4 烏と“夜”※
(たぶん、望めばここにも昼と夜は生まれるのかもしれない)
寂しくないと言えば、嘘になるが――少女はそれを望まなかった。何しろここには自分しかいない。
忙しなく繰り返される昼夜の営みは、ここには似合わない。
「天音」
――それが、自分を指す名だと気づくまで、たっぷり三秒。
「なに? 烏」
ぼうっとした表情の天音には、どこか危うい雰囲気がある。彼女の定めた“朝”と“夜”は、そのまま彼女の気力の状態を表しているのでは…と、彼は思った。少し、心配になる。
「…泊まってってやろうか?」
「冗談でしょ。それ、飲んだら帰って」
けんもほろろ、である。
しかし烏はめげなかった。
「泊まるだけって言ってんだろ。警戒してんの? 天音ちゃん。おーい」
「……やっぱなし。もう飲まなくていいわ、帰って」
「えー、ご無体な。謝るから、機嫌直せって」
愉しげに、目を細めて笑う烏はそこそこ珍しい。天音は、黒曜石の瞳で彼をじっと見つめた。
「……べつに、警戒はしていない。得体のしれない化生の類いだけど、あんたはちゃんと私を見てくれてる。ただ……」
「ただ?」
ふと、視線を外した隙に距離を詰められたのか、ずいぶんと近くに烏の整った顔があった。右手でほうじ茶の入った茶器を持ったまま、左手は天音の座布団の上――背中のうしろにある。
(慌てたら、余計に喜ばせるだけな気がする…)
天音は、できるだけ淡々と続きを話した。
目線だけは、逆の方向に流してしまう。
「…あいつらが、いっぱいこの辺りを通るから。私だけなら自己責任だけど、あんたの命まで背負うのは怖いの。まいに…――」
毎日、と言おうとしたのに、唇を塞がれた。
――いつも不遜な態度でひとを困らせるくせに、こういう時、烏はひどく優しい。正直、慣れない。
少し、合わせた唇を柔らかく食んだだけで、温かな感触は離れていった。知らず、閉じていた瞼を上げると、まだ至近距離に顔がある。右手の茶器は既にない。
さっきまで触れあっていた天音の唇を、かれは右手の親指でゆっくりとなぞった。他の指は少女の細い頤にかけている。
烏は、はぁ…と、何かをもて余すような息を吐いて、再度、噛むように唇を合わせた。今度は、もう少し深く。
「……これでも、偽れるか? たまには楽になってもいいだろ。俺が来たときくらい、寄りかかればいい」
重ねた唇の隙間から、つよく言われた。
――こうなるともう、抗えない。
あとはただ、身を任せた。
* * *
感覚でいう、深夜。
轟……っ! と、嵐のような音がする。
遠くで何かが低く咆哮するような、甲高く咽びなくような、ひどく嫌な“声”が鳴り響いた。
あまりの大音声に少し遅れて、ビリビリ……と、穏やかではない震動が壁と床を伝う。
家を取り巻き、叩きつける瀑布のように、うねる真っ黒な気配。ぴくりと身体を身じろぎさせた天音は、急な覚醒のもたらす不快さに、いつの間にか自分が寝入っていたことを知った。
ハッ……と、眠る前を思い出し、半身を起こして側にいるはずの青年を呼ぶ。
「烏?」
「……ん、どうした?」
暗い。
天音は素早く確認した。ここは普段、天音が寝ている六畳間。今は二人なわけだが……
鎧戸は、閉めてくれたようだ。最初の咆哮と震動はきつかったが、あとの音は遠い。
「暖簾と看板は?」と訊くとすぐ、「土間に入れた」と答えられた。
少女は、ようやく力を抜いて、再び想いびとの隣に身を横たえた。――相変わらず轟々と、外はうるさいが。
烏は、そんな彼女を面白そうに見ている。
「大丈夫。寝てろよ」と、むき出しになった白く滑らかな曲線を描く肩に、布団を掛けてくれた。
――『あいつら』と呼んだ天音自身も、彼らがどんな存在なのか、具体的には知らない。
ただ、見てはいけないものの一つなのだと理解している。ゆえに、いつも“夜”は何者も招かぬよう、厳重に戸締まりをして、息を潜めているのだが。
(参ったな……甘えるわけには、いかないのに。この烏と来たら本当、ひとの懐に入るのが上手い……)
少女は再び、うつらうつらと眠りに落ちた。
“朝”だと思える、そのときまで。
かれと過ごす時間を、天音は切り離せずにいる。
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※烏と天音のイメージはこちら。