18 名を、呼んで
ちりん、と鈴が鳴った。
(綺羅だ)
はっきり、それとわかる明晰夢。彼女は今、その只中にいる。
* * *
店主の乙女は、ふだん夢を見ない。
自らがつくりあげた狭間の異界で、「眠り」は本来必要ない。
ただ、“力”を使いすぎて――切り離した妄執との釣り合いが取れなくなり、削がれた精神を少しでも回復させるため。
便宜上、異界の片隅に押さえ付けていた真っ黒なそれを解き放つだけ。
“夜”は、直視したくない。
そんな乙女はだから、不思議に思う。今、自身がぼうっと佇むのは家の外。薄墨を溶かしたような澱に沈む玉砂利の庭だ。
無意識にも見たくはないと願っていたそれが、欠片となって“夢”となり、彼女の意識を訪れている。
だからだろう。黒いうねりはここまで降りてこない。
ちりん、と、どこかでまた鈴が鳴った。
――――やっぱり綺羅だ。この気配。……どこ?
夢のなかは無音で、轟々とうるさいはずなのに、しん、と静まり返っている。風一つない。
乙女は口をひらく。
「綺羅……?」
「やっと来たか。この大うつけ」
びく、と心臓が跳ねた。
喜び。驚き。ほんの一滴の怖さ。それらがない交ぜになった表情で店主はうしろを振り返った。
意外な近さだった。あるいは顕れた? 無意識に喚んだのかも……と、細かい疑問は浮かぶが、あっという間に手放した。
「綺羅……逢いたかった! 馬鹿はあなただよ。私、『消えないで』ってあれほど……っ」
ぽろぽろと。
夢だからか、ひどく素直な言葉しか出てこない。懐かしい金の獣眼。闇に白く輝く美貌の青年。ちょっと口がわるいけど、とても優しい冬の精に。
綺羅は、走り寄って思いきり抱きついてきた乙女を、ため息まじりに抱き返した。
「消えてない。“力”のほとんどを譲っただけだ。人の精神体への譲渡は効率が悪くてな。あまり、思ったほどの効果はあげられんだが……まぁいい。この、浮気者め」
「浮気……? 心外ね、私が、いつ…………あれ?」
「気づいたか」
「いつの間に……?」
乙女は、自身の容姿を省みた。
腕が、覚えているより伸びた気がする。着物の袂からのぞく、肘から先の内側。肌の色も抜けるように白くなった。艶かしくすらある。
身体も、どこかおかしい。視線が高い。以前は綺羅の胸に届くか届かないかだったのに、今は、かれの鎖骨に頭を預けている。
――――あれ、おかしいな。確か、首筋にも届いてた気がする……?
ちかり、と閃くような違和感。
綺羅はそれを、強引に上向かせた乙女に無理やり口づけることで、打ち消した。
「……っ……」
今は閉店中らしい店主の乙女は瞼を降ろし、成すがままに荒い蹂躙を受け入れる。ざわ、とおののくように胸が騒いだが、注がれた熱で“それ”は容易く流された。
綺羅が、覚えているより積極的だ。
そもそも、かれと身を繋げたことはないはずなのに……?
頭のなかの、どこか醒めた部分が警鐘を鳴らす。目を覚ませ、と。
やがて思うままにした乙女の唇から、名残惜しそうに綺羅が離れた。
温もりが遠のき、乙女は眉をひそめる。「もういいの?」「いいわけない」と、短い応酬。
ちりりと胸を焦がす痛みは消えないのに。
まるで、気づいてはいけないように。
ふたたび触れ合う――刹那。
ぱしん!
衝撃が二人の間を割いた。
ちっ、と、目の前の青年が舌打ちする。
乙女は目をみひらいた。綺羅は、そんな表情をしたりしない。いちいち人間くさい思いやりの持ち主だったが、今のそれは人間そのもの。
焦燥、苛立ち、満たされない欲望――覚えがあった。今は薄いけれど、かつて自分にもあったものだ。
乙女の戸惑いをよそに、綺羅の容姿をまとう男は、すっと大きな手を差し伸べた。
「来い」
「いやよ」
反射で答え、ハッとした。
そう。おかしい。綺羅は……こんなに絡みつくような眼差しを投げ掛けたりはしなかった。
ひんやりした、突き放した距離感がいっそやさしい、人外の青年だった。
徐々に霧が晴れる。頭のなかと視界が明瞭になる。乙女はぎり、と、瞳も険しく目の前の男を睨めつけた。
「あなた誰? 綺羅じゃない……ううん、綺羅の欠片も感じる。取り込んだの? あのひとを」
白い美貌を歪ませ、男は嘲笑った。
「まったく、気づかん方がすんなり“戻れた”のに……賢しいな。それもまた、お前らしいが。時間切れ、か。今度はもっと早く来い、これじゃ足りない」
男は伸ばした腕で強引に乙女を引き寄せ、かき抱いた。長い黒髪が乱される。背を這う、はっきりとした意図をともなう触れかた。塞がれそうになる唇――!
店主は身を捩って、それだけは逃れた。
「い、や……っ。違う、あなたは違う。綺羅じゃない! “――”じゃない……ッ!?」
「そう。違う。だが、お前は元々俺のものだ。あいつと情を交わすところなぞ、もう見たくない」
「え?」
あいつ、と言われて再び胸を締めつける違和感。はたと気づく。そういえば。
「わたし、名前……?」
「あんな仮の名、忘れていい。思い出せ。お前の名前は……俺が呼んでいた、本当の名は――――」
突如、視界が潤んでぼやけた。男の声が、落下するように急激に遠退く。
落ちているのは自分。
何も聞こえない。聞こえなかった。
かりそめの涙が頬を伝う。
(思い出せないのは、私の名前だけじゃない。“あなた”を思い出せない。名を呼べないのが、どうしてこんなに……?)
身が、心が二つに割かれそう。
千々に乱れる気持ちのまま、乙女はただ一つ、辛うじて浮かんだ名を叫ぶように喉から迸らせた。
「……たすけて……助けて、烏……っ!!」
* * *
――――なんで泣いてるの? と。
目が覚めて、まず不思議に思った。
視線だけで、そぅっと隣を窺う。
記憶に違わず、黒髪の烏が目を閉じて眠りを味わっている。
(そういえば、本来は寝なくてもいいのに私に付き合ってくれてるんだっけ)
ふわり、と込み上げる愛しさに、なぜか一滴、翳りが生じた。
「……?」
乙女は訝しげに首を傾げ、つややかな髪を垂らして眠る烏に口づけた。―――あまい。好き。間違いじゃない。
烏の目が、ぱち、とひらく。
乙女は、潤む瞳のままで恋人を見おろし、囁くように乞い願った。
「だいて……烏。あと、名前思い出せないの。……呼んで? たくさん」
さんざん枕を交わした恋人の、常にない弱りきった姿に、烏は紅を帯びる黒瞳をスゥ……と、すがめる。
どこか乙女の向こう側を見据えるように。挑発的な光を乗せて。
にや、と歪めた口許からは、身体に直に響くような低い声が愉しげに溢れた。
「いいぜ……天音。いくらでも。どれだけでも、呼んでやるよ。……おいで」
あわいさの茶屋は、開店準備延期中。
――“夜”は、まだ去らない。