27 夢と呼応するもの
天音――むかし、“澪”と呼ばれた乙女が泣いている。
烏は、朽ち果てた庭に昔と変わらず立つ大欅の樹上、適当な枝に腰かけ、こんこんと眠る天音を膝の上に抱えていた。
カァ、カァと眷属でもないカラスが二羽、連れだって山の端へと消えてゆく。
「うるせぇな」と独り言ち、人外の青年は再び恋人の頬へと視線を滑らせた。
はらはら、はらはらと。
拭っても、拭っても涙は止まらない。
拭いて指が濡れるわけでもない。放っておいて大事ない。流れ落ちた涙を吸って、彼女の髪が濡れてしまうことはないのだが。
烏は、天音が苦しそうに顔を歪めるたび、すべらかな頬や眉間、つややかな髪を労るように撫でた。
(……昔は触れられなかったし。そもそも、そういう対象じゃなかったんだが)
それでも時おり口の端を上げ、幸せそうに微笑んでいた。見ているこちらがうっかり貰い笑みをするような。
あどけなささえ感じる罪のない笑顔は、遠い、生きていた頃の彼女がよく見せていた表情だ。
……心の大半を削られていた、見出だした彼女はすでに、そんな表情を失っていたので。
懐かしさと愛おしさ、喪われたものに対する感情が束の間、胸の奥で渦巻き、ふつふつと煮えたぎる。怒りに似たそれは、けれど、ぶつけるあてのない代物だった。
生きたままでは、彼女とは触れあえなかったから。
それに、大欅の見せる過去の夢が、あながち苦痛ばかりでもなかったのなら――労苦の甲斐はあったと思う。己の霊力も無尽蔵というわけではない。
ふと、紅のまなざしを沈む夕陽に向ける。
鬱金色の日が灰色の雲間にかがやき、あかあかとした赤光を辺り一面に投げ掛ける黄昏の時。いわゆる逢魔ヶ刻だ。
人ならぬもの。つまり自分もその間、“力”は増すが。
ちら、と眼下の廃屋を見下ろした。
そこには、あわいさの“夜”に似た靄が凝り、蠢いていた。天音の苦悶が深まるたび、そいつの闇も呼応するように深くなる。
――刻限が近い。
「悪いな、天音。あいつ、お前の夢を通して付いてきてたみたいだ……そろそろ」
戻るぞ、と唇の動きだけで囁き、烏は暫し、乙女の閉じた瞼に。わななく唇に。長い指を、そぅ……っと這わせた。
すると。
「!!」
びくんっ! と、乙女が背をのけ反らせた。烏は慌てて抱き慣れた肢体を抱え直す。
相変わらず泣いている。が、半ばひらいた唇からは「かっ……はっ、ぁぁ……」と、苦しげな音が漏れた。ひゅうひゅうと、まるで――
(来た、か)
彼女の死に際に関してはある程度予想していたが、痛々しさは只事ではなかった。胸底がひやりとする。
黒羽を背から生やした青年は意を決し、抱いた彼女の耳に顔を寄せ、直接呼び掛けた。
「……天音、おい! もういい起きろ! 目を覚ませ。それ以上は、あいつに引っ張られちまう!」
「うっ……うぅぅ……ぃや、……ぁ」
おねがい。もう、やめて。
…………そうし、さん。
「!」
僅かな空気の、漏れる音。身を切るほどの懇願とその名がこぼれた瞬間、廃屋の闇が膨れあがる――――!
ちぃっ、と苛立たしげな舌打ちを残し、烏は意志のつよい眉の下、すばやく瞑目した。しん……と、胸の裡を鎮める。深く、沈み込むほどの集中。
「《帰還・異界》……帰るぞ、天音。超特急だ」
あくまで、みずからが付けた仮の名で彼女を呼ぶ。
ひらいた眼先には、伸びあがるように廃屋の闇が迫っていたが――
ふ、と断ち切るように。
ふてぶてしい笑みをうつくしい面に浮かべ、烏は悠々とその場からかき消えた。
腕に、かれの首筋にしがみついて震える乙女を抱いたまま。
闇は、しばらくゆらり、ゆらぁりと何かを探す仕草めいた動きを見せたあと。
ぴたりと止まり、同じように消え失せた。
――――否。
二人の翔んだ道筋を正確に辿り、余裕ともとれる執拗さで、ゆぅ……っくりと追いかけた。




