タイムトラベラー、運命の時
その日の夜、祥子は部屋で荷造りをしていた。タイムトラベルに荷造りが必要なのか祥子には分からなかったが、部屋で一人、他にすることもなかったので、祥子はひたすら手を動かしていた。そうでないと、頭に色々な思いが浮かんできてしまうからでもあった。
今日が終われば、私は帰る――祥子はテーブルの上の赤い錠剤に目をやる。これを飲んで、意識が遠のいているうちに、気が付けば祥子は「現在」へと戻っていくのだった。「現在」から来るときもそうだった。詳しい仕組みは知る由もない。
祥子の心は揺らいでいた。心の中の母の声と、昼にもらった吉岡からの言葉が、胸の中で激しく葛藤している。
私が幸せになりたいと望めば、立ち上がらせてくれる誰かが現れるのだろうか。それは、私の近くにいる――祥子は正治の顔を思い浮かべた。祥子が思い浮かべた正治は、社交的で、優しくて、純粋な目をしていた。
でも――祥子の思考は後戻りする。私は彼を傷つけてしまった。何より、「現在」に戻ってしまえば、もう二度と逢うことが出来ない。わがままだと分かっていたが、祥子は最後にもう一度だけ、正治と会って話がしたかった。
荷造りを一通り終えて、祥子は一息ついた。これであとは帰るだけ。そう思いかけて、部屋の隅に一冊の本が立てかけてあるのを見つけた。祥子が「現在」から持ってきた、母のアルバムだった。めくるとそこには若き日の母の思い出、「幸せ」が詰まっていた。祥子の頭の中にも、母との楽しかった日々が甦った。
父が出ていき、二人きりで貧しかったが、祥子にとってかけがえのない幸せな日々だった。祥子は久しぶりに穏やかな気持ちになった。
最後のページは祥子が産まれた日だった。父が撮影したのだろう。しわくちゃの祥子と疲れた笑顔の母の写真に、思わず顔がほころんだ。
すると、メモ帳の切れ端のような紙がひらひらと祥子の足元に落ちた。古く、黄ばんでいる。拾い上げると、そこには殴り書きの母の文字があった。
「祥子はまだ七才。祥子に父親はもういない。これからこの子を守ってあげられるのは私しかいない。何があっても私が守る。私の人生の唯一の宝物。命に代えてもこの子を幸せにしてあげたい」父が出て行った後に残した、母の決意の言葉だった。
「お母さん…」祥子は当時の母の気持ちを思い、胸が熱くなった。母も私と同じ一人の女、一人の人間だったんだ。不安でしょうがなかったんだ。だけど、私が幸せになるために、命に代えて守ってくれていたんだ。
祥子は、不幸に慣れていた自分を改めて恥じた。変わらなければ、と強く思った。
結露した窓をこすり、外を見ると、雪が降り始めていた。
その時、携帯電話が鳴った。着信は、正治からだった。
時刻は夜十時、タイムトラベル終了まであと二時間だった。




