きで、お前はそいつが好きだ」
「そんな適当なことだったら、魔法使いじゃなくても言えるだろ。最後のところはともかく」
ミツイは孫娘の本を数ページ読み進めていると、自分の視界がぼやけてしまっていることに気がついた。
「な、な……なんで涙を流してるの、おじいちゃん」
「昔好きだった女の子のことを考えててさ。その子はおれの妻になり、お前の父と叔母を生んで、おれより早く死んだ。あいつはおれと一緒に暮らせて幸せだったんだろうか。別の世界では別の誰かと結婚して、やっぱり幸せなんだろうか、みたいな」
「そうなんだ。じゃ、サイン本くれよ」
「ずうずうしいな。作家だろうが有名スポーツ選手だろうが、サインなんて誰でも書けるだろうから、本物か偽物か、その作家が生きてるか死んでるかなんて、サインだけじゃわからないっつーの。ビートルズなんて、4人のサイン代役専用の人間を雇ってたぞ。まあ日付けと相手の名前と、あと「孫をよろしく」って書かせてくれるなら、サインしてやらないことはない」
「じゃああいつに会ってよ。生きてるって証拠見せたいから」
「お前らが結婚するときに、式場でだったら会ってやる」
「ほお、言うねじいさん。あんたの葬式のときにふたりで行くのと、どっちが先かな?」
「あー、やっぱ来てくれんの? ふたりで? 待ち遠しいなあ。もう今年の秋ぐらいに生前葬やっちゃおうかな」
続きを読みたいんで貸しといてくれ、とミツイは言ったが、これは人から借りてる本だからだめ、と、ミミコは断った。
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「……ということがあってさ、ごめん」と、ミミコは新しい高校の新しいクラスで、後ろの席にいるミネオに、本を返しながら話をした。ミネオは黒いシャツにピンクのネクタイ、白の上着と黒のパンツ、薄い黒地のサングラスのように見える眼鏡をした、1980年代マフィア風の伊達男だった。ミネオはアメリカ映画の登場人物のように肩をすくめた。
「で、生前葬やるの? 火刑と磔刑のどっち?」と、ミミコの隣の席にいるナツミが話に割り込んできた。ナツミはミミコと同じ中学の出身で、猫ビースト族の血が混ざっているため、髪の毛が白・黒・茶の三毛になっている。ミミコより少しだけ頭がよくて可愛くてすばやく動ける、ただし集中力にムラがある、友だちというかミミコの知り合いだ。中学時代はそんなに仲がよかったわけではなく、まあお互い顔ぐらいは知っている、というぐらいのぬるい関係だったが、高校では席が隣同士になったのでなんとなく口を聞くようになった。
「悪い魔法使いは、まず、馬の背に乗せて、木の枝から垂らした縄に首を突っ込ませる。牛泥棒と同じ罪だよ」と、ミミコは答えた。