タイムトラベラー、打ち明ける
正治は祥子に電話を掛けた。掛けるのはこれが初めてだった。三コールで出た。「後藤君?」遠慮がちな声が聞こえる。
「今どこにいますか」
「今、家だけど…」祥子がか細い声で答える。
「あなたに会って伝えたいことがあります。外まで出てきてくれませんか」正治は必死の思いだった。
しばらく通話が途絶える。「ちょっと待ってて」祥子の声が聞こえた。
正治にとって永遠とも思える五分間だった。祥子がアパートから出てくる。ジャージの上にコートを羽織り、スニーカーを突っかけただけの格好だ。おそらく化粧もしていない。
「祥子さん」正治は改まって言った。
「俺はあなたのことが大好きです。この一ヶ月、色々なことがあったけど、あなたと会えて毎日が充実していたし、何よりも成長することが出来ました。これで会うのが最後になるかもしれないと思って、どうしてももう一度だけ伝えたくて来ました」
正治は汗とともに瞼からも温かいものが伝うのを感じた。走ったせいで髪はぼさぼさで、服もよれていた。だがそんなことは気にしていられない。
「今まで本当にありがとう」
それは正治の、心からの感謝の気持ちだった。
祥子は涙を浮かべた。あの日と同じだと正治は思った。
しかし、祥子の口から漏れたのは「違うの」という言葉だった。
「私も正治君のことが好き。大好き」祥子の大きな瞳から涙がこぼれ落ちる。
「でもね、私はあなたと一緒にはいられない。一緒にいてはいけない人間なの」
正治はただじっと、祥子の方を見ていた。祥子は全てを話してくれた。
祥子が小学生の頃、父親が借金を残したまま蒸発してしまったこと。母親は借金を返し、祥子を大学まで通わせるために、昼夜問わず必死で働き続けたこと。そして、長年の心労が祟って三年前からうつ病を発症し、一年前に自宅で首を吊り、還らぬ人になったこと。
「その頃、お母さんは毎日ヒステリーを起こしてたの。お母さんが死ぬ前の日も、ヒステリーを起こして、私と喧嘩したの。私、二年間耐えてきたけどもう限界で、お母さんなんかいなくなればいいって言った。それが最後の言葉になったの…」
祥子の涙に、正治は胸が押しつぶされそうになった。
「だから、私は誰かと幸せになる権利なんてないの。あなたのことを好きだと思えば思うほど、苦しくなる…。私がまた不幸にさせてしまうから」
正治は祥子の方へ歩み寄り、そっと手を取った。祥子の小さな手は、かじかんで震えていた。
「俺さ、前の職場でいじめられて辞めて、その後しばらくフリーターしてたんだよね」正治は切り出した。
「その上、好きだった人にもふられて、毎日が退屈でしょうがなかった。世界の誰にも必要とされていないんだなって思った。祥子さんほどじゃないかもしれないけど、辛くて苦しかった。夜になると、自分なんか死んだ方がいいんじゃないかって、本気で考えたりもした」苦しかった頃の自分が甦る。
「でもね」正治は大きく深呼吸をした。肺に冷たい空気が入ってくる。
「ある人が教えてくれたんだ。幸せになるために大事なのは、自分自身に変わる意志があるかどうかだって。それでここに来て、関さんや吉岡さんの優しさで、仕事が好きになったし、人間的に成長出来た。そして何より、大好きな人、あなたに出逢えて、これからの人生頑張っていこうって思えた。祥子さん、あなたは俺に生きる希望をくれたんだ。だから、あなたが幸せになる権利がないと言うのなら、俺があげるよ」正治は言葉を選びながら丁寧に、思いを伝えていく。
「私…幸せになってもいいのかな」祥子が涙で腫れた目をこする。
正治は大きく頷いた。「二人で変えよう、未来を」
真剣に言葉を紡いでいく正治は一方で、まだ言うべきことがあるような気がしていた。それは大きな意味のある、そして同時にとても危険を孕んだ言葉でもあった。
「永久に現在に帰ってこられなくなります」村田の言葉が脳にこだまする。
それでも――正治は祥子と一緒にいたいと思った。守りたいと思った。幸せになりたいと思った――そして、とうとう言った。
「俺、実はタイムトラベラーなんです」
この言葉は正治にとって、プロポーズと同義であった。
祥子は口を大きく開けている。目は何かを考えているのか、せわしなく動き回る。
その反応はおよそ正治が予想していたものではなかった。そして、返事はさらに予想だにしていないものだった。
「実は私もタイムトラベラーなの」
今度は正治が同じ表情をする番だった。必死に脳をフル回転させる。
すると、正治は突然、村田のある言葉が脳裏をよぎった。
「ですから、そういった条件が今回の応募条件を満たしていたため、ご参加をお願いしました」
刹那、二人は全てを悟った。
時を超えた二人の愛に、言葉などもはや必要なかった。
正治は祥子の肩に手を回し、口づけを交わした。
二人はこれで、もう「現在」には戻れなくなった。しかしそれは、二人が「過去」で永遠に結ばれるということでもあった。
唇を離し、見つめ合う。永遠に時が止まればいいと、正治は思った。もっとも時を超えてなお時を止めたいというのは、虫がよすぎるかもしれない。
「村田さん、怒るかなぁ」
祥子はおそらく二度と逢うことの出来ない人のことを思いながら、正治にいたずらっぽく笑いかけた。
粉雪が二人を祝福するかのように頭上を舞っていた。