第1話:死を取り消すという事
サイコホラーに近いですが、あくまでもファンタジー寄せです。
あらすじ長くてごめんなさい。
熱い。まるで竃の中に生きたまま放り込まれたようだ。
燃えて溶ける肌。腐った肉が焼けるような悪臭。
ここが夢か現実か、布団に入ってからしばらくの俺には判断がつかない。
目を開こうとしても、強力接着剤でまぶたを固定されているかのようにビクともしない。
それよりも、とにかく痛い。しかし全身に走る激痛が、皮肉にもここが現実である事を教えてくれる。
俺は寝たまま燃えている。バチバチと木材が焼ける音だけが聞こえてくる。
「t……す……け……て………………」
必死に喉を震わせても、完全に乾ききった口の中はいう事を聞いてくれない。
舌が収縮し、上手く息もできない。
ほんの少しだけ、舌と上顎の隙間から入り込んでくるのは爽やかな冷房の風ではなく、獄炎にも似た熱風。
そうか。これが代償か。
人の死を取り消す事の代償が、こんなものだと知っていたならあの白猫の誘いは断っていたのに……
最悪の夢を見た……ような気がした。
体を起こそうとしても、全身の震えがなかなか治らず布団から出れそうにない。
いつもなら快適なクーラーの風も、身体中汗まみれの今では地獄の冷風だ。
どうやら余程の悪夢を見ていたようだが、朝七時のアラームで目覚めた俺の記憶には残っていない。
だが人間としてそれは至極当然で、『健康』という俺が所属している剣道部のモットーを遵守できている証拠でもある。
先月一年の後輩もできて、二年のエースという自分で考えても立派な立場を頂いている身としては何よりの事だ。
冴えない見た目な上に勉強もできない。あまり目立たない存在である事を帳消しにしてくれる剣道には、こんな気分の悪い目覚めの朝でも感謝したくなる。
「綾人ー! 起きなさーい! お母さんもうパート行っちゃうからねー?」
「はいはい、行ってらっしゃい」
下の階から母親式モーニングコールが聞こえたところで、いつも通りベッドから降りた。
そんなあまりにも自然な体の動きのせいで、つい先ほどの体の震えを忘れてしまいそうになる。
安物のパジャマが汗でびしょびしょになっていない限りは、忘れそうになった事にさえ気がつかなかっただろう。
内容を全く覚えていないのにも関わらず、何故かとても重要だと錯覚してしまう程の夢。
いくら思い出そうとしても蘇らないその記憶のカケラを探すのに、登校前の身支度中ずっと時間を割いてみたが、全くもって収穫はなかった。
母さんが置いておいてくれた食パンを適当に囓り、玄関で靴に履き替える。
こんなありふれた日常の流れに、妙な懐かしさを感じてしまうのは何故だろうか。
それも今日に限ってだけの事。母親の掛け声も、食パンの味も、洗面台の鏡でさえ愛おしい。
まるで一駅離れた高校に向かうだけでホームシックになってしまったかのようだ。
普通の高二男子なら、恥ずかしさで身悶えていてもおかしくない。そしてそれは勿論俺にも適用される常識。
家の鍵をかけ、この異色な気分を晴らすために走って駅まで向かった。
中学時代からの親友が二人、毎朝待っていてくれている駅まで。
そこそこ発展した街の駅だけあって、早朝にも関わらず多くの人で賑わっており、改札に向かう人と、駅から出てくる人とで別々の流れができている。
これを逆流しようものなら、満員通勤前で気が立ったサラリーマンに鋭い睨みを効かされてしまうだろう。
紺色のブレザーを身にまとった高校生はあくまでも腰を低く。
だから俺と親友二人は、駅の入り口付近の自動販売機と壁の隙間を待ち合わせポイントにしている。
