3 満員御礼(後)
花魁は少女の手元の和紙を、一心に眺めている。
だんだんと浮かび上がる、濃淡の墨の線で描かれる一人の女性――それが自分なのだと気づいたとき、彼女は驚きに目をみはった。
少女は廊下に座して、いまだに絵を凝視している。
(手元が寂しいな……そう、簪だ。藤の意匠の、漆塗り。誰かから贈ってもらったものを、差せないでいるような……)
思うと同時に手は動いた。
三味線の撥のような形。
扇状に広がった部分には螺鈿と金箔で、ささやかながら藤の装飾が施されている。光を吸い込む黒漆の光沢。大人しいけれど、品のよいもの。
しかし――絵の女性の手もとに、無事に簪を描き終えた刹那。
天音の前髪の生え際あたりで、ちりちりと違和感が生じた。……だめだ。よくない。
察した少女の声音は素早く、鋭かった。
「烏! 目をとじて、手を離して。今すぐ!」
「! …すまん。わかった」
烏は、即座に従う。
天音も視線は上げない。
腹の底がうねるような違和感がする。
しばらく、それはちりちりと天音の精神を焦がしたが――やがて薄まり、いつも以上に濃厚な、どろりと空気が溶け出す気配を感じさせた。……思わず身体が強ばる。ぎゅっと、目を瞑る。
――――どれくらい、経ったろうか。
それが通りすぎるのを、指一本動かさずに遣り過ごした天音は――ようやく目を開いて、そうっ…と視線を上げた。
目の前で、連ねた座布団に横座りしているのは、絵のとおり楚々とした、うつくしい女性。花魁だった頃よりも幾分か若返っている。
藤色の着物、控えめな結い髪。手には藤の意匠の漆のかんざし。足の傷も、ない。
「どう?お姉さん」
問いかけた少女に、花魁だった美女は――ふぅわりと、幸せそうな微笑みを浮かべた。
「ほんま、おおきに……そう。うちは、こんなんやった。昔は…」
す、と伏せた睫毛が、白粉をせずとも滑らかな頬に影を落とす。
彼女は手に握ったかんざしを、とても大事そうに――胸の前で、祈るように抱きしめていた。
天音はほうっと息を吐いて、緊張を解く。
烏も安堵の表情を浮かべて、こちらを見た。
――ちょっとは怖い思いをしたのだろう。ふてぶてしい彼には良い薬だと、少女はあえて無視をする。
「よかったです。あの…うち、ほんとは茶屋なんですよ。何か、お飲みになります?」
天音はにこっと笑って、本業を開始した。
* * *
「へぇ、島原の」
「そうなんよ。江戸の吉原、京の島原いうてな、遊郭の二大聖地や。他にもぎょうさん、あんねんけどな。殿方はほんま、物好きや」
流れるような京言葉。彼女は見た目よりもずいぶん、饒舌だった。
けれど、美女が楽しそうに語らうのを見るのは、いい。
天音は、今はちゃんと座布団に座っている。
縁側で烏と天音、二人で美女を挟む形だ。
「そう? 物好きかと問われたら、そりゃ好きだよ。男はみーんな、そうだろうね」
あっけらかんと、烏は笑った。
美女も、ふふふと笑っている。
彼女の膝には漆のかんざしと、両手で支えた白磁の湯呑み。中には、澄んだ緑の煎茶があと少し、残っている。――…香りのよい煎茶をご所望だったから。
「うちな…好いた人がおってんけど、お家が傾いてしもぉて。珍しゅうもない話や。島原に売られてん。けど…うちを身請けしたい言わはるお大尽に、そのぅ……ばれてしもぅて」
何が、とは聞かないでおく。
烏もそこは察したのか、黙り込んだ。
「座敷で切られそうになったから逃げてんけど、廓の裏で追いつかれてな。足、やられて……大事にしてた簪も取られて、井戸に放り捨てられたんや。うち、カッとなって何も考えんとな。それ、拾いたくて………つい、入ってしもてん」
「…井戸に?」
「そう。自分で。阿呆やろ?」
「いや、阿呆というか…つい?」
「そ。勢い、やな」
烏と天音は、同時に目を丸くした。
なんというか、凄絶なのだが…
「ずいぶんと、思いきったんですね」
そう、それ。
天音は、烏の言葉に無言で頷いた。
美女は、やはり、ふふっと笑っている。
「うん。まぁ…痛い思いも、辛いことも、悔しいことも…あったけど。これだけは譲れんかってん。意地やな、京女の」
ふと、思い出す。
絵を描く前に、天音の胸に浮かんだ“武家の子女のような”印象。
それを、美女は確かに備えていた。――剛い。
「あぁ、確か、気が強いので有名ですもんね。京の女のひと。そっかぁ…」
天音は、納得した。そういうことなら……
かさり、と先ほどの絵を渡す。
「お相手の方、気になります?」
絵を受け取りながら、美女は一瞬無防備な表情をした。
視線は絵に固定されているが、多分見えていない。
――それでも空になった白磁の湯呑みを、代わりに、少女へ差し出した。
「そりゃ、気になるけど…」
「結ばれてたら、辿り着けるし、淡い縁なら消えてます。お姉さんは、もう充分がんばりましたよ。
……それ、差しあげます。忘れそうになっても、きっと思い出せるから」
「えぇの? えらい…おおきに…! せやな。思うところにおらんかったら、探いて、しばいたったら、えぇねんな。ほんま…ごめんな。有り難う、お嬢ちゃん――美味しかった。ごちそうさま…」
美女は、言葉のすべてを言い終わるまで、ずっと姿を維持していたが―――やがて、最後に満たされた微笑みを零すと、ふと景色に溶けた。
自然と、烏と目が合う。
「…なによ」
「いや? 何も?」
にやにやと笑っている。むかつく。
天音は、美女が残した湯呑みと絵を持って、すっくと立ち上がった。
ちらり、とまだ座る男に視線を流す。
「烏、まだいる? あんたが今日は最後のお客だと思う。店じまいしたいから、さっさと注文して」
言うだけ言って、ふいっと湖のほうを向く少女。
烏と呼ばれた青年は、右足を立て膝にすると姿勢を崩し、気配を寛がせた。
「素直じゃねーな」と、呟きながら。
しまった。そんなにきちんと京言葉を勉強してませんでした…!
本場の方がいらしたら、誤字報告していただけると……原型がなくなりそうですね。ほんと、すみません。ふんわり設定で…