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あわいさの茶屋  作者: 汐の音
弐 居候と色づく乙女
19/36

18 名を、呼んで

 ちりん、と鈴が鳴った。


 (綺羅(きら)だ)


 はっきり、それとわかる明晰夢(めいせきむ)。彼女は今、その只中にいる。




   *   *   *




 店主の乙女は、ふだん夢を見ない。

 自らがつくりあげた狭間(あわいさ)の異界で、「眠り」は本来必要ない。

 ただ、“力”を使いすぎて――切り離した妄執との釣り合いが取れなくなり、削がれた精神を少しでも回復させるため。

 便宜上、異界の片隅に押さえ付けていた真っ黒な()()を解き放つだけ。


 “夜”は、直視したくない。


 そんな乙女はだから、不思議に思う。今、自身がぼうっと佇むのは家の外。薄墨を溶かしたような(おり)に沈む玉砂利の庭だ。


 無意識にも見たくはないと願っていたそれが、欠片となって“夢”となり、彼女の意識を訪れている。

 だからだろう。黒いうねりはここまで降りてこない。


 ちりん、と、どこかでまた鈴が鳴った。

 ――――やっぱり綺羅だ。この気配。……どこ?


 夢のなかは無音で、轟々とうるさいはずなのに、しん、と静まり返っている。風一つない。

 乙女は口をひらく。


「綺羅……?」

「やっと来たか。この大うつけ」


 びく、と心臓が跳ねた。

 喜び。驚き。ほんの一滴の怖さ。それらがない交ぜになった表情で店主はうしろを振り返った。

 意外な近さだった。あるいは(あらわ)れた? 無意識に喚んだのかも……と、細かい疑問は浮かぶが、あっという間に手放した。


「綺羅……逢いたかった! 馬鹿はあなただよ。私、『消えないで』ってあれほど……っ」


 ぽろぽろと。

 夢だからか、ひどく素直な言葉しか出てこない。懐かしい金の獣眼。闇に白く輝く美貌の青年。ちょっと口がわるいけど、とても優しい冬の精に。


 綺羅は、走り寄って思いきり抱きついてきた乙女を、ため息まじりに抱き返した。


「消えてない。“力”のほとんどを譲っただけだ。人の精神体への譲渡は効率が悪くてな。あまり、思ったほどの効果はあげられんだが……まぁいい。この、浮気者め」


「浮気……? 心外ね、私が、いつ…………あれ?」


「気づいたか」


「いつの間に……?」


 乙女は、自身の容姿を省みた。

 腕が、覚えているより伸びた気がする。着物の(たもと)からのぞく、肘から先の内側。肌の色も抜けるように白くなった。(なまめ)かしくすらある。

 身体も、どこかおかしい。視線が高い。以前は綺羅の胸に届くか届かないかだったのに、今は、かれの鎖骨に頭を預けている。


 ――――あれ、おかしいな。確か、首筋にも届いてた気がする……?


 ちかり、と閃くような違和感。

 綺羅はそれを、強引に上向かせた乙女に無理やり口づけることで、打ち消した。


「……っ……」


 今は閉店中らしい店主の乙女は瞼を降ろし、成すがままに荒い蹂躙を受け入れる。ざわ、とおののくように胸が騒いだが、注がれた熱で“それ”は容易く流された。



 綺羅が、覚えているより積極的だ。


 そもそも、かれと身を繋げたことはないはずなのに……?

 頭のなかの、どこか醒めた部分が警鐘を鳴らす。目を覚ませ、と。



 やがて思うままにした乙女の唇から、名残惜しそうに綺羅が離れた。

 温もりが遠のき、乙女は眉をひそめる。「もういいの?」「いいわけない」と、短い応酬。

 ちりりと胸を焦がす痛みは消えないのに。

 まるで、気づいてはいけないように。


 ふたたび触れ合う――刹那。


 ぱしん!