そしていつも通り、スカートを短くした黒髪ストレートの美人系女子と、黒髪で真面目な秀才イケメンは集合場所で待っていてくれた。
「待たせてごめん、伸明、優香。やっぱり二人とも早いね」
「綾人の遅刻癖にはもう慣れてるから、心配するな」
まだ集合三分前にも関わらず、俺を遅刻魔呼ばわりするイケメン伸明。
気さくでいい奴だけど、真面目な部分が濃すぎて色々と相殺されている気がしなくもない。
「伸明は少し真面目すぎ! それにもうちょっと優しくならないと、もっとお友達減っちゃうよ?」
「いや、そう言う優香こそ毒吐いてるんだが……」
いつも通りの伸明を叱る優香の姿。
人差し指を立てながら注意するそのちょっとした仕草にも、俺の視線は不思議と吸い込まれてしまう。
それが恋心のせいだと言えば簡単だが、はっきりとその気持ちを形にできていない事実も否めない。
伸明という絶対強者が存在するせいか、イマイチ自分に正直になれていないのかもしれないな……
「ん? どうしたの、綾人?」
「ううん、なんでもないなんでもない。じゃあ行こうか?」
「遅刻魔が仕切るn……いって。抓るなよ、優香!」
「一言多い。でも伸明は綾人の事大好きなんだもんね〜?」
「ち、ちが……」
「はいはい。じゃあ行きますよ〜」
いつも俺たちの間に入ってくれる優香を巡って、俺と伸明は一度も争ったことがない。
いや、優香は触れてはいけない部分というべきだろうか。
三人の中で一人でもはぐれ者にされれば、今のような関係は続けられなくなる。
いくら俺に勝算がないのが分かっているとは言え、極小に存在する望みにかけない理由はそれが大きい。
でも言い方を変えれば、そのお陰で優香は伸明と付き合っていないと解釈もできる。
伸明が深刻な病気から奇跡的に回復してからもう一年と少しが経過する。
中学の二年間を入院生活で過ごしていた伸明の方が、今の俺よりも優香との距離が近い事実から目を逸らすことで今は精一杯だ。
しかしこんな暗い思いは今は胸の内にしまっておかなければならない。
改札を通り、ホームに到着して目にした『混雑』という現実に自分の気持ちを紛れ込ませ、有耶無耶にする。
「たまには端っこの車両に乗ってみない?」
先頭を歩いていた優香が振り返りざまにそう提案した。
「別にいいよ。伸明も……って、また歩き読書か」
俺の背後をぴったりとくっついている伸明。
ちょこんと俺の服をつまんで、もう片方の手でしっかりと本を握っている。
盲導犬のように扱われる自分の役割に、「流石に慣れてきた」と思うのは果たしていい事なのだろうか。
そんな俺たちを数歩先から見ていた優香は、状況を察したのか、笑顔を一つ作ってから再び前を向いた。
改札へと続く階段から離れる程に人は減っていく。
そんな主流から脱した俺たちは、数十秒後には賢い変わり者が集うホームの端へと到着した。
黄色い線の上。誰もいなかった列の先頭に並んだのは、優香。
俺と二人で永遠とムカデ競争を続けようとする伸明は、未だに本に夢中だ。
「間も無く〜籠原行きの電車が……」
たまには優香と二人だけで話をしよう。
「そう言えば優香はもうテスト勉強始めた?」
「テストって、中間の?」
「そうそう」
「流石にまだまだ始めないよ〜。だって後一ヶ月くらい余裕が……きゃっ!」
ホームの端にいたにも関わらず、不自然に優香の前を通過したおじさん。
同時にバランスを崩し始める優香。
何があったかはよく見えなかった。だがフラフラと、優香は一歩二歩と線路へと後退していく。
止まれない。誰か止めてくれ、と言わんばかりに伸ばされた華奢な手。
唐突な出来事だったが、なんとか反応した俺はその手を……掴み損ねた。
電車が近いて来る音。ガタガタと、線路が激しく揺れ始める。
