14 心底からの問い
「兄者を……まさか、ただのカラスだなんて、思ってないよな?」
「まさか」
ふるふる、と天音は頭を振った。
何しろあの烏と来たら、ある日突然現れて来客中の天音の描いた絵に『へぇ』と感嘆し、以来、勝手にちょくちょく訪れるようになった男だ。
あまつさえ勝手にひとを「天音」と名付け、なし崩しに恋人の座に収まり、果ては強引に同居まで決め込む始末。
――性質がわるい。
答える声は、自然と低くなった。
「あの男が……単なるカラスなわけないじゃない。“烏”と呼んでるのは皮肉よ、あいつへの。
私、さんざん『帰れ』って言ったわ。身内が居ると思ったから。……なのに、留まった。説得したいならお兄さんに直接言うのね。そのうちフラッと帰ってくるわ」
意識はしなかったが、綺羅から譲り受けた鬱金の瞳に冷気が宿る。
烏を好いてはいる。それは間違いないが―――振り回されるのは本意ではない。
天音の逆鱗に触れたのに気づいたのか、少年が少し及び腰になった。「あ、あぁ……まあ。おれも、顔を見るたび言ってはみたんだが」と、ぼそぼそと溢している。
「兄者はさ……山陰あたりの、ちょっとした山林を治める烏天狗の総領息子だ」
右手に冷えた器を持ち、澄んだ緑茶の向こうに景色を透かし見ながら、少年はぽつり、ぽつりと語り始めた。
「小さいけど古くから信仰を集める土地神様の坐す社があって。おれは末の息子。いずれは跡目を継いだ兄者の元で修行して、一緒にお仕えできると思ってたのに」
「……妙な女に引っ掛かった、と」
「そうだよ! なんだよ、わかってんじゃねえか!」
――ひどく素直な子だ。
天音は、つい微笑んだ。少年は怪訝な顔になる。
「あんた、おかしな亡者だな。兄者とは恋仲じゃねぇの? なんで、そこで笑えるんだよ」
――なんで?
天音は少し、考え込んだ。その問いに答えるのは記憶の沼底をさらうような、見えない徒労感が募る。
それでも辛うじて、掬う手のひらに引っ掛かった言葉は……やはりと言うべきか、冷たいものだった。
「笑える理由、ね……――笑うしかないからよ。自分はもう死んでる。なのに足掻いて、ここで“何か”を待ってる。でも、それは烏じゃない。……だから困ってるの。
坊や、知らない? 亡者にこんな、大それた場所が与えられるもんかしら。ここ、おかしいのよ。望めば、何だって出てくるの」
ぴた、と。
器のなかで茶を揺らしていた手が止まった。
「なに……あ! 最初の檻!! あれはそれか?!」
こくん、と天音は頷く。
「難しいことじゃないわ。この目が金色になる前からあった力なの。……こんな風に」
す、と瞼を下ろす。
眼裡に閃いたのは、一面の紅葉―――
描こう、と念じた瞬間、膝の上に和紙と墨の付いた筆が現れた。ぱっと左手で和紙をつかみ、右側の盆を退けてそっと、無地のそれを置く。
あとは、描く。
若い枝、老いた枝。細い幹、太い幹。波打ち絡み合う地面の根。様々に入り乱れる紅葉と青紅葉をないまぜに写し取る。半眼となった天音の、詰めていた息が再び動き、音をたてて吸われたとき―――
ざぁ………っ、と葉擦れの音も豊かに、舞い散るほどの紅の葉が玉砂利の庭に降った。
「!!!」
少年がすばやく息を呑み、身を強ばらせる気配が伝わる。
以前、童のために柿の木を具現化させた辺りを含め、縁側から湖までの視界を飾るようにうつくしい木々が立ち並ぶ。
天音は、ごく何気ない仕草で草履を引っかけ、庭に降り立つ。じゃり、じゃり……と歩を進め、五歩で手近な幹に辿り着いた。
手に触れる――やはり“在る”。
言い様のない不可解さに、今更ながら眉根を寄せた。
「……どう? 普通の亡者に、こんなことって出来るもんかしら……」
こつ、と幹に額を押し当てて呟いた言葉は――ずっと胸に抱えていた、おそろしいほど心底からの問い。
天音は、縁側で声もなく目をみはっているだろう少年が何も答えられはしないだろう……と、再び投げやりな笑みが口許に浮かぶのを覚えた。