15 店主のくるしみ※
灰と水色を混ぜて薄めた空。
滲む遠景の山並みは灰緑色。
しわぶき一つ立てない、凪の湖。
まるで性質のわるい夢みたいに、精彩を欠く異界に突如生じた紅葉の紅と青葉の緑。――これはこれで、異質だ。
異質。……自分らしいな、と。
憂える乙女そのものの口許に、苦い笑みが浮かぶ。
じゃり。
「あのさ……それ、兄者には訊いたことあんの?」
うなだれる天音の背に、元襲撃者であるところの客人は遠慮がちに声をかけた。いつの間にか、下駄を履いて庭に降り立ち、二歩ほど後ろに佇んでいる。
思いがけず近い場所から聞こえた少年の声に「え?」と、天音は弾かれたように振り向いた。
まって。この子―――今、すごく大変なことを言おうとしてる。それは、……気づきたくないことだ。
なにか、声にならない不安がかけ上がって、ぎゅうっと喉を締め付ける。聞きたくない―――なのに、封じられたように声を出せない。天音は驚愕の表情も露に鬱金色の目をみひらき、両手でみずからの喉を押さえた。
「………ッ……?!」
「兄者は、現身とは別の霊体としても長く過ごしてる、烏天狗の惣領息子。化生としての格も知識も、おれなんかよりずっとずっと上だ。――おれには、あんたが普通の亡者より“力”が強いのに、“妄執”が弱すぎるってことしかわからない……すまない。あんたの問いに、答えられな……」
「こら、末の! 勝手にぺらぺら喋んじゃねぇ」
(!!)
突然、前触れなく烏のひやりと冷たい声が降ってきた。
――珍しい、怒ってる。
じゃり、と。
楽に崩した着流しをまとった、天音より二回りは大きい草履を引っかけた男の足が地に着いた。
少し遅れて、ふわっ……と黒羽根が舞う。やわらかな風が切り揃えた前髪を揺らし、天音の白い額をのぞかせた。
「烏……?」
冷や汗をかき、青ざめた恋人の顔に烏と名を呼ばれた青年は、すぅっと目を細める。「ただいま、天音」とだけ答えると素早く近づき、むき出しの額に唇を落とした。
まだ喉を押さえている天音が、わずかに震えているのに気づいた烏はそのまま、少年へと体を向けた。――かれの、“怒り”から生じる圧がすごい。背中しか見えないのに。
天音はごくりと唾を飲んだ。
「帰んな、末の」
「兄者……っ! おれは、あんたしか!!」
「聞かん。俺はもうねぐらを定めた。ここに」
くい、と。
顎で、紅葉の木を背に震える天音を指し示す。
(――!)
烏とよく似た少年は、瞬く間に激昂した。
「なんで……っ?! そいつ、毛色はちょっとおかしいけど穢らわしい、欲にまみれた人間の亡者じゃねえか! 兄者には相応しくない! 兄者の花嫁になりたがる高位のあやかしなんて、山ほどいるっての、に――……? ぅぐっ……」
「? からす……?! だめ!! 放してやって!」
「……」
どさっ! と、片手で首を絞められ、宙吊りになっていた身体が落ちた。少年は喉を押さえ、はげしく咳き込んでいる。
当の烏は顔色一つ変えず、つめたい眼差しを少年に注いだまま。天音の声には従ったが、天音のほうを決して見ない。
(……からす?)
――――ふいに、泣きたくなった。
けど泣けない。
涙は、感情的であればあるほど何かをひどく失う。あっという間に“夜”になる。
わかっているから、なるべく感情を波立たせないようにしてたのに……!
代わりに沸き上がる苛立ち。泣けない目許はただ熱いだけ。
泣きたい。くるしい。……もう、泣いてしまいたい。
気づくと、荒れ狂うままの“力”を練り上げ―――言葉に乗せていた。
「……不愉快よ、ひとの庭先で。
帰って。二人とも、ここから消えて」
「なっ……?! おい、やめろ! 天……」
青年の焦った声が、半ばから空気を震わせず、どこか硝子の壁の向こう側へと追いやられたように遠のいた。
音も立てず、影すら残さず。
よく似た面差しの二人の化生を、天音は揃って追い出した。