優香が……落ちる。俺は何もできなかった。
そんな後悔と絶望が、俺の中での時間をスーパースローにした。
背後から伸びてくる長い腕が、純白な肌の少女の腕をがっちりと捕らえる瞬間もしっかりと目に焼き付けられる程に。
「ったく、大丈夫か、優香?」
「……あ、う、うん。ありがと、伸明」
電車が颯爽と前を走り抜ける音。減速のためのブレーキ音。
そのどちらも俺の耳には入ってこなかった。
静寂にも似た沈黙に埋め尽くされる思考。
死を寸前にした優香の恐怖に震える手を、その後目的の駅までしっかりと握っていたのは、俺ではなく伸明だった。
駅から歩いて十数分。
横断歩道のない車の通りがない路側帯を、ひたすらに歩けば高校まで到着する。
少し元気が復活した優香の背中。伸明が俺の背中を掴んでいる重み。
その両方が再び存在していることが、妙に不思議で仕方なかった。
「もー、綾人。さっきはごめんって」
またさっきと同じように振り返った優香。
その美しい顔に浮かんでいるのは、嘘ではなく真の笑顔だった。
「い、いや、別に俺は……」
「でも、心配してくれてありがと。今度から気をつけるからさ。ね?」
その悪戯に傾げられた小首に、俺は反論する気力を失った。
俺がどうこう言える物でもないのは当然のこと、さっきの出来事は完全にぶつかってきたサラリーマンが悪かった。
ホームの端から改札の方向へと移動しようとしたのは分かるが、せめて後ろから通れば何も起きずに済んだのに……
そんな事をいくら考えたところで、優香には目もくれずに通り過ぎていったおじさんの顔さえ思い出せない。
もう優香に危ない出来事が起こらないように、今からでも列の一番前を歩いた方がいいかもな。
「優香! ちょっと待って!」
「ん? なに?」
呼びかけに答えた優香はまた俺の方に振り返り、後ろ向きで歩き始めた。
いくら交通量が少ないとはいえ、この先には……
「優香!」
嫌な予感がした。
優香があと数歩で突入する曲がり角。
この時間なら車なんて通らない。通ったとしても、下り坂な上にカーブミラーさえ設置されていないこの道でスピードを出す阿呆は居ない。
そんな安全な日常が産んだ慢心が、俺の指の先で激突を起こした。
吹き飛ばされた体。華奢で、すぐに折れてしまいそうな弱々しい女子の体。
コンクリートを擦るトラックの急ブレーキ音と共に響き渡ったのは、優香が地面に叩きつけられる鈍い音。
「ッ⁉︎ 優香っ! おい、綾人、救急車呼べ!」
「……………」
「ったく、俺が呼ぶ。お前は……何もしなくていい」
「…………」
何が起こったかはしっかりと見ていた。ただ理解が出来ない。
目の焦点が合っていないのは自分でも分かる。なのに、真っ直ぐに歩くことすらままならない。
血だらけで倒れる優香に出来る限りの応急処置を施している伸明。
その側で俺は……ただの傍観者と成っていた。
『手術中』
という赤い文字が、気づけば目の前で煌々と光っている。
スマホを取り出し、確認すると優香が事故に遭ってから約七時間が経過していた。
隣には頭を抱えた伸明が座っている。そしてその横には優香のご両親も。
涙を流すご両親の小声以外が存在しないこの空間で、ハッキリとした意識を取り戻し始めた俺は、亡霊のように気配を消すしかなかった。
事故を招いたのは紛れもなく俺。あの時、何故声をかけてしまったのか。俺が声をかけなければ、優香も注意を配っていられたのではないだろうか。
後悔の渦がグルグルと頭の中を回る中、ついに自分の中での重圧が限界を超えそうになった。
「……伸明、俺少し歩いてくる」
「……あぁ」
耐えきれなかった。
自分のやらかしてしまった、『人殺し』という事実に。
