20 界渡り
「つらくはないか? 天音」
「うん――平気」
店主の乙女は青年の腕のなかで、こく、と頷いた。肩を抱く手にぎゅ、と力が籠る。
困難なことなのだ。おそらく、本来は。
今、天音は正確には店主と言いづらい。何しろあの場所を作り出してからというもの、初めて――……出てきてしまったのだから。
* * *
『見に行くって……大丈夫なの? 私が、ここを離れて』
烏は不安そうな恋人をあらためて見遣り、視線をすぅ……っと囲炉裏の縁へと落とした。
すでに空となった茶器の上辺を、人差し指でなぞる。
『多分な』
『多分、て。そんな、適当な』
憤慨しそうになった天音を、烏は視線一つで制する。
『まぁ聞けよ。お前さ、自覚あるかわかんないけど、存在としては結構やばい。死者としての自覚は元からあるんだろ?』
『え。……――うん』
天音もまた、するりと逃げるように囲炉裏へと視線を移した。膝の上の茶器を、両手で包む。
見るともなしに見つめた囲炉裏のなかで燻る、灰のなかの熾火。燃えているわけじゃないのに、確かな熱を伝えるもの。
……なんとなく自身の中途半端さが身に染みて、口のなかに残る蕎麦茶の甘みとは裏腹に表情が苦くなる。
今更だ。
どうやって死んだのか、どんな人生だったのか。記憶がないだけで生前に得た知識や自分が死んでいることは、何の疑いもなく今の自分を象っている。
それが日々と呼べるかわからない繰り返しのなかで、徐々に磨りきれていることも。
――意識の磨耗。
やばい、とはそのことだろう。遅かれ早かれ何もしなくても。記憶と真名を手放したままでも。きっと、いつかは消えてしまう。その自覚は常にあった。
しゅんしゅんしゅん……と、鉄瓶の湯の沸く音だけが、しずかに響く。天音は傍らの柄杓を手に取ると、蓋を開けたままにしていた鉄瓶から湯を掬い、手元の急須に注ぎ足した。
いい加減な二番煎じだけど、まぁいいや。
『手、どかして。淹れるから』
『ん? あぁ』
烏は素直に指を退けた。湯温の熱くなった茶を注ぎ淹れる。空だった茶器は、七分目まで満たされた。
しん、と二人の間で言葉は途切れたが――茶器に手を掛けた烏は、ふたたび口をひらいた。顔つきがいつもと違う。今、言わねばと本人も何かを見極めつつ集中している。その最中に見えた。
『肉体は朽ちてる。真名と、妄執に近い記憶は、この空間に丸ごと捧げてる。じゃあ、残るお前は何か。……わかるか?』
『精神……でしょ?』
『即答かよ。まぁ、たしかに正解だ。今のお前は魂のなかでも、“心”――魂魄の大半を糧にここを築いてる。残りの最低限の喜怒哀楽を携えた精神体と言えるかな』
『……』
むずかしい。さすがは土地付きの烏天狗の総領息子。……だが。
『つまり――出られる?』
ここから。
暗に含めた物言いはきちんと伝わった。
烏は手のなかの茶器を吹いて湯気を飛ばすと、淡々と告げた。
『出られるさ。お前の精神……“力”さえ使わず温存しとけば。お前と“夜”は魂魄を通じて繋がってる。理屈では、お前がここを離れた途端にあいつは荒れ狂うだろけど。無傷で戻れば、お前なら抑えられるだろ。“界渡り”は俺がする』
問題ない。
そう、言い切った男は宣言通り、天音を茶屋から連れ出した。
* * *
“界渡り”は、天音の“力”でもできるそうだが、それだと片道で枯渇してしまうらしい。
ゆえに、天音はおとなしく烏に身を委ねて目を瞑り、空を切る大きな翼の羽音、烏の心音にのみ耳を傾ける。
ヒュウゥゥゥ……と、肌に慣れない湿った風が頬を撫でるたび、ぞくりと背が震えた。それを機敏に察した烏が、羽ばたきながらも横抱きにした天音の背に回した腕を、ぐっと身に近づけることで守ろうとする。
「無理すんな。ここは、正確には現世とあの世を結ぶ幽界……狭間の幽世だ。普通の死者なら必ず流されてくる道みたいなもんだが、時おりお前みたいにあっちにも留まらず、意思を保ったままで異界を構築する奴が現れる」
「あっち……って。留まると、幽霊?」
「あー。そうだなぁ……質によってまちまちだが。亡者は、妄執が強けりゃ強いほど質がわるい。大抵は生前の何かへの拘りだとか、執着なんだが」
「うん?」
―――……目を瞑っとけ、と厳命したのは烏だ。半端なものは見てはいけない。そんな理があるのだという。……なんとなく、わかる。
烏はいつもほど無駄口を叩かない。天音をからかいもせず、睦事の欠片も囁かない。つまり、今はそれだけ「翔ぶこと」に集中を要するのだろう。
とくん、とくんと左耳から伝わる鼓動と温もり、烏の匂いに。だから天音も集中する。
余計なことを考えないように。せめて、“界渡り”の邪魔にはならないように。
足の先にもまといつくような、ぬるい霧のような流れを感じる。知覚できるのはそこまで。だが、むしろ――
(今、このとき。何も知らないまま、烏のことだけ感じたままで消えたほうが、ずぅっと幸せなのかもしれない)
ほんの、瞬きのあいだ天音は弱くなった。
それを打ち消すように、天音に直接降る烏の声が殊更、低く響く。
「ばかなこと、考えてんじゃねーぞ。何のために俺が骨折ってると思ってんだ……覚えとけ、あとで百倍返しだ、ぞっと。
―――ほら見えた。目ぇ、開けていいぞ」
「!」
唐突に。
視てはいないが灰色じみた、重い霧のようなものを抜けた感じがした。ふぅ……っと、懐かしささえ覚える澄んだ空気の、大気の流れに天音の乏しい“心”が震える。
懐かしい。なつかしい。なつかしい……たしかに、私はここに、いた。
空を渡る烏の、つややかな黒い羽がかれの背中越しに見える。
晴天。まだ眩しい太陽からの日射しが、燦々と降り注いでいる。
眼下はうっすら、雲の下にちいさく映る。どっしりとした山々に囲まれた平地を這うように流れる川と道。その周りに家屋が密集する。
……生きる人びとの営みが、そこにある。
「――っ……ふ、ぅ……!!」
いとおしい。戻れない。……隔絶した生前の、何かへの郷愁じみた想いが突如胸に迫り、堪えきれず天音は嗚咽した。
――――抑え、られない。
開けた目を、ふたたび閉じて烏の胸に押し当てる。ぎゅ、と皺になるほど、かれの着物を握った。
一転、烏の声音がひどく優しいものとなる。
「お前さ、……多分、ほんとはめちゃくちゃすぐ泣く奴だったんだろうな……いいよ、泣いとけ。もうすぐお前の生家のあたりだ。それまでは」
目ぇ、閉じとけ。
「……」
あえて、言葉にはされなかった烏の全力の甘やかしに。天音は逆らわなかった。




