33 最後のお客さん
和紙は八ツ切り。さほど広くはない。その狭さに、しん……と目を閉じ、己をかさね合わせる。
手のなかには馴染んだ手触り。
するりと温もりを移す細筆はこしがあり、短めの毛。丁寧に束ねられた先端は細部を描き込むのにちょうどいい。
浸す墨は濃い。が、あくまでもさらりと。ほんのりと重みを感じる程度にとどめる。
眼裡に浮かぶ少年がいる。
描きたいのはかれだ。
まだ澪が小さかった頃のあの人。おそらくは歪められる前の、かれ自身に。
(どうか、戻って)
形は違えど、本当は好んでいた。
その才を。腕を。さばさばとした空気を。
あの日、午睡から目覚めたわたしの手を引っ張ってくれた。わがままを苦笑で受け入れてくれた。
時おり、くすぐったくなるほど優しいまなざしも注いでくれた。兄のように。
「戻って…………総史さん。あなたに、会いたい」
瞳に雫が溜まる。
描き終えた絵の輪郭――白と黒の境界が滲んでぼやける。
ぽたりと落ちた先は、厚手の和紙の左隅。
そこからふいに光が生じた。
「!」
泣いた本人がまず吃驚する。
音もなく広がり、蛍のように立ち上る金の粒子。それらはあざやかに和紙を包み、辺りの薄闇を照らす。
天音の後ろで眠る烏のやたらと綺麗な横顔も。その向こうの屏風も四角い行灯も全部。
金の光で満ちた十二畳間――その中心に。
髪の先まで光をまとう少年が一人、佇んでいた。
* * *
「……誰? あんた」
いかにも声変わりの途中。ちょっと無理して低音を意識するような幼さに、少女は微笑った。
「天音だよ」
「ふうん」
一見の了承。しかし、どこか納得しかねるようにじろじろと眺める。
やがて、口をへの字にした。
「似てる。お嬢に」
「そう?」
「うん。おれ、絵で身を立てたくて山奥の月宵庵に弟子入りしたんだ。そこのお嬢さん。……澪さんっていうんだけど」
「けど?」
座っていた天音は、よいしょと膝の横に指を添え、立ち上がった。
あの頃すらりと大きく、いかにも頼れる兄貴分と感じたかれは、同年代として正面に立つと驚くほど目線が変わらない。
長く黒い睫毛に彩られた、ひそやかな金のまなざし。
今や亡者としても規格外な存在となった彼女は、喚び出された総史の目に『澪』として映らなかったらしい。
だからだろうか。明け透けに思いを語り始める。
「……まだ九歳なのにさ。すげぇ上手いんだよ。絵。徒弟の中じゃずば抜けてる。思いきりが良いっていうか……筆運びに迷いがない。まるで、最初からそこに描くべき絵が視えてるみたいな。それで、紙なのに生きてるみたいなんだ。師匠は全然見ようともしないけど……勿体ないと思う。
おれも、うかうかしてられない。もっと巧くならないと――お嬢は可愛いし好きだけど悔しいから。負けたくないんだ」
「!!!」
ずき、と沈むように胸が痛んだ。思わず両手で押さえる。……息が止まった。
不意打ちだ。再び目が潤む。
――――総史は。
あの頃の『澪』の寂寥を見抜いていた。
絵が好き。紙と筆が好き。父上のように大きな紙に、思うまま描いてみたい。
色んなところへ行きたい。さまざまなものを目に焼きつけてもっと画きたい。
欲をいえば娘として。描くことを渇望するものの一人として欠片でもいい。認めてほしい。
「見て」ほしかったのだ。わたし自身を。
堪らず目を覆い、しずかに慟哭する少女を、少年姿の総史が気遣わしげに覗き込んだ。
「……どうした。大丈夫か?」
「うん。もう平気。もう大丈夫」
こくこくと、繰り返し頷く。
かれは――拗らせて変容するまでは、わかってくれていた。
掛け違えた釦のようにひょっとしたら、想い合えていたのかもしれない。或いは好敵手として。
できれば、後者でありたかったけれど。
「っ……ふぅ……」
嗚咽の合間にため息が一つ、こぼれる。
ぐいっと手の甲で涙を拭きとり、顔を上げた。泣いてばかりの目は腫れぼったい。
が、にこりと笑む。
「許してあげる。総史さん」
「!」
途端に、きらきらと輝きが増す。静謐な白じゃない。あたたかな金色。―――今は遠い、お陽さまの色だ。昇りたての朝日のように、心に届くまぶしさ。
(冬の白。旭の金色……?)
すとん、と腑に落ちた。
そうか、綺羅は―――……と。
ゆっくりと瞬きを一つ。
瞳に“力”を込め、改めてかれを見た。
「行って、総史さん。わかるでしょ? もう行けるはず。わたしが許したもの」
「み……お?」
瞬間、くしゃりと総史の表情が歪んだ。歪んで泣く。呆気ないほどの潔さで、堰を切ったかのように。
「ごめ……っ……ごめん! おれ、お前が好きで……なのに許せなくて。どうにもできなかったんだ。全部、全部手に入れたかった。お前のこと、何もかもぐちゃぐちゃにしてやりたかった」
「してたじゃない」
眉をひそめる。
つきん、と刺すような痛みににべもなく言い放つ。――これくらいは、いいでしょう?
案の定、総史は俯いた。唇を噛み、腕を両脇に垂らして皺が寄るほど矢絣の柄の着物を握りしめている。
固く瞑った目許に漂うのは、闇に似た深い悔恨の色。
――ほんの一滴、狂気の昏さと甘やかさも忍ばせて。
(もうわかるよ。あなたは……あなたの愛情は受け止めるには、並大抵じゃない覚悟が要る)
たとえ、返せずとも。
『澪』はそのことに気づけず、見極められなかった。だから殺されてしまったんだ。
天音は、すぅっと息を吸った。そのまま一息に、胸に去来した真実を告げる。
「もっと早くに……向かい合うべきだった。あなたに、生きてる私の声が届くうちに。
信じてた。あなたの絵に一目置いてた。一緒に腕を磨き合える年の離れた友人でいたかった。父から夫婦になるなら誰がいい? と問われて総史さんと答えたのは私よ。知らなかったでしょ?」
「う、そだ」
信じられない面持ちで目をみひらく総史に、天音が泣きそうな顔で微笑みかける。
「ほんとよ」
ふるふる、と幼子のようにかれは首を横に振った。
胸の痛みを餞に、あわいさの茶屋の店主はささやく。
「――行って。裁けるのはあなた自身。私は、あなたが喜ぶ甘い言葉なんて吐けない。だから……」
あり得たかもしれない、穏やかな時間との決別。きっぱりと言い切る。
「さよなら。総史さん」
「! ~~……ッ!!」
何ごとか叫ぶかれの声は届かない。透明な壁一枚を隔てた向こう側だ。
これまで幾度となく迎えた“お客さん”達と同じように姿が霞む。空気に溶けてゆく。
ただ、まばゆい光とともに。
かれは『澪』だった天音の痛みを抱えたまま、集約する金色の粒となって潰えた。




