12 店主の手腕
その存在は、天音が和紙に墨を落とさずとも顕現した。先ほど烏が出ていった玄関の軒下でゆらり、と空気が揺れて何かが凝る。磨り硝子に影が近づき、ぴたりと手形が付いた。
「……もし」と一声。
――当たり。化生の類いだ。男とも、女とも判断のつかない不思議な声。
天音は、ぐっと顎を引いて覚悟を決めた。土間から板間へと上がり、距離を取って落ち着いて答える。
「どうぞ、お客さん。開いてますから」
「……どうも」
少しの間のあと、カラカラ……タン、と引戸が開かれ、閉められた。―――刹那。
バササッ
「!」
天音は目をみはった。
鋭い羽音と共に一直線に迫る人影。頬と首筋をぞくりと撫でる生暖かい、重たい風圧。きらり、と閃く小刀の白っぽい硬質な光。
(まずい)と悟った瞬間、“力”を込めた声は喉から凄まじい速さで迸った。
「『檻』っ!」
ガシャン!
「えっ……うわぁ! ――っ痛ぇ!! 何だよこれ!! ふざけんな、取れ!」
突如、土間に現れた丈夫そうな鉄製の檻に捕らわれた襲撃者は、飛び掛かった勢いを消せずに強かその肩をぶつけている。
しばらく呻いていたが、すぐに立ち直った。元気よく喚いている。天音はほっとした。
「いやよ。誰が、か弱い乙女に刃物を振りかざして飛んでくる化生の言うことなんて聞くもんですか。誰? あんた」
尚も距離を保ったまま、慎重に天音は問う。
そうして、まじまじと眺めて――気がついた。烏に似ている。
ぬばたまの黒髪は、肩口まで不揃いな長さ。瞳は黒いが瞳孔の周りは紅。長い睫毛。かれに良く似た顔立ち。しかし幼い……おそらく、人間に例えれば年の頃は十四、五歳。装束は山伏のもの。一本歯の下駄を器用に履きこなし、檻の中でぶつけた肩を押さえながらしゃがんでいる。背には、見事な黒い翼。
天音は、襲撃者にそっと近づいた。途中、捕らわれた衝撃に派手に飛び散った羽根を一本、無造作に拾いながら。
「ひょっとして、烏の縁者なの?」
天音は板間の端にしゃがみ、目線を合わせて更に問うた。ほぼ確信している。だって……
「下賎な亡者ごときが、兄者をよくも“烏”などと……! 返せ! どこに隠した、我らが総領兄を!!」
烈火の気迫で怒り狂うこの――たぶん、少年は烏が以前言っていた“親兄弟”の一人だ。
(なるほど。あの男……身辺整理も碌にしないで、こっちに来たってわけね)
この場にはいない恋人の詰めの甘さに、天音はにこり、と艶やかに笑んで見せた。摘まんだ羽根はつやつやで張りがあり、手触りが良い。つい頬でもさわさわ…と、感触を確かめて鬱金色の目を細める。口許は微笑のまま。
(!)
山伏姿の少年が、息を呑む気配が伝わった。天音はお構いなしに思案に耽る。
……かれは私を“亡者”と呼んだ。追い出してもいいけど、少し話してみたい。
“なぜ、自分はここにいるのか?”
烏と暮らしても消えそうにない胸の燻りは、やっぱり知りたいからだと結論付いている。
天音は、つ、と羽根の先端を少年に突きつけて解放の条件を告げた。
「あのね、ぼうや。ここ――茶屋なの。大人しくもてなされるなら、お兄さんの行方、教えてあげるよ」
どう? と、首を傾げる天音に対し、檻の中の少年は束の間、悔しそうに顔を赤らめ―――実に、不承不承といった風情でぎこちなく頷いた。
あわいさの茶屋の店主は、ふっと笑みほころぶ。
さ。やっと営業開始。