28 選択(前)
烏が言った通り、甦った、すべてが暗転する直前の記憶は、本当にろくでもなかった。
たしかに。
一番名前を呼んで欲しかったひとじゃない。
それでも、夫婦になるのだと思ってた。
なのに――なぜ、あんなことになったんだろう?
沈む意識の底で、乙女は煩悶する。
* * *
『好きな奴。隠れて逢ってた奴、いたんだな』
『……え?』
祝言を五日後に控えたあの夜。澪は、咄嗟に何も返せなかった。
内心では、誰にも知られていないはずの想いに、とっくに踏ん切りを付けているつもりだった。急に冷水を浴びせられた気がした。
そもそも。
先の冬から姿を見せなくなった妖を探し、雪が解けたあとも離れの庭先でこっそり、時折かれを呼んでしまっていた。
それを見咎められたのだと思う。
言葉に詰まった自分を、どうとったのか。どう映ったかなんて、今もわからない。
わからないが――それから、二人きりの離れでむりやり組み敷かれた。
割れた器。踏みしだかれた、誰かの描きかけの絵。こぼされた墨。
精一杯の抵抗の残骸で、あたりはひどい有り様だったと思う。
最後に目に焼き付いたのは。
泣きながら、衿がはだけて露になった私の首に、ゆっくりと指をかけるかれの、苦しげな顔だった。
ぽたり、ぽたりと頬に、あの人の涙が落ちては伝ってゆく。
極めつけに、手にかかる力と相反してひどくやさしく口付けられた。
嫌悪と、絶望。
混乱と悲しみが胸の裡を真っ黒に染めあげる。
それでも一縷、どうしても信じられなくて。いやだ、やめてと訴えたくて。
振りほどこうにも力はとうに尽きていた。
肺と喉が爛れたように熱くて――――あぁ、死ぬんだと目許が潤む。
煙が、閉めきった家屋に充満していた。
皆が、麓の町へと出払った間隙を突いての呼び出し。相手がかれでは、用心のしようもなくて。
あかあかと舐めるような炎の舌は障子戸を飲み込み、畳を燻らせつつ、すぐ側まで迫っていた。
焚き火のように、パチパチと爆ぜて舞いあがる火の粉。匂いなんてもうわからない。
室内は緋色にゆらめき、覆い被さるかれの向こう側、飴色だった天井は生き物じみた焔の波にとって代わる。
狂気で悪夢、そのものだと思った。
どこからか、めきっ、みしっ……と、梁か柱が崩れる一歩手前の音が聞こえた。硝子が炙られ、ぱりん、と割れる音も。
こんなにも呆気なく、壊されてしまうのかと。慣れ親しんだ家も。自分も、と。
――切なく、やるせなくて。
かれは、とにかく何もかも燃やして一方的な想いを遂げ、最初から一緒に死のうとしたみたいだけど。
(……そんなことしなくても。追い詰められて、捕まったあの時は喉を焼かれて、もう息なんてろくに
できなかった。火の手が早くて、閉じ込められて。あっという間だったもの。なのに)
どうして、こんなことするの[したの]。
今まさに息を引き取る間際の澪と、追体験の苦しみを味わう天音の思考が、ほぼかさなった。
呟いた問いかけは音を伴わず、吐息にもならず。口のなかに苦く凝って行き場を失った。
* * *
(!)
びくっと一度、跳ねる身体。
ひゅ、うぅぅ……! と、忘れていた呼吸を思い出し、突如、肺に流れ込む空気。
意識は急激に浮上した。まるで、暗闇の泥の沼から掬いあげられたように。
「天音? 気づいたか」
「か、ら、す……?」
――ひどい夢を見た。指の先まで気だるい。熱があるかのように、ぼうっとする。
それでも無理に押しひらいた視界に最初に飛び込んだのは、昔と変わらぬ艶をまとう、紅を帯びた黒瞳。
澪、と。
最後まで呼んではくれなかった。どうしようようもなく大好きだった人外の青年。
天音は、ぱち、と瞬いた。途端に、つぅっと目じりから耳へと細く涙が伝う。
慌てて拭うと指が濡れた。その感触にぎょっとする。
「え? なんで……まさか。もう戻ったの、私達」
「おう。危機一髪だった。さすが俺」
「!! ばっかじゃ、ないの……!? そんな危ない橋だったの? じゃあ待って。ここ、茶屋ってことは…………“夜”は? 外、どうなってる?」
慌てふためき、ざっと寝かされていた畳を手で擦る。衣擦れの音とともにすばやく半身を起こした。
自分がこと切れた場所だと気づいて、反射でぞっとする。
もう、済んだことなのに。
心なし青ざめ、みずからを抱く仕草を見せる天音に、烏は気づいていたが――あえて、何も言わなかった。代わりに長い前髪をかきあげ、億劫そうにぼやいて見せる。
「俺とお前が《帰還》してすぐ、大人しくなった。でも……じき来るだろうな。怠ぃだろ? 《過去視》は結構しんどかったみたいだし」
「過去視……」
鸚鵡返しになる恋人に、ずいっと顔を寄せて烏がささやく。逃げるつもりはさらさらなかったが、畳についていた右手を、大きな左手で囚われた。
「どうする? 一旦、俺と休むか。それとも―――……あいつと落とし前、つけるか?」




