17 二心(ふたこころ)の主
『でもまぁ……とりあえず今夜はやめとけ。俺だけにしとけよ』
そう、ぬけぬけと言い放った烏につい、従ってしまった――天音は、深々とため息をついた。
「朝、だ……」
気だるげな呟き。
隣は見るまでもない。よく、わかってる。
身を起こすと、艶のある真っ直ぐな黒髪が、さらりと肩と背を流れ落ちた。
(弱い。弱すぎるわ、私……)
思わず額に手を当てて項垂れる。
同時にチラ、と見てしまった。健やかな寝息。―――整った、好みの顔。
天音は、とある衝動にひどく駆り立てられた。
「どうしよう。思いっきりひっぱたくか、つねるかしたい………って、ひゃあっ!!?」
変な声が出た。
反射で振り返り、前触れなくむき出しの背中を撫で上げた手の主をキッ! と、睨む。
手の主は悪びれず「よ。昨日はどうも?」などとニヤニヤしている。
「~~ッ……『どうも』じゃあないわよ! この変態!」
「えー。朝から天音さん、ご機嫌斜めだねぇ。なに、足りなかった?」
「……」
なにが、とは言わないが、天音もむざむざ言わせはしない。氷点下のまなざしをご機嫌な化生の顔に叩き込むと、ふいっ! と、あざやかな金色の視線を一旦閉じ、勢いよく逸らした。
……とりあえず、開店準備。
* * *
お茶を淹れる。
ただそれだけの日常の動作だが、妙に心癒されるものがある。――おそらく、亡者になってからは尚のこと。
囲炉裏で沸かした鍋の湯を、そのまま柄杓で掬い、異国渡りの急須に入れた。
なかには、日干ししてかちかちに丸まった花弁が一つと、粒の粗い焦げ茶の茶葉。それがゆらり、ゆるゆると開いてゆく。…湯にほだされるように。
(もう、いいかな)という完全なる目分量の瞬間、店主はそっと急須を傾けた。注ぐのは、青磁の小さな器。
白々と匂い立つような仄かな甘さに、特徴のある濃い香り。花茶、というらしい。
今日の客は珍しいものが好きなのだな……と、乙女は微笑んだ。そのまま朱塗りの盆に花が揺れる急須と茶器を乗せ、縁側へと運ぶ。
今日の客――中華風の衣装をまとった老婦人は、しずかに紅葉の庭を眺めていた。
「お待たせいたしました」
開け放した十二畳間を抜け、畳の縁を踏まぬように直線距離で近づいた天音が声を掛けると、婦人はゆっくりと振り返り、にこりと笑んだ。
自然と目許、口許の皺が深まる。品のよい顔だちにその年輪はしっくりと調和し、見るものを和ませた。
――……が。
「あらまぁ、ありがとう。まさか、本当に出してもらえるとは思わなかったわ。ここ、いかにも日本だもの」
「……当店は、何でもありの一軒家。“あわいさの茶屋”ですので」
天音は控えめに苦笑した。
このご婦人――穏やかななりだが癖がつよい。何というか、そこはかとなく捻れている。
カタ、と座布団の脇に盆を置くと、気を取り直し「どうぞ」と、甘やかな湯気の漂う器を手渡した。婦人も「どうも」と受け取る。……普通だ。
だが、普通の死者はこんなところを訪れない。理由もなく誰がすき好んで迷おうか。わざわざ、死んだあとにまで。
天音は今日は、座布団に乗らない。ひやりとした廊下に直接ぴん、と背筋を伸ばして座したまま、客との一線を明確に引いている。そうされたそうな望みを、肌で感じたから。
「別に、嫌いじゃなかったのよ。あの国も、あの人も」
「……」
「死んだあとまで、こんな服着てとっさに出てくるお茶の名が『花茶』ですもの。我ながら可笑しくて……ふふっ」
「あの……よろしけれぱ、他の茶もお淹れしますが?」
いつになく丁寧な天音に、老婦人は笑顔をすん、と納めてしまった。視線を落として頭を振り、「いいえ」とそれきり、再び黙ってしまう。
いくらか経ったろうか。
はらり、と。
風もないのに紅葉が散った。
「さっきの絵。やっぱり、もう一度見せてくださる?」
「えぇ。どうぞ」
天音は袂から、婦人が訪れる直前まで描いていた絵を取り出した。四つ折りにしたそれを広げ、そっと手渡す。
和紙に描かれたのは港だった。
どこか異国の街なのか。或いは異国の者が行き交う、日本のどこかなのか。
南蛮……ではない。どちらかと言うと大陸系の衣服が目立つ。やはり、あちら側の港か。
婦人は、黙してそれを眺めている。――紅葉を眺めていたのと同じほど。やがて「はぁ……選べないわぁ」と独り言つと、くっと右手の器を傾けて残りの花茶を飲み干した。
コト。
「ごちそうさま」と、伏し目がちに盆に戻す。
なるほど、と当たりをつけた天音は、ごそごそともう片方の袂から別の和紙を取り出した。
「失礼、こちらもお持ちになります?」
「え? まぁ!」
四つ折りの和紙を広げると、訝しそうな視線をさ迷わせていた老婦人は、今度は少女のように、ぱぁ…っ! と笑った。
彼女の手元の和紙には、以前烏の身内の少年が訪れたとき、手慰みに描いた紅葉と青葉の絵――この庭が描かれている。
それは、婦人の記憶のどこかに引っ掛かったのだろう。ひどく嬉しそうににこにこと笑んだあと。なんと十二、三歳ほどの少女の姿になってしまった。
着物だ。ただし、高価な錦の中振り袖。帯は西陣。豪商の娘のような風情。柔らかな黒髪を上半分結い上げ、赤いちりめんで蝶々結びにしてある。
烏に、“夜”と“妄執”について打ち明けられてからというもの、死者の“変化”を直視しても障りはなくなった。相変わらず、どろりと胸のうちを抉るような、腸をぎゅうっと何かに掴まれるような、感覚はあるが……
それでもいいか、と店主の乙女は思う。
知って、少し前に進めた気がする。そのことにとても安堵を覚えるから。
老婦人だった少女は、滑らかに語り始めた。
「そうね。好きだったのよ、あの人のことも。好いてはもらえなくて、自棄になって海を渡っちゃったけど」
「へぇ」
(家人の誰か、だったのかな。婦人の大事な…初恋、とか)
上気した頬。素直にほころんだ口許。彼女にとってはこの頃が、生涯もっとも伸び伸びと過ごせた時代なのかもしれない。
自然と、天音の頬にも見守るような、優しい笑みが浮かんだ。
「……大丈夫。その方も、まさかこの期に及んで意地は張りませんとも。思いきって、お会いになってみられては?」
「そう? 大丈夫かしら。……覚えてて、くれてるかしら」
「思い出させる方法なんて、いくらでもお持ちのように見えますが?」
「あらそう? うふふっ……! えぇ、そうかもね」
少女は、瞳を細めて嬉しそうに笑うと『ありがとうね』と、口の形だけで礼を述べ、唐突に消えた。
かさり、と二枚の絵が座布団の上に落ちる。
天音はそれを拾い、「二心、か……、どっちも真実。そんなこともあるのね」と呟いた。
ふと過る。
(……自分なら、どうする?)
金色の目は、ここではない何処かへと天音の意思を飛ばそうとしたが、ふるふると頭を振り、押し止める。
今は、いまだけは考えないように。
……考えないようにした。