19 探るべきもの※
時間の流れは一切ない、あわいさの茶屋に薄靄の立ち込める“朝”が来る。
カラカラカラ……トン、と、鎧戸を開ける音。眩しくはない。そもそも、ほんとうの朝日ではないのだから。
店主の乙女は布団の中で、規則正しく響くその音を聞いた。何となく目を開けたくはない。再度もぞ、と頭から布団を被る。
カラカラ……トン。
自分の代わりに“朝”の合図を奏で続ける人物は、こんな時でも足音をさせない。ゆえに引き戸を開ける音のみがやたらと軽々しく茶屋に響く。
ーーこれが力の差というやつか、と思い知った。ちなみに膂力、という意味だ。
やがて、しん……と屋内が静まる。徐に声を掛けられた。
「な、天音。起きろよ」
「……」
「とっくに起きてんだろ? “夜”じゃねぇし。おーい、回復した天音さーん」
返事のない恋人に業を煮やした青年は、廊下からひょい、と襖の戸口を越え、躊躇うことなく布団の傍らに腰を降ろした。どっかりと胡座をかく。
一見無邪気な様子で首を傾げ、枕の端にはみ出た黒髪を一房、指に絡めた。……ゆっくりと、愛しげに。口ぶりは挑発的に囁きながら。
「相変わらず、ひどい女だよな、お前……。昨夜はあんだけ俺に甘えといて、朝になったら無視かよ。それとも何か? 今日は休業日か?」
「……それも、いいかも……」
くぐもった乙女の返事に、青年の片眉がぴくん、と反応した。
「へぇ、なるほど。そうかそうか。よーく、わかった。じゃあ」
「!!」
前触れなくバサァッ! と綿布団がはぎ取られた。あわや、天音の乱れた黒髪と肢体が露となる。かろうじて寝巻きの浴衣一枚はまとっているがーー
にや、と青年が意地悪な笑みを浮かべた。
「いい眺めだな」
「~~?! ばかっ! 馬鹿烏っ!! いったい全体、誰のせいよ?? あっち行って待ってて、起きるから!」
わめきながら、顔を真っ赤にさせた天音が金の瞳を潤ませる。はだけた衿の袷をかき集め、左手は腿を隠すため、慌ててくしゃくしゃになった浴衣の裾を引っ張っていた。
なお、烏の機嫌は頗る良い。にこにこと腕を組み、遠慮なく天音の全身を眺めている。
(ここで手ぇ出さねぇ俺、すげぇ紳士だな……)とは内心の声。存分に目で愉しみつつ自賛でいっぱいだが、無論口には出さない。
ぷちん。
天音の堪忍袋の緒が切れた。決然とした表情となり、すぅぅ……と、深く息を吸う。肚に充分な《力》を溜めて、いったん息を止めた。真正面から睨み上げる。
「……さっさと、縁側か囲炉裏にでも行きなさいよ、この……、変態烏ーーーーっ!!!!」
烏は、今度こそ移動させられた。
はぁ、はぁ……と荒い息をつく、涙目の天音の元に、やがて耳障りの良い、少しだけ抑えてくれているらしい笑い声が届く。
囲炉裏の方からだった。
* * *
「あー可笑しい。普通さ、男追い出すためだけに使うか? 貴重な《力》。ばっかだなぁ、結構使ったろ」
「うるっさい。放っといて。乙女の寝起きをじろじろ見たあげく着替えまで……見せるわけないでしょ。勘弁して? はい、どうぞ」
「あ、どうも」
しゅんしゅんしゅん……と、鉄瓶の湯が沸く音。天音は無駄のない、しかし忙しくはない絶妙な速度で手を動かし、瞬く間に茶の準備を整えた。
今朝は蕎麦茶。何となく好きな味で、天音は疲労感の残る朝は好んでこの茶を淹れる。ここで空腹を覚えたことはないが、たまに蕎麦湯を用意することもあった。
――生前の記憶。
習慣や、体に染みついた「何か」だろうか。
思いを馳せると、なぜか急に背筋がぞくぞくした。やはり、今朝はおかしい。
(? なぜかな……思い出さなきゃいけないこと、あるような。ここに居る意味もだけど、真名よりも大事なこと。すごく、すごく大事なこと、忘れてるような……)
烏に茶器を渡したあと。
漠然とした胸騒ぎを覚えつつ、信楽焼のざらっとした器で蕎麦茶を口に含む。土色の地肌の上に、抹茶のような釉薬がつやつやとした照りを見せる素朴な茶器。
――自分はけっこう渋好みだったのかも……と、考えている間に。
コン! と、空の茶器が囲炉裏の縁に置かれる音で我に返った。
烏に視線を流すと、先ほどまでのふざけた色は何処にもない。ひたすら真っ直ぐ、天音だけを見つめている。
つられて、怪訝な顔で金のまなざしを返した。
「どうしたの、烏?」
「うん。あのさ。今日、茶屋を休むんなら――……現世でも覗いて来るか? 一度だけ」
「!!?」
息を呑む天音と、息をひそめて視線を合わせる烏。
――――おかしい、と感じ続けた朝は胸を衝く予感の通り。やはり、はっきりとした変化をもたらす“朝”だった。




