7 珍客、来たれり
どうやら今日は、ただ寒いだけで普通に閑古鳥らしい。
何枚かそれらしい絵を描き散らしたが、お客さんは一向に来なかった。
「まぁ、こんな日もあるよね……」
べつに、これに関しては寂しいわけではない。多分。
あっさりと変化に順応した天音は、たまにはいいか――と、人ではないものを描くことにした。和紙は八つ切り。
底冷えする外と、暖かい家の中からの連想。そっと、条件反射で目を瞑る。
(ねこ、かな。大きさは中くらい。成猫になったばかりの。色は白くて、目は金色。毛並みはつやつやで、首に鈴がついてる……)
ちりん。
「え?」
何の気配もしなかったことに、天音は少し、ぞっとした。烏なら、必ず声をかけてくるから――
おそるおそる音の方向を見ると、いつの間にか、思い浮かべたままの猫がいる。火鉢のそばだ。
愛らしい。
……怖いことは、ないのかも知れない。天音は、おそるおそる呼び掛けた。
「にゃーあ、おいで。お前を絵に描いてみたいの」
そっと、筆を持たぬ左手を伸ばす。
(しまった。猫なんだから、煮干しでもあれば良かったかな……)
そう思ったとき。
【要らぬ。我は猫ではない】
頭に直接、男とも女ともつかぬ声が響いた。
猫の口はぴくりとも動かず、にゃう、とも言わなかった。うそ、だって―――!
【この姿は、たまたまお前が心に描いたから当てはめられた。本来の我の姿ではない――描きたいなら、さっさと描け】
言うだけ言って、すたすたと向かってくる。肉球だから音がしない。描き散らした絵を踏んだときだけ、かさりと幽かな足音がした。
白猫に見える“何か”は、八つ切りの白い和紙の前で立ち止まる。ちりん、と再び鈴が鳴った。
行儀よく、すました顔つきで、つんとしている。うん、可愛い……ではなくて。
「あの、お訊きして良いですか?」
【中身によるな】
ですよね…と思いつつ、手は筆と墨、金粉を溶いたものを用意する。
「貴方の、本来の姿を知りたいのですが」
白猫は、やたら人間くさい仕草で、フン! と、鼻を鳴らした。金色の目には呆れたような光が浮かんでいる。
【教えられぬ。本来の姿は真の名と同じ。容易に、わけのわからん小娘に教えられるものか】
……ですよね…と、天音は先程と同じ台詞を胸中で繰り返した。
墨の側に、水皿も置く。あとで、薄墨で濃淡をつけたい。黒と灰と、白と金――なかなか、綺麗になりそうだ。
状況を忘れて、天音はわくわくした。
「あの。では、せめて欠片を」
【……欠片?】
猫は、訝しそうにちらりと瞬き、小首を傾げ、耳をぴくん、と動かした。
なにこれ。可愛い。もう、このままでいいんじゃない?
【おい、いいわけなかろう。とりあえず、お前が写しとれば、この猫の姿からは解放されるのだ。――で、欠片とは何だ?】
(!?)
今まで、本能でこなしてきたことを、明らかな言葉で置き換えられた。そう、感じた。
天音はなんとなく、この猫ともう少し会話を続けたくなった。
「……欠片とは、そうですね。本体は教えて頂かなくとも結構です。その、端々を教えてもらいたいのです。その方が、いい仕上がりになると思うので」
じっと金色の獣眼を覗いた。
きらきらとして、琥珀のよう。きっと、本体と同じ色のはず。
猫は、やや反って上から天音を見下すような視線を寄越した。
偉そうだけど、これはこれで、あり。
【――面妖な女子よの。よかろう。確かに我はこれと、色合いは同じ】
ふんふん。
天音は、目の前の猫ではなく、心に浮かぶ、ひとりの精霊を描きはじめた。化生より、更に一段上の自然の司――おそらく、この気候は彼のせい――ん? 彼、だな。だって凄く偉そう。柔らかさの欠片もない。
【……おい、ちょっと待て】
肌は白。髪も長く、無造作に伸ばした白。着物も白。瞳が金で、獣眼。瞳孔の黒が綺麗に映えて―――
【待たぬか。こら】
年のころは、勿論成人。烏とおなじくらいかな。体格は……長身。細いだけとか論外。やたら色気はありそうだけど、絶対冷たい美貌だ。だって―――
【何だ、烏とやらは……って、そうではない。お前、ひとの話を聞かぬか!】
あ、やっぱり人の形なんだ……ふんふん。よし。
――天音は猫のいうことは、一切聞かなかった。
やがて、画竜点睛がごとく、最後の色彩、金を乗せる。両の瞳と、なぜか気に入った、首の鈴飾り。そうだな、名付けるなら、りんりんと鈴が鳴るような、きらめく雪の結晶を思わせる……
「出来た……! どうです? 『綺羅』。こんな仕上がりで……ん?」
――ゆらり、といつもと違う層の空気が揺らいだ。空の高いところのような、さらりとした感触のつむじ風が立ち上ぼる。目を開けると――
「お、前という、奴は……!!」
愛らしい猫は、どこにもいなかった。
目の前にいるのは、先ほど描いた雪の結晶の、男性型の精霊。
天音は会心の出来映えに、にっこりと微笑んだ。
「あぁ、やっぱり、その姿のほうが良く似合う。ね? 『綺羅』」
白皙の美青年は、ふるふると震えながら目を瞑り、一通り震えて力を溜めたあと――雷のような大音声を発した。
「だれが! 本来の姿に現し身を与えて、仮の名まで与えろと言ったぁぁぁーーーっ!!」
カッ……
ド、ドーーーーーーン……!!!
……文字通り、戸を閉めきった向こう側。庭の柿の木に極細だが強い力を秘めた雷が一本、落ちた。