31 “それ”を返して
ずっと、訊いてみたかったことがある。
――『なぜ、私を殺したの?』と。
好きだと頬を染めていた。婚約を、父から打診されたのだろうあの日。
「からす」に逃げられたあの日。
あのあとの、かれの気持ちがわからない。わからなくて――澪だった天音は振り向いた。
* * *
「……総史、さん?」
唖然とした。
そこそこの怪異に馴れた覚えはある。また、相手が一筋縄でいかない男だということも。
が、目の前の人ならぬ麗しい姿は、天音からあらゆる表情を奪うに相応しかった。
かさねて問う。その声音がわずかに掠れる。
「綺羅、なの……なんで?」
「何故、と問われてもな」
今もなお天音を腕のなかに捕らえる――綺羅の姿をまとう亡者は、くつりと微笑った。そのうつくしさに思わず背が粟立つ。
ちがう。
ちがうちがう。かれじゃない……!
総史とも言えず、綺羅とも呼べない。なのに両者の気配が一所に混在している。その有りようはひどく歪で、とにかく気持ちが悪い。
青ざめ、大きな黒曜石のごとき瞳で見上げる少女の髪を、男は愛しげに撫でた。
「!」
「ずっと、見てたんだが」
「……うん?」
触れられることには嫌悪しか湧かないが、あえて静聴の構えで挑む。
男は穏やかに話し始めた。
記憶にある総史の声と、綺羅の声が二重に響く不快を、天音は必死に堪えた。
「あの日、お前を手に入れて――おれも死んだ。しばらくは燃え落ちた離れに棲んでたんだが」
(それ、すごく迷惑な地縛霊……っ)
あえて突っ込まず、聞き流す。
だんまりの少女を気にも留めず、男は身勝手な語りを止めなかった。
「ふと、お前がいないことに気がついた。何もかもを擲って手にしたのに、消えてるなんて許せなくてな。つい、探した。かなり彷徨ったと思う。――で、ここにたどり着いたんだが。おれは姿を失ってた。そのまま、お前が“夜”と呼ぶあれに取り込まれたんだ」
「?! うそ。……いつから……」
かたかたと、身体が勝手に震えた。怖い。
あれは、私の一部だったのに―――!
「いつ……? そうだな。あの、真っ黒い妄執の固まりは、おれには心地よかった。存在が安定したのはあれのおかげだ。この姿の主が……」
片手で天音の肩を抱いたまま、そっと己れの喉仏の下を押さえる。そこに、綺羅の鈴はない。
「……お前に触れただろう? お前が、ひどく泣いて寝入ったときだ。正確には、消えたこいつの残滓が、結界に入れず荒れ狂ってたあれに吸い込まれた。……それを、おれが掠め取った。そこからだな。少しは自由が利くようになった。お前の“夢”にも、好きに干渉できるようになった」
「ゆ、め? 嘘。私は夢なんて見ない」
「覚えてないだけだ。夢のなかのお前は生きていた頃の記憶も、ここでの記憶も曖昧だったが素直で。…………色々、楽しませてもらったんだが?」
「!? なんてこと言うの。知らないわよ、寝てる間のことなんかっ」
ぷちん、と理性の緒が切れた。思わず振り上げた右腕は、パシン! と、いとも簡単に捕らわれてしまう。悔しさに、天音は盛大に顔を歪めた。
「く……、離しなさいよ変態! 返して。『綺羅を、放してあげて』!!」
「な、やめ――……澪!」
意識する暇もなかった。ただ、がむしゃらに“力”を使った。
きらきらと立ち上る、煌めく白い霧。つめたく、凛と清いもの。それが――ばしん! と二人の間を割く。
弾き飛ばされたのは両者ともだったが、男にそれは顕著だった。
「うぅ……ぅ」
強か背を打ち、呻くのは総史のみ。かさなる豊かな声音は聴こえない。「綺羅……?」
こわごわ問うと、応えるようにちりん、と手首の鈴が鳴った。
「!!」
天音は手首の内側を凝視した。
金色に光る綺羅の鈴。そこに、さっきまで歪められていたかれの、元々の気配を感じる。
ひんやりする。その冷たさがかれらしい。
「……綺羅」
良かった。取り戻せた――と、安堵する間もなく総史の身体が二重にぶれる。地面に転がる、その輪郭がわずかに揺らいだ。
「え……何。総史さん、どうし」
「天音!! あぶない、来い! 走れ!」
(!)
視界の端で、黒羽を露にして縁側から飛び来る烏が見えた。
天音はとっさに、それに従う。
玉砂利が足の裏を滑って走りづらい。
見かねたように、がばっと背に腕を回される。膝の裏も。結果、あっという間に抱えられた少女は草履を履いたまま縁側を越え、ぽいっと十二畳間へと放り込まれた。
たまらず、天音は眉をひそめて喘ぐ。
「痛っ……つつぅ……っ?」
目をみはった。
スタン、スタンスタン!! と、茶屋中の戸という戸、窓の全てが閉まってゆく。誰も、どこにも触れていないのに。
次いでガタン、ガラガラガラ……ガタン! と、鎧戸の閉まる音が続く。
閉め切られた茶屋は、薄闇に沈んでいる。烏の身体は仄かに光を帯びていた。
手際のよすぎる戸締まりはかれの仕業なのだと、ここで漸く合点が行く。
烏、と呼ぼうとした。次の瞬間。
「くるぞ」
「――――っ?!」
ドォ……オオオォン……!!!
耳が痛い。理不尽な密度で大気が急激に練り上げられる。まっすぐに向かい来る真っ黒な気配。瀑布のごとき“夜”が、容赦なく茶屋全体を打ち付ける。
ミシミシ…
ガシャ! ガシャン!
軋みをあげる柱と、飴色の梁。
気のせいでなければ。
今まで一度も損なわれることのなかった茶屋の、瓦の割れる音が鈍く、妙にはっきりと届いた。




