タイムトラベラー、ひた走る
2018年12月23日 東京
あっという間に一ヶ月が経ち、タイムトラベル・インターンも最終日となった。
正治は祥子にふられてから二日ほどは無気力で、関にどやされることもあったが、それ以降は立ち直った。というよりは、それまでの全てのエネルギーを仕事に向けた。コンサートが終わってすぐ始まった次のイベントでも、無事に成功を収めることが出来た。
ただしその間、祥子との会話は殆ど一切なかった。別のチームとして行動していたということもあるが、明らかに正治は避けられていた。
この日は正治の送別会として、関と吉岡に連れられて職場の隣駅の居酒屋に行った。関が乾杯の音頭をとる。
「いやー、おめでたいとはいえ残念だな。ウチで正社員になってくれればいうことなしだったんだけどな」正治の挨拶の言葉もそこそこに、関が言った。
正治はこの時代上では、正社員として転職するということになっていた。タイムトラベル・インターンの概念がないためだ。村田らがどのように工作しているのかは、正治には知る由もない。
「あーあ、後藤君も祥子ちゃんもいなくなるなんて、寂しくなるわ」と吉岡さん。
実は同じタイミングで祥子も会社を去ることになった。実家に戻るようなことを噂で聞いたが、実際に話せていないので真相は分からない。
「しかし、送別会にも来てくれないなんて、川上はドライな奴だなあ」関がビールジョッキを一瞬で空にする。今日はペースが速そうだ。
「何言ってんの」吉岡が関を非難の目で見る。そのまま視線を正治の方へ移した。
「ん、お前らなんかあったのか」関がのんびりと言う。
「とぼけないで。コンサートの日から二、三日、後藤君抜け殻だったじゃないの。煽った関さんにも責任あるんだからね」
「煽るって、悪いことしてるみたいに言うなよ」
「悪いことでしょう」吉岡の言い方に棘が出てきた。
正治は自分のせいで場の空気が悪くなるのは避けたかった。
「へへ、ふられちゃいました。いやー、いい感じだったんでいけると思ったんですけどね。世の中上手くいかねえや」敢えておどけてみせる。
正治は営業スキルに伴って、演技が上手い方だった。道化師になって、お別れの日くらいは笑顔でいたかった。
「後藤君…」吉岡が心配そうな、母親がわが子を見守るような目で正治を見る。
その表情に、正治は一瞬の油断が出来た。道化師の化粧が崩れ落ちる。
「好きだったん…ですけど…本気で…」声が震えた。
悲しい気持ちをアルコールが助長して、涙が止まらない。言葉に出来ない正治を、二人はただ見ていた。
店内では今の正治の気持ちを歌うかのような失恋バラードが、静かに流れている。
正治がひとしきり泣いた後、頬杖をついていた関が唐突に口を開いた。
「で、どうすんだ」
「どうするって…」正治が聞き返す。
「なんだ、お前一度ふられたくらいで諦めるのか」
関が泡のついた口を拭いながら言う。どうやらからかっているわけではないようだ。目が真剣だ。
「俺はな、今のかみさんには付き合うまでに五回ふられたよ。それでも六回目でようやくオーケーをもらえた。仕事終わりに待ち伏せてな。今じゃストーカーなんて言われるかもしれないが、後でかみさんに聞くと、あの時の俺の情熱が…」
「いいよその話はもう、百万回聞きました」苦笑交じりで吉岡が遮る。「大事なのはそこじゃないんでしょ?」
「そうそう、とにかくだな」関が続ける。「俺は今のかみさんがそれほど大好きだった。諦めきれなかった。周りの声や体裁なんてどうでもよかった。お前は違うのか?」
諦めきれるわけがない――祥子の優しさ、素直さ、純粋さ、笑うと目尻にしわが出来るところ――正治はたった一ヶ月だったが、祥子の全てを好きになっていた。
「いいか」関は正治をじっと見る。
「お前は仕事が早いわけでもないし、頭が切れるわけでもない。そのうえ…容姿も普通だ。男の俺が言うんだから間違いない」
正治は苦笑した。この切れ味はいつもの関だ。
「でもな、お前のいいところは、人の為に全力になれるところだ。今回のイベントだって、お前がクライアントやお客さんの為に全力で駆け回ってたことを俺たちは知ってる。それにお前、ここに来た時は生きる希望もねえみたいに死んだ目してたが、今じゃいきいきしてる。仕事を心から楽しめてるじゃないか」
関は目を赤くしている。酔ってはいるが、今までにないくらい真剣だった。
「いいか、社会人にとって仕事と恋愛ってのは表裏一体だ。二兎追うものだけが二兎を得られるんだ。だからお前は恋愛だって絶対に上手くいく」
そしてテーブルをバンと叩いた。「この俺が言うんだから間違いない」
吉岡は隣で静かに頷いている。
「変わったよ、お前は。立派だ」最後にぽつりと関は言った。
正治はまた、涙が出てきた。次から次へと頬を濡らしていく。
「変わりたいんです」タイムトラベルする前に、村田に言ったことが正治の頭に甦った。
関はその答えを今、くれた。
「だから自信を持って行ってこい。またふられたら、そん時は朝までとことん話をきいてやる」関は豪快に笑った。
「ありがとうございます」と言い残し、正治は店を飛び出した。
吉岡が追いかけてきた。「ちょっと後藤君、祥子ちゃんの居場所、分かるの?」
正治が黙ってかぶりをふる。
「祥子ちゃん、今日は家にいるって言ってたわ」吉岡は苦笑しながら教えてくれた。
「前に祥子ちゃんと二人で話したんだけどね。祥子ちゃん、後藤君ともう一度仲良くしたかったみたい。今も心のどこかでは後藤君のことを待ってるのかもしれない」
正治は礼を言い、行こうとする。「じゃあね、元気でね」と吉岡は言った。
鼻の奥がツンとした。正治にとって吉岡は姉のような、母のような存在だった。もう一度心から感謝の言葉を伝えると、吉岡は微笑んで店に戻っていった。
正治は吉岡の言葉を聞いて、居ても立っても居られなくなった。タクシーに乗ろうと乗り場に行くと、そこには行列が出来ていた。走った方が早い。
正治は駆けだした。すぐに息が切れるが、構わず足を進める。
外は雪が降り出していた。
走りながら正治は祥子のこと、これまでのことを思い出していた。
「変わりたい」と言って正治はこの世界に来た。人と上手く付き合うと決めた。困難から逃げないと決めた。目的を、希望を持って生きると決めた。そしてイベントの成功という、一つの形となって現れた。
原動力はいつも祥子だった――。
真冬だというのに汗が噴き出てきた。雪は正治の体表で溶けて水に変わる。
正治がようやく祥子の家の前に着いたのは夜の十時、タイムリミットまであと二時間だった。