千倍返しの約束を※
「……で? それが、そんときの絵なわけ?」
「あぁ」
かさり。
不思議なことに――その和紙は消えずに残った。人の世に属するものではない。あのとき、彼女に貸し付けた“力”が込められているからかもしれない。
ねぐらとする広大な山林。その一本杉の上で、烏は枝に腰掛けている。片膝を立てる癖は変わらない。修験者姿だ。背に大きな黒羽を出している。
傍らで、器用に一本歯の下駄で枝を踏みしめる少年――こちらも修験者姿。烏によく似ている――は、ふふん、と斜め上から兄者と仰ぐ存在を見下した。
「ほんっと、どーしようもねぇ女に引っ掛かってやんの。兄者のばーか。とんま」
「うるっせえ。突き落とすぞ」
「飛べるけど?」
「わかってる。綺羅に羽だけ凍らせてもらう。いい考えだろ?」
うへぇ……、と、よほど苦いものでも口にしたように、少年は顔をしかめた。
「勘弁してくれよ」と、ぼそぼそ反論している。
烏はそれを綺麗に聞き流した。すっと視線を落とす。膝の上。広げた和紙に。
――――天音がいた。
年の頃は、烏とともに暮らしていた乙女の姿。十八、九ほどの。
崩した着流し姿の自分に寄り添い、はにかんだ笑みを浮かべている。
自分も。
(……こんちくしょう)
今の自分は、ただただ静かだ。
あれから半世紀ほど、むしゃくしゃして暴れ回った。そこら辺の妖どもに喧嘩を吹っ掛け、勘当寸前だったのだ。べつに、望むところだったが。
「……あんまりさ、自棄になんなよ。杜の守も仰ってたじゃねぇか。『そこまで好いた女なら次こそ連れてこい』って。――『清い身のままなら、嫁として認めてもいい』って」
しょうがねぇ兄者だな、と呟く声には間違いなく肉親の情が宿っており、烏はつい苦笑する。
「末の。お前に慰められるようじゃ俺も地に落ちてるよな。……次の総領、お前がなれよ」
「やだよ」
即答。烏と末弟との、何度となく行われたやり取り。わかりきっていたし、諦めもついている。
――しかし。
きらり、と山並みの向こうに視線を投げ掛けた烏の黒瞳が紅の光を帯びた。
「多分だけどさ。見つけたんだ。……あいつ。また、人の子として生まれてる」
「! ……まじ、いつ? どこで? 近辺?? ちゃんと女か??」
「女だよ。今、六歳」
「……うわぁ……」
末弟は何とも言えない表情になった。
「知ってる? 兄者。最近の人の世でさ、『ろりこん』て……――」
「煩い黙れ」
「あ、はい」
烏の目が据わっている。膝の上の和紙を丁寧に折り畳み、再び懐へと仕舞った。
傍らの少年は、これまた器用に一本歯の下駄を履いたまま、しゃがみこんでいる。
ぷるぷると震える背中に黒羽。顔をすっかり覆う様子から察するに――中々つらそうだ。
烏は、思いっきり横目で末弟を睨みつけた。
「笑ってろよ、くそガキ。番も見つけてねぇくせに」
「ぶっ……ふはっ! 無理無理。こんな、たった一人の人間の女に振り回された兄者をずーっと見てんのにさ、どうやって番なんか持つ気になれんだよ。おれは要らない。せいぜい―――」
「? 何だよ」
「何でもない」
「?」
おかしな奴だな、と微笑う烏に、少年も片頬を緩ませる。
その、どこか大人びた表情で。心の内で呟いた。
――――いつか。
いつか、無事に約束を果たして。姉ちゃんを迎えに行けたなら。そんで、うまいこと子宝にも恵まれたなら。
そんときは、子どもと子々孫々、厳重に守護してやるよと今は言わない。言えるわけがない。
大荒れに荒れていた長兄の姿は、まだ記憶に新しい。
それほどの深い疵なのだ。杜の主様が調伏に乗り出すほどまでの。
(さすがに怖かったもんな……あのときは。山野に林、全部総崩れ起こすかと思ったぜ)
まったく、と。
溢した声はやはり、聞き流された。
見はるかす地平の先。その何処かで生まれた『天音』だった娘に。
烏のまなざしはずっと、注がれている。
〈了〉




