元フリーター、恋をする
正治の仕事は、イベントの企画運営である。地元商店街の祭りから有名歌手のコンサートまで、クライアントのニーズに合わせて企画し、販促、集客を行う。
正治は関、吉岡、祥子と共に、紅白歌合戦にも出場経験のある女性歌手のコンサートの案件を任された。なかなか大きな案件で忙しくなることが予想されるが、祥子に「初めて同士、頑張ろうね」と笑いかけられたので何とかなりそうだ。我ながら単純だなと正治は思う。
その日の仕事が終わるとイベント部門の十人ほどで、正治と祥子の歓迎会という名目の飲み会が行われた。たかが派遣に歓迎会を催してくれるあたり、社風の良さが窺える。
「お疲れ様です」と口々に言いながらビールジョッキを鳴らしあう。
「で、後藤ちゃん。もうパワポの使い方はマスターしたわけ」左隣から、人をからかうのが趣味の関が早速正治に絡む。
「ええ、まあ」正治が遠慮がちに答える。正直まだマスター出来たとは言い難い。そもそも正治にとって、キーボードのついた、この時代の「パソコン」なるものを触るのは初めてで、入力の煩わしさや処理の遅さにびっくりしていたのだ。
「もう関さん、後輩いじめないで。最近パワハラパワハラって世間はうるさいんだからさ」とフォローしてくれるのは吉岡だ。
正治にとってこんなことは、パワハラには全くあたらない。パワハラというのは、徹夜で作成した資料データを目の前で全消去されたり、大勢の見ている前で怒鳴りつけたり――思い出すだけで憂鬱になってくる。
「関さんはもう少し人のいいところを見てあげなきゃ。今日のクライアントへのトーク力、私感心しちゃった。ねえ、祥子ちゃん」吉岡が枝豆を口に運びながら言う。
「はい、私もびっくりしちゃいました。同期として負けてられないなー」祥子は酒に強くないのか、頬を赤くしていたずらっぽく正治の方を見る。
正治は酒に強いがひどく赤面した。トーク力は商社時代の営業スキルの賜物だ。正治はまさか、自分が辞めたブラック企業に感謝する日が来ようとは思ってもみなかった。
「ほら、美人二人から褒めてもらえたろ。これで俺がからかって落とすから、ちょうどいいバランスになるってわけ」と関。
「そんなバランスいりませんー。関さん、娘の反抗期のストレスを部下にぶつけちゃだめですよ」すかさず吉岡。
「ばれたか。でもな、お前んとこのガキだっていつかはそういう日が来るんだぞ」
「ウチの翔ちゃんは大丈夫ですぅ」吉岡が憎々しげに舌を出す。
場がドッと笑いに包まれる。どこかから「いよっ夫婦漫才」の声が上がる。正治の向かいの祥子も大口を開けて笑っていた。
正治は心から愉快な気分になるのと同時に、こんな職場の飲み会もあるのかと、なんだか不思議な気分になった。
正治の知る職場での飲み会は、とにかく上司が気持ちよくなるように、部下はひたすらお酌に気遣い。そして上司が気分よく酔ってくると始まる説教タイム。お前はあれがなってないだの、俺が若い時はこうだっただの、百万回同じ話を壊れたスピーカーのように延々と浴びせられるその時間は、苦行以外の何物でもなかった。
「ほんとに面白いね」祥子が小声で話しかける。
正治は全く同感なのと、照れくさいのとで、ぶんぶんと頷いた。そしてふと目線を左に移すと、関がおやっと面白そうな顔でこちらを見ていた。
まずいな――正治は内心顔をしかめる。関に正治の好意を知られると、性格的に色々なお節介を焼きかねない。
しかし関はそれ以上関心を示さず、別の話題を振り始めた。
正治は不安とともに、ジョッキに残ったビールを一気にあおった。
小さい子どもがいる吉岡への配慮もあり、早めに解散することになった。二次会でもあるかと思ったが、関から「川上嬢を無事に送り届けろ。これは職務命令だ」と言われ、従うことにした。大袈裟な瞬きは、目配せなのかコンタクトが外れそうになっているのか。
隣にいる祥子の方を見る。祥子はよほど酒に弱いのか、顔を真っ赤にしている。その上テンションも高い。
「私、酔うと笑い上戸なんです。笑い祥子、なんちゃって」
恐ろしくつまらないギャグを飛ばし、一人でケラケラと笑っている。ギャグのクオリティはさておき、こんな姿の祥子もまた可愛いと、正治は思う。
二人でタクシーに乗り込んだ。祥子の免許証を拝借し、運転手に行き先を告げる。正治の家とも大して離れていないようだ。
「川上さん、大丈夫?」正治はさっき買ったミネラルウォーターのペットボトルを渡す。
「ありがとう。ふふ、後藤君、優しいんだー」祥子が屈託なく笑う。
これは――正治は考える。送る口実に家まで入り、そのまま朝までパターンなのか。いいや、それはいけない。慌ててかぶりをふる。
自分自身を変えたくてタイムトラベルしてきたのだ。決して性欲を満たすためではない――正治は酒の力で失いそうになる理性を、何とか揺り起こしていた。
祥子はひとしきりテンションを上げきると、そのまま寝てしまった。正治にもたれかかる。
正治は全神経を右肩に集中させつつ、一方では自分に残る理性を総動員していた。これ以上のことが起きると、本当に間違いを起こしかねない。
そのときだった。祥子の瞳から、一筋の涙がこぼれた。「お母さん…」か細い声が涙と共に口を伝う。
正治はなんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、目をそらした。二十代後半にもなって母の名を呼び、泣くのはただ事ではない。
一ヶ月で恋をするなんて、無理があるかもしれない――正治は人を好きになることと深く知ることの間に高く聳える壁を見たような気がした。今のままでは到底登れそうにもない。
正治が隣で悶々としていることなど知らず、祥子は再び寝息を立て始めた。
タクシーが祥子のアパートの前に停まる。正治は祥子を揺り起こした。
祥子は先ほどの記憶はないようで、「ありがとう。おやすみなさい」と少し酔いが醒めたのか、柔らかく微笑んでいた。
正治は運転手と二人きりになった車内で、さっきまでの甘酸っぱさと切ないような苦さを反芻していた。