表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あわいさの茶屋  作者: 汐の音
肆 夜明け前、あがくもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

34/36

33 最後のお客さん

 和紙は八ツ切り。さほど広くはない。その狭さに、しん……と目を閉じ、己をかさね合わせる。


 手のなかには馴染んだ手触り。

 するりと温もりを移す細筆は()()があり、短めの毛。丁寧に束ねられた先端は細部を描き込むのにちょうどいい。

 浸す墨は濃い。が、あくまでもさらりと。ほんのりと重みを感じる程度にとどめる。


 眼裡(まなうら)に浮かぶ少年がいる。

 (えが)きたいのはかれだ。

 まだ(わたし)が小さかった頃のあの人。おそらくは歪められる前の、かれ自身に。


 (どうか、戻って)


 形は(たが)えど、本当は好んでいた。

 その才を。腕を。さばさばとした空気を。


 あの日、午睡から目覚めたわたしの手を引っ張ってくれた。わがままを苦笑で受け入れてくれた。

 時おり、くすぐったくなるほど優しいまなざしも注いでくれた。兄のように。


「戻って…………総史さん。()()()()()()()()


 瞳に雫が溜まる。

 描き終えた絵の輪郭――白と黒の境界が滲んでぼやける。

 ぽたりと落ちた先は、厚手の和紙の左隅。

 そこからふいに光が生じた。


「!」


 泣いた本人がまず吃驚(びっくり)する。

 音もなく広がり、蛍のように立ち(のぼ)る金の粒子。それらはあざやかに和紙を包み、辺りの薄闇を照らす。

 天音の後ろで眠る(からす)のやたらと綺麗な横顔も。その向こうの屏風も四角い行灯(あんどん)も全部。


 金の光で満ちた十二畳間――その中心に。

 髪の先まで光をまとう少年が一人、佇んでいた。




   *   *   *




「……誰? あんた」


 いかにも声変わりの途中。ちょっと無理して低音を意識するような幼さに、少女は微笑(わら)った。


「天音だよ」


「ふうん」


 一見の了承。しかし、どこか納得しかねるようにじろじろと眺める。

 やがて、口をへの字にした。


「似てる。お嬢に」


「そう?」


「うん。おれ、絵で身を立てたくて山奥の月宵庵(げっしょうあん)に弟子入りしたんだ。そこのお嬢さん。……澪さんっていうんだけど」


「けど?」


 座っていた天音は、よいしょと膝の横に指を添え、立ち上がった。


 あの頃すらりと大きく、いかにも頼れる兄貴分と感じたかれは、同年代として正面に立つと驚くほど目線が変わらない。


 長く黒い睫毛に彩られた、ひそやかな金のまなざし。

 今や亡者としても規格外な存在となった彼女は、喚び出された総史の目に『澪』として映らなかったらしい。

 だからだろうか。明け透けに思いを語り始める。


「……まだ九歳なのにさ。すげぇ上手いんだよ。絵。徒弟の中じゃずば抜けてる。思いきりが良いっていうか……筆運びに迷いがない。まるで、最初からそこに()()()()()()()()()()みたいな。それで、紙なのに生きてるみたいなんだ。師匠は全然見ようともしないけど……勿体ないと思う。

