30 向き合うこと
もう、消えるんだろうなと覚悟すると、途端に何もかもが愛しく思えた。
荒れ狂う“夜”以外はすべてがぼんやりとした色彩の、あわいさの異界。生家の離れを写し取った茶屋。……玉砂利の庭。
「じゃ、行ってくる。烏」
「おう」
縁側から草履を引っ掛けた天音は、じゃり、と足裏に丸い粒石の感触を確かめた。後ろは振り向かない。見てくれているのは、わかってる。
確かめる必要はない。
ゆっくりと歩を進める。踏み出すたびに風景が変わってゆく。
――一歩。
根本から立ち現れ、駆けあがるように像を結ぶ桜の木々。音はない。
二歩、三歩と進むたび、白っぽい染井吉野が綿雲のような花枝で空を覆う。木立と庭は、忽ち散る花びらに包まれた。
目許はまだ熱い。ちくり、と胸が痛む。
本当ならあの五日後、祝言を挙げるはずだった。「からす」を忘れることはなかったろうけど。かれも私も、互いに穏やかな幸せは見いだせたはずだ。
あの日に至るまでの、私達なら。
――八歩。翡翠色の池が玉砂利の庭の端に現れた。
苔むした組石。桜はここにも降り注ぐ。水面に落ちた花弁はしずかに、幾重にも淡い波紋を及ばせた。
伝う。広がる。その有りように、わずかに目を和ませて。
天音は顔を上げ、視線を遠くくすんだ山並みと鏡面をなすだけの湖、さらに手前の紅葉林へと向けた。
一言、ささやくように呟く。
「消えて」
異界の主の『言葉』に、視界を飾っていた絵のような景色はかき消えた。紅の一葉、ただその一片も残さずに。
天音は姿勢を変えずに目を瞑る。描く。確かこうだった―――
桜の木立より少なめの楓の若木。それが池の対岸に並ぶ。葉はまだ青い。
……そして、左側。池から離れて六歩。
す、と両腕を伸ばす。
喚ぶ。その存在の影を。
「おいで大欅」
めきめき、と音が聴こえた気がした。
「……ちょ、お前それ……力業にもほどが」と、やや離れた縁側から呆然とした声が届いた気もするが、無視した。
そう。ここは茶屋。焼け落ちたあの離れじゃない。でも――
天音は目の前の樹皮に触れた。
……大きい。やはり、『影』を少し借り受けただけで存在が違う。
「ごめんね。見届けてもらったら、すぐに送り返すから」
はるか頭上、かさなる枝振りを見つめて樹に詫びる。大欅はもちろん、返事を返さなかったが。
天音は笑んだ。右手を幹に触れさせたまま、やがて素の顔に戻ると左の手首に視線を落とす。
ちりん。
わざと鳴らす。
――怖い。
怖いに決まってる。でももう死にようがない。ましてやここは、私の庭。
(いつまでも好きにはさせない)
眉根を寄せて思いを結ぶ。胸に染み落ちた一滴の恐怖と向き合い、その存在を描く。ないはずの血の気がぐんぐんと下がる。
――が、身体中が叫ぶ『拒否』を、天音は意思の力で捩じ伏せた。
「いるんでしょ総史さん」
きて。
口にはしなかった命ずる『言葉』。
けれど、かれは律儀に顕現した。
「あぁ。……澪」
じゃり、と後ろで玉砂利の鳴る音。立ち現れた気配。それはすぐ鷹揚な足どりで近づき――
「!」
天音を背から抱き締めた。
髪に埋められた、かれの口許から安堵の息が漏らされる。その生暖かさに、ぞくり、と粟立つ。
(……だめ。負けない)
震えそうになる両足を内心で叱咤する。右手は未だ樹皮に触れたまま。
齢十六。
あのとき、かれと夫婦になるはずだった姿――ここで、烏と暮らし始めるまではずっと纏っていた姿に無意識に立ち戻り、天音は唇を引き結んだ。
(……終わらせる。かれを此処に留めちゃいけない。きっぱり、離れてもらうんだ)
そっと、鈴を巻いた左手で、みずからに回された忘れようのない腕に触れた。
愛しさではない。あえて言うなら憐憫と、向き合う覚悟のみを乗せて。
「ほんと……どうしようもない人よね、総史さんって」
自分でも、呆れるほどのお人好しさで呟いた。