いや、まだ優香は死んでいないかも知れない。そう信じたい。
だけど俺の中の誰かが、彼女の死を既に宣告している。
駅のホームにいた時から感じていたあの気配が、父親が亡くなった時に感じたモノに似ていた。
必死に頬の肉を噛み、今にも泣き崩れそうな自分を戒める。
まだ人がいる夕暮れ前の病院内で、比較的空いている自動販売機を見つけたので、そこまで向かった。
ポケットに入っていた小銭入れから、適当な硬化を投入し、適当なボタンを押す。
偶然にも反応した機械は、ブラックの缶コーヒーを吐き出した。
冷たいその缶を拾い、手術室前への帰路につく。
直面したくない現実に自ら立ち向かうのは、これほど足を重たくするものなのだろうか。
いや、これこそが俺の弱さ……せめて、自分の罪くらいは自分で償いたい。
ゆっくり、ゆっくりと、他よりも薄暗い手術室前に戻ったのは日が暮れかけている頃だった。
自分で思っていたよりも、多くの時間が経過している。
最悪のシナリオから必死に逃げようとしている自分がまだ居る事に、心の底から嫌悪感が込み上げてきた。
そして戻った時には赤いランプはすっかり消えており、俺は罪人として一番大事な場面に立ち会えなかった。
間に合わなかったのは、今日でもう三度目だ……
「残念ですが……」
暗い廊下の奥で三人は涙を流し、医師は申し訳なさそうに頭を下げていた。
本来なら俺がするべき謝罪。長時間全力で優香の命を救おうとした外科医が謝る事ではない。
命を奪ったのは俺。御両親から、伸明から優香を攫った死神は俺。
果てしなく続きそうな脱力感。手から滑り落ちる缶コーヒー。
その音に気が付いた伸明は、憎しみを込めた眼差しを俺に向けてきた。
口パクで、「お前のせいだ」と。
口は悪いが冷静で、誰にも責任転嫁をしない伸明でも、俺のやってしまった事を許そうとはしない。
「君は、何を支払える?」
唐突に背後から聞こえた女の子の声。
振り返るが誰も居らず、俺は何故か寂れた神社の前に立っていた。
冬に吹くような冷たい風に揺れた本坪鈴が、ガランガランと不気味な音を奏でている。
もう一度振り返っても、元いた病院には戻れない。
「君は、何を支払える?」
また同じ声が、背後から俺に問いかけてきた。
さっき見渡した時には、誰もいなかった筈なのに。
だが恐る恐る視界を回転させると、朽ち果てた賽銭箱の上に白い体毛の細い猫が座っていた。
「君は、何を支払える?」
声は白猫から発せられていた。スピーカなどではなく、しっかりと猫の喉元を震わせてでた音。
そんな奇妙な状況に置かれている俺は、「何に対しての対価か」と問いかけるまでもなく、何故かこの喋る白猫の意思を理解していた。
「なんでも支払う。俺の全てを代償にする。だから……だから優香を……」
そこまで口にすると、激しい暴風が吹き荒れ、地面に散乱していた枯葉が舞い上がり、本坪鈴が地面に落下した。
肝心の白猫の姿はそこにはなく、先程とは比べ物にならないくらい真新しい賽銭箱だけが残っている。
そんな奇妙な空間の中で、いなくなった筈の白猫の声だけが轟いた。
「君の願いは神に受け入れられた。じきに真白優香の霊魂は元に戻されるであろう。また会えてよかったよ……根黒綾人」
風が吹き止むと同時に、俺は薄暗い病院へと戻っていた。
不思議な体験。しかしとある吉報が、十数メートル先で少女の死を悔やんでいる三人に灯りを灯した。
「せ、先生! 真白さんの心肺が……!」
手術室から顔を出したもう一人の外科医。
頭を下げていた外科医が慌てて戻ると、それから十数分もせずに優香の容態は安定した。
原因不明の火事で奪われた俺の命と、関係のない俺の母親の命。そして、残り九十九人の命を代償として。