 おれも、うかうかしてられない。もっと巧くならないと――お嬢は可愛いし好きだけど悔しいから。負けたくないんだ」


「!!!」



 ずき、と沈むように胸が痛んだ。思わず両手で押さえる。……息が止まった。

 不意打ちだ。再び目が潤む。


 ――――総史は。

 あの頃の『澪』の寂寥(せきりょう)を見抜いていた。


 絵が好き。紙と筆が好き。父上のように大きな紙に、思うまま描いてみたい。

 色んなところへ行きたい。さまざまなものを目に焼きつけてもっと(えが)きたい。

 欲をいえば娘として。描くことを渇望するものの一人として欠片(かけら)でもいい。認めてほしい。


 「見て」ほしかったのだ。わたし自身を。



 堪らず目を覆い、しずかに慟哭する少女を、少年姿の総史が気遣わしげに覗き込んだ。


「……どうした。大丈夫か?」


「うん。もう平気。もう大丈夫」


 こくこくと、繰り返し頷く。

 かれは――(こじ)らせて変容するまでは、わかってくれていた。

 掛け違えた(ぼたん)のようにひょっとしたら、想い合えていたのかもしれない。或いは好敵手として。

 できれば、後者でありたかったけれど。


「っ……ふぅ……」


 嗚咽の合間にため息が一つ、こぼれる。

 ぐいっと手の甲で涙を拭きとり、顔を上げた。泣いてばかりの目は腫れぼったい。

 が、にこりと笑む。


「許してあげる。総史さん」


「!」



 途端に、きらきらと輝きが増す。静謐な白じゃない。あたたかな金色。―――今は遠い、お陽さまの色だ。昇りたての朝日のように、心に届くまぶしさ。


 (冬の白。旭の金色……?)


 すとん、と腑に落ちた。

 そうか、綺羅(きら)は―――……と。


 ゆっくりと瞬きを一つ。

 瞳に“力”を込め、改めてかれを見た。



「行って、総史さん。わかるでしょ? もう行けるはず。()()()()()()()()()


「み……お?」


 瞬間、くしゃりと総史の表情(かお)が歪んだ。歪んで泣く。呆気ないほどの潔さで、堰を切ったかのように。


「ごめ……っ……ごめん! おれ、お前が好きで……なのに許せなくて。どうにもできなかったんだ。全部、全部手に入れたかった。お前のこと、何もかもぐちゃぐちゃにしてやりたかった」


「してたじゃない」


 眉をひそめる。

 つきん、と刺すような痛みににべもなく言い放つ。――これくらいは、いいでしょう?


 案の定、総史は俯いた。唇を噛み、腕を両脇に垂らして皺が寄るほど矢絣(やがすり)の柄の着物を握りしめている。

 固く瞑った目許に漂うのは、闇に似た深い悔恨の色。

 ――ほんの一滴、狂気の(くら)さと甘やかさも忍ばせて。


 (もうわかるよ。あなたは……あなたの愛情は受け止めるには、並大抵じゃない覚悟が要る)


 たとえ、返せずとも。


 『澪』はそのことに気づけず、見極められなかった。だから殺されてしまったんだ。


 天音は、すぅっと息を吸った。そのまま一息に、胸に去来した真実を告げる。


「もっと早くに……向かい合うべきだった。あなたに、生きてる私の声が届くうちに。

 信じてた。あなたの絵に一目置いてた。一緒に腕を磨き合える年の離れた友人でいたかった。父から夫婦(めおと)になるなら誰がいい? と問われて総史さんと答えたのは私よ。知らなかったでしょ?」


「う、そだ」


 信じられない面持ちで目をみひらく総史に、天音が泣きそうな顔で微笑みかける。


「ほんとよ」


 ふるふる、と幼子(おさなご)のようにかれは首を横に振った。

 胸の痛みを(はなむけ)に、あわいさの茶屋の店主はささやく。


「――行って。裁けるのはあなた自身。私は、あなたが喜ぶ甘い言葉なんて吐けない。だから……」


 あり得たかもしれない、穏やかな時間との決別。きっぱりと言い切る。


「さよなら。総史さん」


「! ~~……ッ!!」



 何ごとか叫ぶかれの声は届かない。透明な壁一枚を隔てた向こう側だ。

 これまで幾度となく迎えた“お客さん”達と同じように姿が霞む。空気に溶けてゆく。


 ただ、まばゆい光とともに。

 かれは『澪』だった天音の痛みを抱えたまま、集約する金色の粒となって(つい)えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 最新話まで追いつきました。 なんていうか…素晴らしいとしか言いようのない独特の世界観ですね。 ホラーというのもファンタジーというのともちょっと違う。 異世界?だけどテイスト、時代が『和』な…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