 衝撃が二人の間を()いた。

 ちっ、と、目の前の青年が舌打ちする。


 乙女は目をみひらいた。綺羅は、そんな表情(かお)をしたりしない。いちいち人間くさい思いやりの持ち主だったが、今のそれは人間(ひと)そのもの。

 焦燥、苛立ち、満たされない欲望――覚えがあった。今は薄いけれど、かつて自分にもあったものだ。


 乙女の戸惑いをよそに、綺羅の容姿をまとう男は、すっと大きな手を差し伸べた。


「来い」


「いやよ」


 反射で答え、ハッとした。

 そう。おかしい。綺羅は……こんなに絡みつくような眼差しを投げ掛けたりはしなかった。

 ひんやりした、突き放した距離感がいっそやさしい、人外の青年だった。

 徐々に霧が晴れる。頭のなかと視界が明瞭になる。乙女はぎり、と、瞳も険しく目の前の男を()めつけた。


「あなた誰? 綺羅じゃない……ううん、綺羅の欠片も感じる。取り込んだの? あのひとを」


 白い美貌を歪ませ、男は嘲笑(わら)った。


「まったく、気づかん方がすんなり“戻れた”のに……(さか)しいな。それもまた、お前らしいが。時間切れ、か。今度はもっと早く来い、これじゃ足りない」


 男は伸ばした腕で強引に乙女を引き寄せ、かき抱いた。長い黒髪が乱される。背を這う、はっきりとした意図をともなう触れかた。塞がれそうになる唇――!


 店主は身を(よじ)って、それだけは逃れた。


「い、や……っ。違う、あなたは違う。綺羅じゃない! “――”じゃない……ッ!?」


「そう。違う。だが、お前は元々俺のものだ。()()()と情を交わすところなぞ、もう見たくない」


「え?」


 あいつ、と言われて再び胸を締めつける違和感。はたと気づく。そういえば。


「わたし、名前……?」


「あんな仮の名、忘れていい。思い出せ。お前の名前は……俺が呼んでいた、本当の名は――――」


 突如、視界が潤んでぼやけた。男の声が、落下するように急激に遠退(とおの)く。

 落ちているのは自分。

 何も聞こえない。聞こえなかった。

 かりそめの涙が頬を伝う。



 (思い出せないのは、私の名前だけじゃない。“あなた”を思い出せない。名を呼べないのが、どうしてこんなに……?)


 身が、心が二つに割かれそう。

 千々に乱れる気持ちのまま、乙女はただ一つ、辛うじて浮かんだ名を叫ぶように喉から(ほとばし)らせた。


「……たすけて……助けて、(からす)……っ!!」




   *   *   *




 ――――なんで泣いてるの? と。

 目が覚めて、まず不思議に思った。

 視線だけで、そぅっと隣を窺う。

 記憶に違わず、黒髪の烏が目を閉じて眠りを味わっている。


 (そういえば、本来は寝なくてもいいのに私に付き合ってくれてるんだっけ)


 ふわり、と込み上げる愛しさに、なぜか一滴、(かげ)りが生じた。


「……?」


 乙女は訝しげに首を傾げ、つややかな髪を垂らして眠る烏に口づけた。―――あまい。好き。間違いじゃない。


 烏の目が、ぱち、とひらく。

 乙女は、潤む瞳のままで恋人を見おろし、囁くように()い願った。


「だいて……烏。あと、名前思い出せないの。……呼んで? たくさん」


 さんざん枕を交わした恋人の、常にない弱りきった姿に、烏は紅を帯びる黒瞳をスゥ……と、すがめる。

 どこか乙女の向こう側を見据えるように。挑発的な光を乗せて。


 にや、と歪めた口許からは、身体に(じか)に響くような低い声が愉しげに(こぼ)れた。


「いいぜ……天音(あまね)。いくらでも。どれだけでも、呼んでやるよ。……おいで」




 あわいさの茶屋は、開店準備延期中。

 ――“夜”は、まだ去らない。



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