10 棲み家、在処(ありか)
「はい、天音さーん。こっち向いてー」
「えー……やです、烏さん……って、痛いっ! やめてーっ!」
やたらと陽気な呼びかけのあと。視線を逸らして明後日の方向を向いた少女に業を煮やした青年は、容赦なく恋人の柔い頬を両方から引っ張った。
美少女、形無しである。
涙目の天音にようやく溜飲が下りたのか、烏は一瞬手を離すと、ぱんっ! と、音が鳴るほど強く、今度は両手で赤らむ頬を挟んだ。「ぃたっ!」と、やはり抗議の声が上がる。
烏はお構いなしに、そのままぐぐっと顔を寄せた。力は抜かない。抜けば逃げられるとわかっている。
「目、あけて」
「いやよ」
「あけないと口づけるぞ」
「――…わかったわよ、もう!」
観念した天音は、うっすらと目を開いた。
(これが脅し文句になっちまうのも、複雑なんだが……わかってんのかね、こいつ)
心境そのまま、微妙な顔になりつつ烏は天音の瞳を覗き込んだ。「やっぱりな」と呟く。至近距離まで近づき、問うた。
「なんで、金色になってんの。教えろ」
「……」
天音は、視線を泳がせた――消えてしまった綺羅の色、獣眼ではないが、きらきらと琥珀めいて見える沈んだ金色の瞳で。
* * *
あの日、意識を失った天音が再び目覚めると周囲に誰もいなかった。
ただ、半身を起こして見回した畳の上に金色の鈴を見つけて、のそりと拾った。手の中で「チリ」と鳴るくぐもった音を聞いて、しばらく茫然としていたのを覚えている。
描いていたはずの雪景色まで消えていた。……猫の絵は残っていたけど。
「ばか…… 絵が、残っても仕方ないじゃない」
力なく呟いても、誰も答えてくれない。束の間だったが一緒に過ごすあいだに、綺羅に愛着を覚えていた。認めてしまってから、少し泣いた。
―――そうして、泣き止んでぼうっとしていたところに、昨日の宣言通り現れたのだ。烏は。
「……天音?」
名を呼ばれて、それが自分の名だと気づいて慌てた。いけない、また心を飛ばしてた。
ちらと視線を向ける。烏の表情はどこまでも真摯で、まっすぐこちらに向いている。
何となく手首に巻いてしまった金色の鈴を、無意識に触れる。チリ、とやはり音が鳴った。
烏の眉間に若干皺が寄る。半眼だ。
(怒ってる。やっぱり、感づいてるよね…)
はぁ…と天音は吐息とともに肩の力を抜いた。
頬と耳、首筋のあたりまでがっちりと烏の手が覆ってる。どうせ、逃げられっこないのだ。
もういい、愛想を尽かされても仕方がない――そんな思いで溢された言葉と声音は、思ったよりも淡々として投げやりだった。
「綺羅を、あれから“戻そう”としてたの。でも…絵に描いてる途中から、私がなんで此処にいるのかって話になって。――戻してあげる代わりに、なんでも質問に答えてくれる約束だったからだと思う。…そしたら戸締まりされて、『もう一つの方法を取ることにした』って抱かれて――口づけられた。」
「抱か……っ?!」
「あぁ、ごめん。抱きしめられてってこと」
「紛らわしいわ! ボケ!!」
一瞬、張り倒されるかと思い、身をすくませたが意外にもそのまま抱き締められた。肩口に埋められた烏の顔が熱い。黒髪が、天音の頬をふわふわと羽毛のように擽る。
そっと、背に腕をまわした。ちり……と、左腕の鈴が鳴る。天音をぎゅっと閉じ込める、烏の腕に力が入った。
「………ごめん」
何処に行った、とも消えたのか、とも言われなかった。そのことが、余計につらい。
神妙になった天音に思うところがあったのか――ふ、と肩口から笑いが漏れた。「烏?」と問うても返事はない。そのまま、くつくつと笑うことしばらく。唐突に、ぴたりと止んだ。
(何だろう。なにか、やな予感がする…)
ふわ、と肩口に当てられた烏の口許から温かく、くぐもった声が聞こえた。着物越しに伝わる吐息は温かすぎて、くすぐったい。
「お前、言ったよな。『埋め合わせする』って」
「あぁ……うん。言ったね」
「決めたわ。俺、ここに棲む」
烏は言葉と同時に顔をあげた。顔が近い。にっこりと満面の笑みを刻む――いつも、気がつくとつい見入ってしまっている――きれいな、整った顔。
一瞬遅れて、はたと気づく。
「え……えぇーーーッ?! やだやだ、だめ。なんで決めちゃったの! 駄目に決まってるでしょ此処をどこだと思ってんの!!」
「駄目じゃない。ちゃんと“契約”した。よろしくな、家主どの」
「~~ッ!! このっ……性悪烏…っ!」
あわいさの茶屋に、店主の大声がふたたび響き渡る。金色の獣眼の主が、もし聞いていたら―――『なんだ、元気だな。結構なことだ』と、目を細めたかもしれない。
今だけは、消えてしまった冬の精を想って。
ひと通り叫んだあと、天音はもう一度だけ、胸のなかの痛みをかみしめた。
絶対に、忘れないように。