タイムトラベラー、告白する
「それじゃ、改めてお疲れ様」
二人でジョッキを鳴らす。正治が選んだのは二人の最寄り駅近くの和風個室居酒屋だった。
「いやー、肉体労働の後のビールは染みるなー」祥子が目を細める。口の端には泡がついていた。
「祥子さんそれおっさんみたい」正治が笑いながら言う。だが祥子の気持ちはよく分かる。イベント設営、撤収作業の手伝いに二人は駆り出されていたのだ。日頃運動不足の正治に力仕事は応えた。
「祥子さん力あるんだね、びっくりした」十キロはありそうな大きな植木鉢を一人で軽々と抱えていたことを思い出した。
「学生時代テニス部だったからかな」祥子が答える。「正治君は何かやってたの?」
「俺はサッカー。高校の途中でやめちゃったけど」言いながら正治は、高校時代も自分がパワハラを受けて辞めたことを思い出し、自身の運命を内心で呪った。
「へえ、サッカーなんだ。正治君、どっちかっていうとバスケ顔してるから」と祥子。
「それ、どんな顔」正治は笑った。祥子はたまに不思議な感性でものを言う時がある。しかしそれもまた、可愛い。
他愛もない話が続く。二人は同い年という気軽さもあってか話が進み、比例するように酒も進んだ。
正治は楽しいと思う一方で、心の片隅では先日の祥子の涙の真相が気になっていた。母親との間に何かあったのだろうか。もしかしたら言えないことかもしれない。
正治は、聞きたい自分と聞きたくない自分が心の中でないまぜになっていた。好きな人のことを何でも知りたいというのは、自然な感情だが時に危険だ。
「そういえば祥子さん、兄弟はいるの?」正治は少し遠間から探りを入れてみた。
「当ててみて―」
「面倒見がよくて優しいから、弟がいるかな」
祥子は「そういう恥ずかしいことさらっというー」と照れながら「いないよ、一人っ子」と言った。
「え、そうなんだ。実は俺も一人っ子」
「一人っ子同盟だー」そう言って祥子が相好を崩す。「みんなからさ、一人っ子イコール自己中心的みたいな偏見持たれがちだよねえ」
「そうそう。何でも独り占めできるとか、お下がり着なくて済むとか」
しばらく一人っ子談議で盛り上がる。本来の狙いは外してしまった。
これでよかったかもしれない――と正治は思う。あと二週間で帰る身だ。深入りしすぎて傷つけることだけは避けたい。
それでもこの思いだけは伝えたい――とも正治は思っている。この心地いい関係では終わらせたくないという思いが正治にはあった。仮にだめだったとしても、旅の恥はかき捨て、タイムトラベルの恥もかき捨てである。
二時間ほど話し続けてお開きになった。祥子はご機嫌で「こんなに話したのいつぶりだろ」とその場で伸びをする。
会計は正治が払おうとしたが、祥子に固辞された。「こんなに楽しませてもらったんだから、私にも払わせて」と微笑む。その笑顔がプライスレスなんだよなあと、正治はひとりごちる。
二人で店を出る。今夜の冷え込みは強烈で、刺すような風が正面から吹き付けた。
正治はタクシーを呼ぼうかとも思ったが、祥子が「歩いて帰ろうよ」というので、そうすることにした。この前ほどは酔っていないようだ。
「見て、星がきれい」祥子が空を見上げて言った。人差し指でオリオン座をなぞり、手が冷たくなったのか、口元に当てて白い吐息を集める。
「ほんとだ」相槌を打ちながら、正治が見ているのは星空ではなく、その綺麗な横顔であった。
歩きながらとりとめのない会話をする。その傍ら、正治は告白のタイミングを窺っていた。するなら今しかないような気がしたのだ。
祥子の家――タイムリミットが近付いてきた。
思いを伝えたい衝動が込み上げた。「祥子さん」正治が呼びかける。
「ん、どうしたの」祥子が星空から正治に視線を移す。大きな瞳が夜空の星よりも輝いて見えた。
「初めて会った時から、あなたが好きです」
ついに言ってしまった――と正治は思った。
祥子はきょとんとして正治を見ている。
「こんな俺でよければ、付き合ってください」
祥子は黙って言葉を探しているようだった。正治は周りの気温が三度ほど下がったような気がした。
祥子の目から涙がこぼれた。口を開こうとしたが、あとからあとから涙が頬を、口を伝って言葉にならない。「ごめん」と一言だけ呟いて、祥子はアパートに駆けていった。
正治は目の前の出来事が上手く把握出来なかったが、自分がふられたという事実だけははっきりと分かった。
どれくらいそこに立ち尽くしていただろう。さっきまで綺麗だった星空が雲に隠れ、雨が降り出した。冷たい雫が正治の心の中を伝っていった。
気が付いたら正治は浴槽に浸かっていた。帰ってから風呂を沸かし、入るまでの記憶が欠落している。
頭の中で、祥子の「ごめん」という声だけが乱反射している。
「ふられちゃったかあ」正治は声にして呟いた。呟いた途端、さっきの光景を現実だと受け入れたとともに、今までの祥子の優しさ、笑顔が甦ってきた。
正治は声を上げて泣いた。言葉にならない感情が涙となり、声となり、正治の心の奥から溢れ出してくる。
旅の恥はかき捨て――だと内心では強がってみせていた。運が良ければ程度に思っていた。しかし正治は自分の中で、祥子の存在がここまで大きくなっているのだということを、今更知った。
風呂を上がり、髪を乾かし、床に就いても感情は収まってはくれなかった。
酔いはとっくに醒めてしまっていた。眠れるはずがなかった。