5 烏と、いつもと違う“朝”
山間に立ち込める霧が、湖のほとりの一軒家にもかかっている。
カラカラ……と、玄関の引き戸を開けて外を窺った天音は、ほぅ、と息を吐いた。
心持ち、肌寒い。
(いつにない変化……気温? これは目に見えないから、私のせいとも言い切れない)
「さっぶ! 寒いなー、天音。なに? ここって時間はないのに季節はあんの?」
唐突に、底抜けに明るい声が頭上から聞こえた。正確には、すぐ後ろから。
「! 烏…急に話しかける癖、どうにかならない? 気配消しすぎ。足音くらいさせてよ」
少女の形のよい頭に自らの顎を乗せ、青年が背後から同じように外を覗いている。
左手は引き戸に添えられ、右手は少女を後ろから抱え込むように――実際、すっぽりと収まっている。
「そう? あんまり意識してなかったな。でも俺、カラスだから。喋ること以外はけっこう、物静かだと思うんだよね」
にこ、と笑んだ顔が近い。
自称カラスの青年は、右手で少女を家の中に振り向かせると、左手で然り気なく引き戸を閉めた。
そのまま近づいて――来たところを、あわや、手のひらで遮る。
「――大丈夫。カラスはとっても賢いから、ほんのちょっと気を付けてくれるだけでいいの。それだけで、私は心の平安が得られるんだよ。あと、一々近い。離れて……う…」
不覚。手のひらを舐められた。
「ご馳走さま」
「……ーーーからすっ! もう、ねぐらに戻りなよ! 兄弟とか師匠とか、いるんじゃないの?」
にやり、と口許を歪めた烏に、天音は思わず赤面した。
青年は、少女のそれとない抵抗も含めて、どんなことであれ楽しんでいる。
カラスの化生――物の怪。それが、かれの正体ではないかと天音は少し、踏み込んだ。
たいてい、化生の類いは正体を見破られることを嫌がるはずだが……
「うん? いるけど、俺はまだ守るべきねぐらを定めてない。お前がなってくれると嬉しいんだけど」
烏は、動じなかった。
しかも更に踏み込んだ。
けれど――
(はんぶん嘘だな)
天音は、そう感じた。
烏はこう見えて優しい。いちど世話をすると決めたら、とても細やかな気遣いを見せてくれる。
それは、彼自身が当然のように、そんな気遣いを受けて育ったからだと察した。
ねぐらを定めぬ宿無しカラスには凡そ不似合いな美徳を、烏はたくさん備えている。
(百歩譲って、他の兄弟に任せられると、かれが勝手に思ってるだけ…とか)
―――言葉の後半は、聞き流した。
「わるいけど、嘘つきカラスのねぐらになる気は無いよ。あんたのことは好きだけど、筋を通さないのは、きらい」
天音の拒絶に、烏はなんとも複雑そうな表情になる。
「お前、鋭いくせに肝心のとこは鈍いよな…」
「うるさい。いいから、行きなよ。
……今日の“朝”は、いつもと違うの。変わったお客さんの前触れかも知れない――お願い、行って。このまま」
最初は、常の天音だったが、言葉を重ねるうちに素の彼女となる。
たった一人でこの場所と向き合ってきた少女には、知識はあっても記憶がない。
誰なのか、何故なのか。問い続けるのはとても疲れるので、淡々と過ごしているものの、無いはずの時間のなかで、薄れてしまったものも多い。
本当は折れないように、精一杯立っているだけ。なのに、彼女は本来、此処にいなかったはずの異分子――闖入者である青年まで守ろうとしている。
烏は、はぁ……とため息を吐いた。
「…わかった。でも、無理すんな。お前なら、その気になれば俺のことも呼べるだろ。ちゃんと呼べよ?
―――――またな、天音。名前忘れんなよ」
烏の目は、黒瞳だが僅かに紅を帯びている。
間近で覗き込まれた天音は、つい、びくっと肩を揺らした。
――が、烏は、彼女の前髪をやさしく退けた。それから顔を寄せる。
すばやく、触れるだけの温もりを天音の白い額に落とした青年は「じゃ」と軽い挨拶を残して家を出た。
閉じた玄関の引き戸の向こう、羽音が聴こえた。