11 裡(うち)と家(うち)で、受け入れたもの
烏と暮らすようになって二日目。変化は割合すぐに訪れた。
「う……」
呻くように声を出した天音は身体を起こした。さら、と癖のない長い黒髪がむき出しの肩と背を滑って、流れる。
ぼうっと見つめる先は、隣に眠る青年・烏。
――烏の見た目に変化はない。自分だけだ。
天音は何となく、そうっと、引き寄せられるように恋人の頬に口づけを落とそうとして……がばっと布団のなかに再度捕らえられた。「からすっ!」と文句を告げるも、仰向けに両手を押さえられては何もできない。
痛くはない、絶妙な力加減。
長い、つややかな黒髪にあかるい琥珀色の瞳の――齢十八、九ほどの女性となった天音は烏を睨めつけた。
「はなして」
「いやだ。こんなにいい女が、自分から唇を落とそうとしてくれたのに。百倍返ししないと」
「えぇ……。百倍は、怖いです。それに何なの? その態度。ちょっと見た目が成長しただけじゃない」
「これを『ちょっと』で済まそうとするお前の中身が残念すぎる……。でも、美女だから許す」
そのまま、溶けるほど深く口づけられる。
瞼を閉じて受け入れつつも、天音はぼんやりと思った。
(見た目で態度を変えられても、困る……)
甘さに流されそうになる気持ちはもちろんある。が、起きないと。
ゆっくりと、名残を惜しむように唇が離れたあと。どこか熱に浮かされたような烏の紅がかった黒瞳に、天音は出来るだけ華やかに、にこり、と微笑んだ。
「どいて。もう“朝”だから」
容赦のない恋人に、苦笑を漏らす烏。
しかし、「はいはい、家主どの」と、しぶしぶ両手首の拘束を解いてくれた。
時間の流れが存在しない、あわいさの茶屋の店主はするりと布団から抜け出る。
―――さ、開店準備。
* * *
妙齢の乙女となった天音は、いつもの山吹色の小袖と白い前掛けの出で立ちで土間に立ち、竈に火を入れて湯を沸かしている。
外は仄かに明るい。板間の向こうからは、次々に鎧戸が開けられる音が響いた。なんだか、それだけで景気がよい。
「じゃな、天音。行ってくる」
「ん、行ってらっしゃい」
割り振られた仕事をこなした同居人は、土間を通り抜けがてら、ぽん、と彼女の頭に手を置いて軽い挨拶を済ませた。
天音も特に振り返ったりはしない。
淡々と盆に乗せた茶器の状態を確認しつつ、微笑みながら言葉を返す。
開け放してあった土間の引き戸がカラカラ……トン、と閉められる。
磨り硝子越しに映る、羽ばたく翼の黒い影。羽音とともに烏の気配は消えた。
……ねぐらは此処と定めても、縄張りは毎日見て廻らないといけないらしい。
『大変だね。帰れば?』と告げると『絶対いやだ。ふざけんな、俺の決心甘く見んなよ』と、それこそ三倍返しほどの塩梅で仕返しされたのが昨日。同居の翌朝だった。
天音は、ふ、と口許に笑みを浮かべる。
何だかんだ言いつつ、好きな相手を朝夕見ていられるのは楽しい。
―――が、その時。
ゆらり、と烏が出た引き戸の向こう、軒先のあたりに違和感を覚えた。
(もう、来た……? しかも珍しい。正面から)
天音は目を閉じ、気配を探る。
おそらくは綺羅の残滓を取り込んでから身についた力。
以前は現れる直前でないと気づけなかった“揺らぎ”が、もっと早くに分かるようになった。加えて、相手の予測。――どんな霊なのか。或いは化生の類いなのか。
ぱち、と天音は目をひらいた。
「いっつも、大人しやかなお客さんばかりじゃないもんね……そっか。今日はそういう日か」
若干の遠い目のあと。
天音はカチャ、と茶器を置き、つめたい井戸水を使った水出し緑茶の準備をはじめた。